第二十章 噂
火星の風は、乾いていた。
砂が、
靴の縁に溜まる。
遠くで、
金属が擦れる音。
人の声。
街は、
思っていたよりも静かだった。
軍の拠点でも、
研究都市でもない。
ただ、
生き残った人たちの集まり。
ユリが、
周囲を見回す。
「……水、もらえるかな」
誰に言うでもなく呟いた、その直後。
レイが、
ふっと歩き出した。
無意識だった。
露天に並ぶ簡易タンク。
再生水の配給所。
「……あ」
エリカが、
小さく声を漏らす。
――レイが、
普通に水を求めている。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
レイは、
露天の前に立った。
店主は、
年配の男。
視線を上げて、
一瞬だけ、レイを見た。
「水、分けてほしい」
レイの声は、低く、穏やかだった。
男は、
無言でタンクを傾ける。
そのとき。
隣の露天の女が、
ひそひそと話し始めた。
声は、小さい。
だが、
この距離では、聞こえる。
「……また、噂になってるよ」
「例の女の話」
レイの手が、
わずかに止まる。
「……妊娠しては、
子供を捨てるっていう……」
女の声には、
嫌悪と、恐怖が混じっていた。
「医者にも行かないし、
軍にも見せない」
「産んだら……
どこかに置いてくるらしいよ」
水の流れる音が、
やけに大きく聞こえる。
レイは、
何も言わない。
だが、
胸の奥で、
強く引かれる感覚が走った。
「……怖いよね」
別の声。
「人じゃないんじゃない?」
「……でも」
女は、
一瞬、言葉を詰まらせる。
「……泣いてたって」
その一言で、
空気が変わった。
レイは、
水を受け取り、
静かに礼を言った。
振り返る。
その表情を見た瞬間、
リオナは分かった。
――聞いた。
「……どうしたの?」
エリカが、
そっと聞く。
レイは、
一瞬、言葉を探す。
そして、
低く言った。
「……噂だ」
「妊娠しては、
子供を捨てる女がいる」
その言葉に、
ユリの胸が、強く鳴る。
「……捨てる?」
レイは、
ゆっくりと頷いた。
「産んで……
置いてくるらしい」
「……泣いてた、って」
リオナの指が、
きゅっと握られる。
エリカは、
胸に手を当てた。
あの声。
――終わらせて。
重なる。
「……場所は?」
ユリが、
短く問う。
レイは、
露天の向こうを見た。
街外れ。
砂丘の向こう。
「……誰も、
近づかない場所だ」
沈黙。
誰も、
偶然だとは思っていない。
リオナが、
一歩、前に出る。
「……行こう」
震えは、ない。
「噂でも……
聞いてしまったなら」
ユリは、
ゆっくりと頷く。
「……避けられない、
ってことだ」
エリカは、
小さく息を吐いた。
「……呼ばれてる」
レイは、
水を一口飲む。
冷たい。
現実の温度。
「……会いに行こう」
それは、
探す言葉じゃなかった。
確かめに行く言葉だった。
四人は、
露天の喧騒を背に、
歩き出す。
砂丘の向こうへ。
噂の終わりへ。
そして――
母のいる場所へ。




