第13話 魔力なし四男はお腹をさする
それから少しして、僕はいつものように机へ向かった。
エルヴィンの家の机には、本や紙束、古い道具、名前の分からない魔獣素材らしきものが並んでいる。
雑に置かれているようで、エルヴィンなりの位置があるらしく、勝手に動かすと怒られる。
その端に、小さな光属性の魔石が置かれていた。
エルヴィンが触れた時は、淡い明かりが灯った。
僕が触れた時は、冷たい石のままだった。
今、もう一度触れれば何か変わるのだろうか。
そう考えて、すぐに手を止める。
ラウガの話を聞いたからといって、急にできるようになるわけがない。
ここで勢いだけで試して、また何も起こらなかったら、きっと少し落ち込む。
落ち込むのは悪いことではない。
けれど、今日はまだ、ラウガの言葉を自分の中で転がしておきたかった。
僕は魔石へ伸ばしかけた手を引き、代わりに古い手記を開く。
文字を追いながらも、頭の隅では別の言葉が残っていた。
腹の奥。
そこから動きが始まる。
その時、少し離れた場所で、ラウガの声が低くなった。
「ファイデンに行ってきた」
ファイデン。
聞いたことのない地名だった。
「北か」
エルヴィンの声が少し低くなった。
「ああ」
その短いやり取りだけで、あまり穏やかな場所ではないのだと分かった。
僕は本に視線を落としたまま、耳だけをそちらへ向けた。
盗み聞きはよくない。
よくないけれど、同じ部屋で低い声の会話が始まれば、どうしても聞こえてしまう。
「どうじゃった」
「かなり変わってたな。周りの空気も、森の様子も前と違う。魔獣も増えてる」
「原因は分かっておるのか」
「はっきりはしねえ。けど、変な話はダンジョンの周りに集まってる」
「確かな話か」
「そこまでは言えねえ。噂も混じってる。けど、笑って流せるほど軽くもねえ」
ダンジョン。
魔獣。
北の街。
知らない話ではない。
エルヴィンの家に通うようになってから、本や雑談の中で何度か聞いた言葉だ。
でも、僕が今すぐ口を挟めるような話ではなかった。
この世界の地理も、魔物の種類も、ダンジョンというものの危険も、僕はまだ本の中でしか知らない。
ラウガの声からは、さっきまでの大ざっぱな明るさが引いていた。
かわりに、現場を見てきた人間の重さがあった。
「こっちはどうだ」
「ファイデンほどではない。目に見えて魔獣が増えたわけでも、環境が変わったわけでもない」
「何もなしか」
「東の森で、少し気になる報告があった」
「魔獣か」
「痕跡だけじゃ。普段なら小型の魔獣が寄らん辺りに出たらしい」
「迷い込んだだけかもしれねえな」
「そうじゃ。今はまだ、その程度の話じゃ」
「だが、続くなら別か」
「うむ。ファイデンと同じで、ダンジョン絡みを疑う必要が出てくる」
「東の森のダンジョンか」
「今すぐ騒ぐ話ではない。じゃが、同じような報告が増えるなら、一度本格的に調べさせた方がよい」
「今は様子見か」
「そうじゃ。見張りの目を少し増やす。それで十分じゃろう」
「その程度で済めばいいがな」
「一応、アルノルトにも言っておくか」
アルノルト。
父の名前が出て、僕は思わず顔を上げそうになった。
北の遠い街の話だと思っていたものが、ほんの少しだけ、この領地の話に近づいた気がした。
東の森。
そこがどれほど危ない場所なのか、僕にはまだ分からない。
僕に分かるのは、エルヴィンの声が、いつもより少し低かったことだけだ。
◇
その日の帰り道、僕はニコの少し後ろを歩きながら、ラウガの言葉を何度も思い返していた。
「ユキア様?」
ニコが振り返る。
「お腹が痛いのですか?」
「そんなことないよ、どうして?」
「お腹に手を当てておられましたので」
腹の奥という言葉を気にするあまり、僕はつい、自分の腹のあたりに手を当ててしまっていた。
「ちょっとお腹が空いたなぁと」
「そうでしたか。屋敷に戻りましたら、エミリア様にお伝えいたします」
「いや、それは大丈夫」
思ったより早く話が大きくなりそうだったので、僕は慌てて首を振った。
「本当に、少しだけだから」
「ですが、ユキア様は外へ出られた後ですし……」
「大丈夫。夕食まで待てるよ」
ニコはまだ少し心配そうだった。
この屋敷の人たちは、僕が外へ出ただけで少し大げさになる。
心配してくれるのは嬉しい。けれど、今気になっているのは、お腹ではなく腹の奥だった。
……いや、自分で言っていて意味が分からない。
「では、ゆっくり戻りましょう」
「うん。ありがとう」
ニコはそう言って、また前を歩き出した。
僕はその背中を追いながら、今度は腹に手を当てないように気をつける。
ラウガの言っていた感覚。
それを探すのは、屋敷に戻ってからにしよう。
そう決めて戻った僕を待っていたのは、いつもより少し量の多い夕食だった。
肉の切れ端も、野菜の煮込みも、皿の上でいつもより目立って見えた。
気のせいだろうか。
いや、たぶん気のせいではない。
ニコ。
たぶん、ニコである。
「……ありがたいけど」
小さく呟いて、僕は黙って食べた。
ニコの気遣いだと思うと、多めの夕食も悪くなかった。
その夜、僕は部屋で椅子に座り、静かに息を吸った。
ラウガの言葉が、頭の中に残っている。
腹の奥。
身体の真ん中。
そこから腕が出るような感覚。
腹の奥、という言葉で、ふと思い出したものがあった。
丹田。
前世で、呼吸法や身体を整える本を少し読んだ時に、そんな言葉を見た覚えがある。
僕は前世でも、特別に身体が強い方ではなかった。
だから、下腹部に意識を置くとか、呼吸を整えるとか、そういう話に触れたことがあった。
そして、その本にはもうひとつ、よく分からない言葉があった。
気。
たしか、丹田はその気を巡らせる時に意識する場所として書かれていた。
前世では、正直、よく分からない言葉だった。
真面目に鍛錬している人にとっては、大切な感覚だったのかもしれない。
けれど、僕にとっては、比喩や精神論に近いものだった。
でも、この世界には魔力がある。
もちろん、気が魔力そのものだと決めつけるつもりはない。
前世の言葉を、そのままこの世界に当てはめればいいというものでもない。
僕は今まで、魔力というものを、この世界の言葉だけで考えようとしていた。
そればかりを追いかけて、かえって分からなくなっていたのかもしれない。
なら、前世で知った曖昧な言葉でも、手がかりくらいにはなるのではないか。
僕はもう一度、ゆっくり息を吸った。
下腹部のあたりに、意識を置く。
そこに何かがあると決めつけるのではなく、ただ、探る。
息を吐く。
腹の奥から胸へ、肩へ、腕へ、手首へ、指先へ。
何か細いものがつながっていくように思い描く。
何かが流れたような気がした。
……いや、違うかもしれない。
ただ、僕がそう意識したから、そう感じただけかもしれない。
目を閉じて、ここに力があると思い込めば、何となくそんな気がすることはある。
それでも、今までとは少し違った。
答えが分かったわけではない。
魔力を動かせた、と言えるほどの確かな感覚もない。
ただ、何もない場所に手を伸ばしている感じではなかった。
ほんのわずかに、身体の内側が反応したような気がした。
何かを掴んだわけではない。
けれど、探す向きだけは、少し変わった気がした。




