第15話 四男は穏やかな日々を重ねる
僕は木剣を下ろし、手の中の感覚を確かめる。
ニコも構えを解き、両手で握っていた木剣をゆっくり下ろす。
庭には、さっきまでの打ち合いの音がもう残っていなかった。
「付き合ってくれてありがとう、ニコ」
「いえ。こちらこそ、いい運動になります」
ニコは少し照れたように笑った。
従者見習いのニコは、数年前に比べて背が伸びている。
僕も十歳になったので、以前のように見上げるほどの差はないけれど、力仕事なら、まだニコの方がずっと頼りになる。
今では、そのニコに相手をしてもらいながら、僕は木剣を振っている。
とはいっても、本格的な剣術稽古というほど立派なものではない。
構え、足運び、間合い、受け。
木剣を使った、簡単な基礎訓練に近い。
場所は、エルヴィンの小宅の裏庭だ。
以前のここは、庭というより、エルヴィンが放っておいた空き地に近かった。
伸びた草。
転がった枝。
いつからそこにあるのか分からない石。
エルヴィンに、裏庭を訓練で使ってもいいかと聞いたら、「好きにせえ」と言われた。
なので、ニコにも手伝ってもらいながら、通うたびに少しずつ片づけた。
本邸で目立つ訓練をすれば、兄たちや使用人の目に留まる。
表向きは魔力なしのままの僕が、何をしているのかと聞かれれば、説明が面倒だ。
その点、ここなら、多少変なことをしていてもエルヴィンが「儂の退屈しのぎじゃ」と言えば済む。
……済んでいるのかは分からないけれど、少なくとも今のところ問題にはなっていない。
僕は、魔力を身体へ巡らせることを、少しずつ掴めるようになっていた。
とはいえ、この世界の人たちのように、無意識に巡らせ続けることはできない。
長く保とうとすると、腹の奥から手足へ伸びていた感覚が、途中でほどけてしまう。
ただ、うまく魔力を乗せられた時だけは、僕の動きも少し鋭くなる。
最初にそれを実感した時は、自分でも驚いた。
相手は、庭の端に立てていた打ち込み用の丸太だった。
魔力を身体に巡らせようと意識しながら、いつものように木剣を振った。
振り方を変えたつもりはなかった。
けれど、打ち込んだ木剣は、乾いた音を立てて丸太に食い込んだ。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
振った感覚と、起きた結果が合っていない。
自分が振ったはずなのに、自分の腕だけで出した力には思えなかった。
だから、ニコ相手の稽古では、基本的に魔力を使わない。
魔力を乗せることはできても、まだ細かな加減まではできない。
どのくらい強くなるのかを、僕自身がまだ正確に掴めていない。
加減を誤って、ニコに怪我をさせるわけにはいかなかった。
魔力を乗せた打ち込みを人相手に試せるのは、獣人の冒険者ラウガが来ている時だけだ。
ラウガは、依頼の合間にエルヴィンの小宅へ顔を出すことがある。
正式な先生というより、たまたま来た実戦派の大人が、雑に稽古をつけてくれるようなものだ。
ラウガなら、僕が加減を誤っても受け止められる。
以前、実際に打ち込みを受けてもらった時、ラウガは眉を上げた。
『子どもにしちゃ悪くねえ。一発だけなら、大人の打ち込みと並べても見劣りしねえな』
褒められた、のだと思う。
ただし、僕の中には少しだけ引っかかるものが残った。
大人の打ち込み。
僕の魔力操作は、まだ上手いとは言えない。
それなのに、一発の重さだけなら、大人に見劣りしないという。
魔力を乗せたから、ただそれだけなのだろうか。
そう思ったけれど、答えはすぐには出なかった。
考え込む前に、ラウガの言葉が続いた。
『でも、遅いな。準備して、考えて、よしってなってから動いてる。実戦なら、その間に殴られるぞ』
その通りだった。
魔力を安定させること。
巡らせる速さ。
言葉にすればそれだけだけれど、僕にはまだ、どちらも遠い。
もちろん、続けているのは剣の稽古だけではない。
エルヴィンのもとでは、属性魔石に魔力を流す訓練も続けている。
ある程度安定して反応させることはできるようになった。
それでも、魔法らしい魔法を安定して使えるかと言われると、まだできていない。
表向きの僕は、今もまだ、魔力なしの四男である。
「ユキア様」
柔らかい声がして、僕は振り返る。
小さな籠を抱えたリズが立っていた。
籠の中には、水差しと布が入っている。
彼女は僕の視線に気づくと、背筋を伸ばした。
「お水をお持ちしました」
「ありがとう、リズ」
「お身体を拭くものも、こちらにあります」
「助かるよ」
リズは、今では僕付きの使用人見習いになっている。
最初からそうだったわけではない。
母の縁で屋敷に入った彼女は、最初はリーゼロッテ付きだった。
けれど、見習いとしては扱いにくいと見られたらしい。
そして、期待されていない四男である僕のもとへ回された。
周囲からすれば、役に立たない見習いが、魔力なしの四男に回された、ということなのだと思う。
そういう見方をされているのは、たぶんリズ自身も気づいている。
だからこそ、彼女は必要以上に頑張ろうとする。
「リズ、今日は暑いから、先に中で休んでいていいよ。片づけは僕とニコでやるから」
「いえ、大丈夫です。わたしも手伝います」
リズはすぐにそう答えた。
大丈夫。
彼女はよくそう言う。
でも、その言葉をそのまま受け取るのは少し怖い。
本当は平気ではない時でも、そう言ってしまうようなのだ。
「リズ。僕が本当に手伝ってほしい時に、君が動けなくなっていたら困る」
「えっ」
「だから、休める時に休むのも大事だと思う。無理をして、いざという時に動けなくなったら困るでしょ」
リズは少し迷ったあと、小さくうなずいた。
「……では、お言葉に甘えます」
「うん。そうして」
リズは籠を抱え直し、小宅の方へ向かった。
リズが不器用だと言われる理由は、僕にも分かる。
実際、見ていれば失敗が目につくことはある。
リーゼロッテ付きだった頃、リズが叱られているのを何度か見た。
支度が遅い。
所作がぎこちない。
見習いなのだから、もっと早く覚えなさい。
そう言われて、リズは何度も頭を下げていた。
でも、僕には、それがただの不器用さには見えなかった。
軽く持てばいいものを強く握りすぎる。
そっと置こうとすれば、かえって指先が固くなる。
本人はきちんと動こうとしているのに、身体のどこかが思うようについてきていない。
そんなふうに見えた。
だから最初は、僕と同じなのかもしれないと思った。
魔力が身体とうまく噛み合わないせいで、思うように動けないのではないか。
もしそうなら、僕がエルヴィンに教わってきたことの中に、リズにも役立つものがあるかもしれない。
けれど、エルヴィンの見方は違った。
「坊主も妙なら、連れておる娘も妙じゃな」
いつだったか、エルヴィンはそう言った。
その時のリズは、水差しを持ったまま固まっていた。
「わ、わたしが、ですか」
「自覚がないなら、なおさら面倒じゃ」
「す、すみません」
「謝る話ではない。倒れられると面倒じゃから、座れ」
言い方は雑だった。
けれど、エルヴィンはリズを追い払わなかった。
エルヴィンは、リズの魔力が本人の内側に留まらず、周囲へ薄くにじんでいるように見える、と言った。
僕とは違う。
僕は、魔力を身体へ巡らせることがうまくできない。
けれどリズは、魔力が身体の外へ流れ出ているように見えるらしい。
それが何なのかまでは、エルヴィンにも分からなかった。
リズ本人にも自覚はない。
言われてみれば、リズの近くにいる時だけ、周りの空気がどこか違う気がすることがある。
悪い感じではない。
むしろ、ほんの少しだけ息がしやすいような、場の角が丸くなるような、そんな感覚だ。
「ユキア様、片づけは終わりました」
声をかけられて、僕ははっとした。
振り返ると、ニコが木剣を壁際へ立てかけているところだった。
訓練で使用した道具は、いつもの場所に戻されている。
「ごめん。少し、ぼーっとしてた」
「いえ。たまには、ぼんやりしているくらいでちょうどいいと思います」
「そうかな」
「はい。ユキア様も、ちゃんと休んでください。さっきリズに言っていたことと同じです。片づけなら僕がやりますから」
「……それを言われると弱いな」
リズに言ったことが、そのまま自分に返ってきた。
僕が言い返せずにいると、ニコは控えめに得意そうな顔をした。
「じゃあ、中に入ろう」
「はい」
大した片づけではないけれど、終えてみるといくらか時間が経っていた。
僕はもう一度だけ庭を見回してから、ニコと一緒にエルヴィンの小宅へ向かった。
小宅に入ると、エルヴィンは机の前に座り、古い本に目を落としていた。
リズが初めてここへ来た時は、どこを見ればいいのか分からず、ひどく緊張していた。
今は、触れていい物といけない物の区別がついてきたらしい。
それだけでも大きな進歩だと思う。
ただ、リズはこの小宅に来ると、どうにも落ち着かないらしい。
机の上に積まれた紙束には触れない。
棚の魔石にも手を出さない。
けれど、机の空いた端を布で拭いたり、冷めた茶を下げようとしたり、エルヴィンの使う木杯をそっと用意したりする。
「じっとしておれんのか、お前は」
「す、すみません」
「謝る必要はない。落ち着けと言っとる」
「はい。気をつけます」
また、リズが何か危なっかしいことをしかけたらしい。
見ると、リズは木杯を持ったまま、床の本束の手前で止まっていた。
転んだわけではない。
中身をこぼしたわけでもない。
ただ、本人の顔を見る限り、転ぶのも、こぼすのも、あと少しで起きそうだった。
エルヴィンは面倒くさそうに言うけれど、本気で止めるわけではない。
リズの手元が危なっかしい時だけ、片目を細めてじっと見る。
その様子が、少しだけおかしかった。
世話を焼きたいリズと、世話を焼かれることに慣れていないエルヴィン。
どちらも真面目なのに、なぜか二人とも少し困っている。
その小さな騒ぎが落ち着くと、小宅の中にはまた、紙の匂いと古い道具の静けさが戻ってきた。
僕は、前にも開いたことのある本を棚から取り出した。
召喚に関する古い本だ。
何度も目を通しているけれど、古い言い回しが多く、文字を追うだけでも時間がかかる。
エルヴィンによると、そこには、異なる世界の魂を呼び寄せる術について書かれているらしい。
異なる世界の魂の召喚。
その言葉を聞いた時、僕は前世の世界を思い出した。
そして、前世で飼っていたしばぬぅのこと。
もしかしたら、あの子にもう一度会うことができるのだろうか。
ただ、書かれている内容は断片的で、理屈まではよく分からない。
それに、召喚には高品質の魔石や、多くの魔力が必要らしい。
今の僕には、どちらも遠い。
それでも、考えてしまう。
前世では、あまり一緒に遊んでやれなかった。
もし、この世界でまた会えるなら。
今度は広い庭を、一緒に駆け回れたらいい。
そんな現実味のないことを考えた日から、数日が過ぎた。




