第110話 聖法術師は限界を突破する
「ハアハア、も、もういろんな意味で限界ですわ……」
はっきり言いまして、私、シドのこと過小評価していましたわ。
これまでもシドの技術の素晴らしさに大興奮してきましたが、それはまだまだ入り口に過ぎなかったのですわ。
「キャサリン、もっと優しくゆっくりと法力を流さないと、死んでしまうよ。せっかくここまで順調にきたのにもったいないよ」
「わ、分かりましたわ」
(優しくゆっくり、優しくゆっくり、ああ、もうそろそろ法力が切れてしまいそうですわ。このまま法力が切れるとまたシドから……)
「シド、作業中に申し訳ないのですが、法力が切れそうですわ。あの、その、また注入を……」
「ああ分かった。法力なら結界タンクがあるから、遠慮なしに使ってくれ」
(ああ、またあの注入が受けられますわ……いや、ダメですわ! こ、公爵令嬢としてはしたない姿を晒しては!……でも、もはや抗いようがありませんわ。ミオが人前では注入しないでほしいと言った訳が本当に理解できましたわ……ああ、来る、来てしまいますわ……)
「じゃあ、注入するよ」
私はとっさにポケットからハンカチを取り出して口にくわえましたわ。
「んっ!」
(ああ、来ましたわぁぁ……シドから流れてくる温かい法力が……ああ、もう、もう限界……意識が保てませんわぁぁ……)
私は、それが何度目か既に忘れてしまうほどの法力注入に、完全に意識を飛ばされてしまいましたの。
「キャサリン! キャサリン! 眠っちゃダメだ! 仕事に戻ってくれ! キャサリン!!」
私は、肩を激しく揺さぶられてハッと意識を取り戻すと同時に、自分の口元からだらしなく『よだれ』が垂れていることに気づきましたの。
(ハンカチ! ハンカチはどこに行きましたの!? さっき咥えていたはずですわ!)
私は必死で周りを手探りしながらハンカチを探しますが、見つかりません。
(こ、公爵令嬢が素手でよだれを拭うなんてありえませんわ! いや、そもそも、人前でよだれを垂らすなんて……も、もう手遅れですわ……)
「何? ああ、ハンカチか。キャサリンが眠ってしまって、地面に落ちそうになってたから、はい、どうぞ」
(あ、ありえませんわ! あれは、私が咥えてよだれが染み込んだハンカチ! それが、シドの手に!)
私は引ったくるようにシドの手からハンカチを受け取り、口を拭いましたわ。
(ああ、もうお嫁に行けませんわ……そ、そうでしたわ! 私はシドのことを愛していますから、これはチャンスなのですわ! 責任を取って私と結婚してもらえば……)
「じゃあ、俺は仕事に戻るから引き続きよろしくね」
シドは何もなかったように、笑顔で手を振って行ってしまいましたわ。
(鬼畜、鬼畜ですわ! 私をこんなにしておいて、放置なんて! それに、こんな状態で休憩なしに仕事を続けさせるなんて!)
と、内心で怒ってみても――空回りするだけで、何も変わりませんわ。
「はぁぁ、文句を言っても、この状況は変わりませんわ……」
私は深いため息をつき、周囲を見回しました。
そこには整然と並ぶ、大型種の陸亀と超大型のダンジョンボスの山、山、山。
私の置かれている今の状況は、シドの提案した陸亀狩りの行程に端を発しますわ。
シドが狩りを開始したあの時、彼は迫りくる先頭の大型種の陸亀に対し、相手の認識速度を超える速度で近づき、ブレスを吐く余地すら与えずにあっという間に頭の上へと登ってしまいましたの。
そして、陸亀の頭部の分厚い岩のような皮膚を剣で一瞬にして削ぎ落とし、何やら光るものを突き刺したかと思えば……今度は亜空間バッグから銀糸のようなものを取り出し、突き刺した光るものと銀糸を繋げたのですわ。
さらに、シドはその銀糸の端を握ったまま、陸亀の頭部に跨りましたわ。
すると不思議なことに、陸亀はこれまでよりもキビキビ動き始め、アンデッドダンジョンのあるすり鉢状の岩場まで進んでいき、そして陸亀はうなだれ、頭を坂の下へ向けた状態で地に伏せてしまいましたの。
私たちは何が起こったのか分からず、唖然としてその光景を見ていましたが、シドは次に陸亀の首の位置に降りてきて、ヴァン支部長を呼びましたわ。
シドはヴァン支部長としばらく会話した後、剣を抜き、陸亀の喉を切り裂きましたの。
切り裂いた傷口からは大量の血が流れ出て、私はとっさに「危ない!」と叫びそうになりましたわ。
それは魔物の血は魔素を多く含み、人体に悪影響があるからですわ。
しかし、その飛び出た血は一滴たりとも人体にも地面にも触れることなく、まるで管を通るように坂の下の方にあるアンデッドダンジョンへと流れ込みましたの。
そう、それはシドが作り出した結界でしたの。
陸亀の頸部の血管から流れ出る血液が、結界の中へと流れ下り、坂の下にあるダンジョンへと結界の管を通って次々に流れ込む。
シドは陸亀の血抜きをしていたのですわ。
流れが順調なのを見て、シドは私を手招きしましたわ。
一体、私に何をさせようとしてるのか、恐る恐る、私はシドのところへ行きましたわ。
するとシドは、
「キャサリン、このミスリルの紐を持って、陸亀の意識が戻らないように、紐に聖法力を注入し続けてほしいんだ」
と、わけの分からないお願いをされましたの。
「ど、どういうことですの!? もう少し詳しい説明をお願いしますわ!」
と、お願いしたのですが、
「いいかい、あまり一度に多くの法力を流すと死んじゃうから、優しくゆっくりだよ! 優しくゆっくり!」
そう言って、シドは笑顔で、次に迫っている陸亀の方へ駆けて行きましたの。
私は陸亀の隣でミスリルの紐を持ったまま放置されてしまいましたの。
私は途方に暮れてしまいましたわ。
しかし、そんな悠長な思いは長く続きませんでしたの。
私が陸亀に視線を移した時、陸亀の目がゆっくり開き、私を見つめましたの。
(まずいですわ! わ、私、終わっちゃいましたわ!)
私は焦って頭が真っ白になってしまいましたの。
しかしその時、
「キャサリン様! 法力、法力を流してください!」
と叫ぶ声が聞こえましたの。
私は我に返って、持っていたミスリルの紐に聖法力を流しましたの。
すると、陸亀の目は血走り、口は半開きになり、そのうち目は白目に、口からは舌が飛び出て、陸亀は完全に意識を失ってしまいましたの。
「キャサリン様、少々やりすぎです」
その言葉と共に、私の後ろから現れたのはヴァン支部長でした。
私はヴァン支部長に、
「一体、これは何をさせられていますの!? 」
と、質問すると、
「ああ、これは陸亀の心臓を動かしながら血抜きをしているんです。これほどの巨体の血抜きは、心臓が止まった状態では非常に時間がかかって肉の鮮度を落としてしまう可能性があるんですよ」
と、ヴァン支部長は詳しく説明してくださいましたわ。
「なぜ血をアンデッドダンジョンに流してますの? 廃棄のためですの?」
と、次に思った疑問点を尋ねてみる。
「廃棄のためでもありますが、大型種の血は魔素濃度が濃くて、ダンジョンの活性化に使えるからです」
「活性化ですか?」
「そうです。キャサリン様とミオ嬢は最近、連日アンデッドダンジョンに入って、ドロップ品を持ち帰っておられますが、あのドロップ品はこれからのマナエルの産業を支えることになります」
(そうですわ。私たちもこのままだとすぐにアンデッドダンジョンもゴブリンダンジョンのように白化してしまうと心配していたのですわ。そのための魔素補充というわけですのね)
「なるほど、納得いたしましたわ。では、私の仕事は陸亀が覚醒しないよう、脳に聖法力を少しずつ与えて昏倒させ続けるという作業なわけですわね」
「その通りです。この個体は今の法力注入でかなり弱ってしまいましたから、心臓が止まってしまわないか心配ですが……」
(それにしても、このミスリルの紐とこの先に陸亀の脳に刺さっている光るものを通して、この巨体をここまで無力化してしまうとは、シドの能力は底が知れませんわ……って、あれ!? さっき、シドはこのミスリルの紐を持って陸亀を操っていましたわよね!? それって……)
私は驚愕の事実に気づき、ヴァン支部長に問いかけた。
「ヴァン支部長! さっき、シドはこの陸亀にまたがって、このミスリルの紐を通して陸亀を操っていたように見えたのですが……」
「気づかれましたか? 私にもそう見えました。動物を操るテイマーは職業として存在しますが、魔物を操るテイマーというのは存在しません。それは、魔物の魔素と我々の使用する法力は相反する存在であるからです。でも、シド君はそれをやっていた。驚愕の事実です」
(そうですわ。こんなことができるのは、人類の中でもシドだけですわ……)
そう思っていると、二匹目の陸亀をシドが誘導してきて、最初の陸亀の隣に同じように伏せさせましたの。
そして、一匹目と同じく、今度はミオを呼び、ミオにミスリルの紐を持たせ、聖法力を注入するように指示して、笑顔で三匹目の捕獲に向かってしまいましたの。
その後、三匹目を同じく処理し、今度はバナエル卿に法力注入を押し付けて次へと向かってしまいました。
そして結局……シドは大型種五十匹と、果ては超大型のダンジョンボスまでもを、このすり鉢状の岩場にズラリと並べてしまったのですわ。
五十匹の大型種と、果ては超大型のダンジョンボス。
合わせて五十と一匹の巨大な魔物が、心臓を動かされたまま一斉に血抜きされ、次々と解体されていく光景は……もはや筆舌に尽くし難いものでしたわ。
その後、聖属性を持つ私とミオ、そしてバナエル卿の三人は、シドがヴァン支部長を助手にして陸亀を解体している間中、すり鉢状の岩場を走り回り、覚醒しそうな陸亀を見つけては法力を注入し続けるという、地獄のルーチンワークへと追い込まれましたの。
(ああ、こんなことなら、庶民派の聖治癒師の方々にもご同行願えばよかったですわ……)
と後悔するも後の祭り。
結局、冒頭のような限界の状況に陥ってしまった、というわけですの。
(ああ、もう限界ですわ。これ以上は私の精神が保ちませんわ……)
そう思いつつ、他のメンバーを見回してみれば、ミオが見えましたわ。
ミオはさすがの法力容量の多さで、シドからの法力注入を受けないまま、陸亀に法力注入を継続している様子ですわ。
(分かっていましたが、完全に負けですわね……これが毎日、法力鍛錬しているミオと私の差なのですわね……)
ミオの家に初めて泊めてもらった日に、ミオの部屋の鍵穴から覗いた、シドとミオの法力鍛錬を思い起こし、ミオと自分の間の積み重ねの差を思い知らされましたわ。
(そうですわ! ミオとの差を嘆くのではなく、私もこれから毎日、ミオと一緒に法力鍛錬を受ければ良いのですわ! そうすればシドからの法力注入を毎日……ダメ! ダメですわ! それが目的ではありませんわ! あくまで、法力容量を増やすためですわ!)
今の作業は法力を陸亀に注入するだけという単純作業のため、一度生まれてしまった雑念はなかなか消すことは困難なのですわ。
(そう、決して私がシドの法力注入を求めて妄想しているわけではありませんわ!)
これは、かなりまずい状況ですわ。
法力を使いすぎて頭がおかしくなっている可能性もありますわ。
首を振りながら妄想を追い払おうとしますが、削れていくのは、私の理性の方。
(はあぁ、シドは私のことどう思っているのでしょうか……もっとアピールが必要なのでしょうか?)
「キャサリン! 法力流しすぎ!」
「ひ、ひゃい!」
急にシドの声が聞こえて、変な声を出してしまいましたわ。
(ああ、妄想との格闘でまた法力操作がおろそかになってしまいましたわ……)
見ると、過剰な法力を流し込まれた目の前の陸亀が、プシューッと湯気を立ててしまっていますわ!
「キャサリン、集中! 余計なことは考えずに、一点に集中して!」
「は、はいっ!」
(ああ、これは完全に『鬼のトレーナー』としてのシドのスイッチが入ってしまっていますわ!)
でも、鬼のコーチング中もシドを見つめてしまう。
(もう! 集中できないのはシドのせいですわ!)
と、言いたいところですが、そんなことは言えるはずもなく、
「全力で集中しますわ!」
と気合を入れましたわ。
「いいぞ、その意気だ!」
そう答えると、シドはまた笑顔で血抜きの終わった陸亀の解体へ戻っていきましたわ。
(それにしても、迷いのない、綺麗なさばき方ですわ……)
私はシドが振るう一振り一振りの剣の流麗さに見惚れてしまいましたの。
それがまた私を過ちへと導きましたの。
急にシドは振り向き、私を熱い視線で見つめましたの。
シドはズンズンと足音を立てて、真っ直ぐに私へと近づいてきましたの。
(ああもう、ドキドキが止まりませんわ!)
「あいた!」
「キャサリン! 集中!!」
気づいたら、シドの容赦ないげんこつが私の上に落ちていましたの。
私はもう恥ずかしさで茹で上がるように真っ赤になりながら、両手で顔を覆ってしまいましたわ。
(そう、シドが、私をこんなに夢中にしてしまうシドがいけないのですわぁぁぁ!!)
私はどうやら、理性の限界を突破して、シドの虜になってしまったようですわ。
「もうっ! シド、責任を取ってくださいまし!」
「え!? 何の?」
きょとんとするシドの声が響く中、私の乙女としての葛藤は、陸亀の解体がすべて終わるまで延々と続きましたの。
(陸亀たちには悪いことをしましたわ……ごめんなさい)




