間話 五男はひみつ任務を開始する
ユキアがエルヴィンの小宅へ通い始めて、少しした頃のことだった。
シリウスは、兄が平気な顔をしていたことを覚えていた。
ユキアは、小宅から帰ったあと、嫌なことは言われていないと答えた。
怖い思いもしていない。ただ、少し難しい話をしただけだと、いつものように穏やかに言っていた。
けれど、シリウスは知っている。
ユキアにいさまは優しい。
優しいから、嫌なことがあっても我慢する。
平気な顔をしているということは、平気ではないのを隠している、ということだ。
論理は曲がっていたが、シリウスの中では真っ直ぐだった。
周囲から見れば、かなり無理のある結論ではあった。
「にいさまを、ぼくが守らないと」
小さく拳を握ったシリウスは、ふと絵本を思い出した。
『にゃんぞうのひみつ任務』。
黒猫のにゃんぞうが、大切な人を守るため、こっそり任務をこなす話である。
たしか、見つからないようについていった。
たしか、影からこっそり見守っていた。
たしか、最後には大切な人を守っていた。
細かなところは少し怪しい。
だが、シリウスにとって大事なのは、そこではなかった。
にいさまを守るには、ひみつ任務が必要なのだ。
ただし、うろ覚えでは任務に失敗するかもしれない。
「エミリア、もう一回です」
「またでございますか、シリウス様」
「大事なところです」
エミリアは少し困ったように微笑みながらも、絵本を開いてくれた。
別の日には、手の空いた使用人にも頼んだ。
さらに別の日には、ユキアにも読んでもらった。
「最近、この絵本が好きなんだね」
「はい。とても大事です」
「そうなんだ」
ユキアには、シリウスが絵本に夢中になっているように見えたのだろう。
柔らかく笑って、黒猫のにゃんぞうがこっそり任務へ向かう場面を読んでくれた。
シリウスは真剣に聞いた。
読めば読むほど、自分が任務に近づいている気がした。
最初の作戦は、ニコになることだった。
ユキアが小宅へ向かう時には、ニコが迎えに行くことが多い。
ならば、ニコのふりをすれば自然に兄を連れ出せる。
シリウスは背筋を伸ばし、少し声を低くして、見よう見まねで礼をした。
「ユキアさま、おむかえにまいりました」
扉の前に立つシリウスを見て、ユキアは一度まばたきをした。
「どうしたの、シリウス」
「……しつれい、いたしました」
シリウスは静かに礼をして、廊下の角へ撤退した。
作戦は失敗である。
声も背丈も顔も違うという問題に、シリウスはその時はじめて気づいた。
しかし、そこで諦めるわけにはいかない。
次にシリウスは、気配を消す練習を始めた。
廊下を歩く使用人の後ろについていく。
柱の陰に隠れる。
扉の陰に隠れる。
カーテンの後ろに入る。
陰から様子を見るために顔を出しているので、丸わかりだった。
「シリウス様、何かご用事でしょうか」
「……なぜ分かったですか」
「お姿が見えておりましたので」
「さ、散歩をしていただけです」
使用人は笑ってよいものか迷った顔をしたが、軽く受け流した。
そして、ついに本番の日が来た。
ユキアはニコに付き添われ、エルヴィンの小宅へ向かうことになっていた。
シリウスは廊下の陰から二人を見送る。
すぐ後ろについていってはいけない。
にゃんぞうは、たしか、距離を取っていた。
だからシリウスも、少し離れて歩いた。
二人が曲がり角を曲がる。
少し待つ。
少し顔を出す。
まだいる。
よし。
また歩く。
足音を小さくする。
服の端が壁から少し出ている気もするが、たぶん大丈夫である。
「……にいさま」
小さく漏れた声に、前を歩いていたニコの肩がわずかに揺れた。
ニコは気づいていた。
ユキアも、しばらくして気づいた。
二人は振り返らないまま歩き続けた。
最近、シリウスが何度も読んでもらっていた絵本のことを、何となく察したのかもしれない。
ひみつ任務。
こっそりついていく。
たぶん、あれである。
ユキアもニコも、すぐには振り返らなかった。
ただ、歩く速さが少しだけゆっくりになった。
シリウスは、自分のひみつ任務がうまくいっていると思った。
そして、そのまま門の近くまで来たところで、任務は止められた。
「シリウス様、どちらへ」
門に立っていた見張りが、落ち着いた声で尋ねた。
シリウスはぴたりと止まる。
「……散歩です」
「門の外へ、でございますか」
「散歩とは、そういうものです」
「お付きの者は、どちらに」
「……ひとりで歩きたい時もあります」
「門の外へお出になるには、許可が必要でございます」
見張りの声は丁寧だった。
だが、そこから先へ通すつもりは少しもなさそうだった。
シリウスは、門の向こうで遠ざかるユキアとニコの背中を見た。
追わなければならない。
けれど、父の許しなく外へ出てはいけないことも知っている。
ここで任務のことを言ってしまえば、ひみつ任務ではなくなってしまう。
シリウスは悩んだ末、はっとした顔をした。
「……用事を思い出しました」
「さようでございますか」
「とても大事な用事です」
「では、お部屋までお戻りください」
「逃げるわけではありません」
「はい。足元にお気をつけくださいませ」
近くにいた使用人が、シリウスを屋敷の中へ案内する。
シリウスは何度か門の方を振り返りながらも、おとなしく戻っていった。
背中は少し悔しそうだったが、歩き方だけは堂々としている。
門の外で少し進んだところで、ユキアは足を止めた。
ニコもそれに合わせて立ち止まる。
「ニコ」
「はい」
「あれは、ひみつ任務だったのかな」
「……おそらくは」
「門で止められるところまでは、考えていなかったみたいだね」
「そのようでございます」
屋敷の方から、シリウスの声がかすかに届いた。
「次は、門のところも考えます!」
ユキアとニコは、同時に苦笑した。
シリウスのひみつ任務は、まだ終わっていないらしい。
作中絵本『にゃんぞうのひみつ任務』を、短編として別途公開しました。
単体でも読める絵本風の童話です。
詳しくは活動報告にてお知らせしています。




