07 結婚
六 結婚
二〇一〇年の夏が終わる頃、フロリダの天幕には二人分の物が増えていた。
ライスの楽譜と大学の書類。カダフィーの地図、布地、サングラス、油田報告。片方が置いたものを、もう片方が勝手に動かさない。その程度には、もう一緒に暮らしていた。
ある夜、停電した。
予備発電機は数秒で始動したが、空調が戻るまで少し時間がかかった。二人は外へ出た。
池の周囲には警備灯だけが残り、水面は黒かった。
カダフィーが言った。
「最初の人生で、君は結婚しなかった」
ライスは池を見たまま答えた。
「あなたもでしょう」
「国家と結婚したと言う者はいた」
「国家は夫にも妻にも向かないわ」
「君はアメリカと離婚したのか」
「退職しただけ」
発電機の音が一定になった。
「同じ人生を繰り返す必要はない」
「それは提案?」
「確認だ」
「何の」
「君がフロリダで、いつまで監視を続けるか」
「監視だけなら職員を雇える」
「では、なぜ君がいる」
ライスは、今度はすぐに答えなかった。
「あなたを連れてきたのが私だから」
「それだけか」
「あなた、答えを知ってる質問を何度もするのね」
「知らないから聞いている」
空調が戻り、天幕の布がふわりと膨らんだ。
カダフィーは立ち上がらなかった。
「君がいない四日は、長かった」
ライスが彼を見た。
「それを先に言えばいいのに」
「今、言った」
「四日もかかったわ」
「国家の決定より難しい」
「その国家、よく四十年もったわね」
「君がいなかったからだ」
ライスは吹き出した。
カダフィーも少し笑った。
それから、真顔に戻った。
「私と結婚してくれ」
「命令形は却下」
「君は文法に厳しい」
「外交では一語で国境が動くのでしょう」
カダフィーは息を吐いた。
言い直した。
「私と結婚してほしい」
ライスは池を見た。
水面の近くに二つの光が浮かび、ゆっくり動いていた。
「ワニが見ているわ」
「証人になる」
「食べられない距離ならね」
「コンドリーザ」
今度は冗談を挟ませない声だった。
ライスは彼の方を向いた。
「ええ。結婚しましょう」
カダフィーの表情が、ほんの少しだけほどけた。
「もう一度言え」
「一度で十分」
「外交では確認が必要だ」
「家庭内では不要です」
「まだ家庭ではない」
「来週にはそうなるんでしょう?」
「来週でよいのか」
「大学の予定を確認してから」
「そこからか」
翌朝、サーレム上級曹長は朝食の席で二人から聞かされた。
「式はいつですか」
驚くより先に日程を尋ねた。
「まだ決めていない」とライス。
「来週でよい」とカダフィー。
「大学の予定を確認してから」
「国家指導者の予定は」
「あなたは調整できるでしょう」
サーレムは黙って手帳を開いた。
その日から、米国政府、リビア政府、警備機関、大学、宗教関係者、報道担当者が一斉に走り始めた。
誰も、なぜ今なのか分からなかった。
公式説明は短かった。
《両名の個人的意思による》
それ以上、正確な説明もなかった。
式はフロリダの庭で行われた。
カダフィーは軍服でも勲章付きの礼装でもなく、白い長衣に深緑の外套を重ねた。ライスは、淡い金色の細い刺繍が入った白いドレスを選んだ。
大きな王冠も軍楽隊もなかった。
ただしカダフィーは式の直前まで、リビア側が用意した長い祝辞を削ろうとしなかった。
「結婚式で国家統合を三十分話す必要はないわ」
「結婚も統合だ」
「二人だけのね」
「二つの国も関係する」
「今日は関係させません」
「五分なら」
「三分」
「五分」
「四分」
「五分」
「……五分」
カダフィーは満足した。
式のあと、写真撮影になった。
人が少し離れたところで、カダフィーがライスへ小声で言った。
「フロリダへ来い、ではなく、私と一緒に来いと言った」
「まだ覚えているの?」
「忘れる理由がない」
「外交では一語で国境が動く、だったわね」
「一語で人生も動いた」
ライスは彼を見た。
「あなたの?」
「二人のだ」
「国境ではなく?」
「国境も動いた」
撮影者が、もう一枚と言った。
今度の写真では、二人とも少し笑っていた。
夜になると客は帰った。
天幕には夫妻と、片付けを終えたサーレム上級曹長だけが残った。
ライスは靴を脱ぎ、椅子へ深く座った。
「結婚生活の最初の仕事は何?」
カダフィーは机の上の報告書を見た。
「明日のリビア国防評議会」
「却下」
「では」
ライスは手を差し出した。
「食事をしましょう。夫」
カダフィーはその呼び方に一瞬黙った。
「もう一度言え」
「一度で十分」
彼はライスの手を取った。
「では、妻。食事にしよう」
二人は式でほとんど手を付けられなかった料理を温め直した。
その夜くらいは、国防評議会の報告書を開かなかった。




