16 長い夕方
十五 長い夕方
年月が過ぎた。
フロリダの天幕は、いつの間にか恒久的な家へ建て替えられていた。
本人だけは最後まで天幕だと言い張った。
「壁があるわ」
「硬い布だ」
「窓ガラスもある」
「透明な布だ」
「屋根に空調機が載っている」
「川重ではない」
ライスは夫を見た。
「そこは重要なの?」
「非常に重要だ」
池には相変わらずワニがいた。
最初の頃に設けた柵は何度も更新され、CIAの監視施設も残っていた。
若い職員の中には、一九八〇年代のカダフィーを資料でしか知らない者もいた。
彼らにとって彼は、毎朝リビア政府へ文句を言い、中国製鉄道の延伸へ口を出し、日本の空調を褒めながら日本政府を批判し、妻に薬を飲んだか確認されている、ひどく面倒な老人だった。
ある朝、若い警備職員が交代の挨拶へ来た。
カダフィーは新聞から顔を上げなかった。
「名前は」
職員が答えた。
「何年ここにいる」
「三年です」
「短いな」
ライスが横から言った。
「あなたが長すぎるのよ」
「国家指導者には経験が必要だ」
「夫にも?」
カダフィーは新聞を少し下げた。
「夫の方が難しい」
若い職員は、聞かなかったことにした。
二人の時間も変わった。
政治会議が終わったから一緒にいるのではなくなった。
何もない午後に、同じ部屋にいる。
ライスがピアノを弾く。カダフィーが新聞を読む。途中で彼が寝てしまうこともある。ライスは曲を止めず、起きても何も言わない。
どちらかが話さなくても、沈黙を埋める必要はなかった。
ある日、カダフィーが昼食を半分残した。
ライスは何も言わず電話を取った。
「誰にかけている」
「医師」
「必要ない」
「そう」
「切れ」
「先生、今日の午後は空いていますか」
「コンドリーザ」
「はい。三時でお願いします」
電話を切った。
「私は国家指導者だ」
「三時に診察です」
「国家指導者だと言った」
「聞こえました」
「命令だ」
「夫の健康管理について、あなたに指揮権はありません」
カダフィーはしばらく不満そうにしていた。
三時には診察室へ行った。
反対に、ライスが長い外遊から戻る日は、夕食が彼女の好物に変わった。
「監視が遅れた」
「それで羊肉の煮込み?」
「料理人が勝手に作った」
「私が帰る日に?」
「偶然だ」
「香辛料まで私向けにして?」
「料理人の判断だ」
「花も?」
「サーレムだ」
「サーレムさん、もう退役してるでしょう」
カダフィーは黙った。
ライスは花瓶の花を見た。
「ありがとう」
「私は何もしていない」
「ええ。そういうことにしてあげる」
歳を取っても、そのあたりは変わらなかった。
ただ、以前より言い訳が下手になった。
リビアでは、カダフィーの肖像が公共施設から少しずつ外された。
議会では彼の政策が公然と批判され、過去の殺人と弾圧を調べる委員会も設置された。
報告を読んだ日、彼は本気で怒った。
「私が国を救った」
ライスは向かいに座った。
「それも記録に残るわ」
「なら、なぜ私を調べる」
「その前に何をしたかも残るから」
「君は私を裁くのか」
「私は委員会じゃない」
「では、何だ」
ライスは少しだけ眉を上げた。
「妻よ」
カダフィーは黙った。
「あなたが何をしたか知らないふりをして一緒にいるわけじゃない。知っている。知ろうともしてきた。その上で、ここにいるの」
「全部分かったか」
「そんなわけないでしょう」
「四十年も見ていて」
「人間一人を四十年で全部分かると思う?」
「君は難しいからな」
「あなたに言われたくないわ」
しばらく睨み合って、先にカダフィーが笑った。
「それでよい」
「何が?」
「全部分からなくても、まだいる」
ライスは彼を見た。
「あなたも私を全部は分かってないでしょう」
「写真は多い」
「何の話?」
「外交資料だ」
「まだ言うのね」
カダフィーが命令しても、リビア政府や議会が従わないことが増えた。
軍も法的な承認がなければ動かない。
昔なら、彼はそれを許さなかった。
今は怒鳴ったあと、翌朝になるとまた報告書を読んだ。
あるときは三日間不機嫌だった。
四日目、朝食の席でぼそりと言った。
「私がいなくても続くのか」
ライスはコーヒーカップを置いた。
「続くわ」
「本当に?」
「あなたが命令しても動かないんでしょう?」
「腹が立つ」
「いいことじゃない」
「腹が立つと言っている」
ライスは笑った。
「じゃあ、腹を立ててなさい」
「君は冷たいな」
「四十年かけて、あなたがいなくても動く国を作ったのよ」
「そんな約束をした覚えはない」
「白い国で、何年戻せるって聞いたでしょう」
「よく覚えているな」
「付き合いが長いから」
「監視ではなく?」
ライスはしばらく彼を見た。
「もう、それだけでは足りないでしょう」
カダフィーは新聞を畳んだ。
「では何だ」
「言わせたいの?」
「聞いている」
ライスは立ち上がり、彼の隣へ回った。
「愛してるからよ」
カダフィーが顔を上げた。
「それで、あなたがいなくても国が動くところまで見届けたかった。あなたが怒っても、ふてくされても、最後にはそれを喜べるところまで一緒にいたかったの」
彼は何も言わなかった。
「何か言ったら?」
「もう一度言え」
「どこだけ?」
「最初からだ」
「長いから嫌」
「では最初の一文だけでよい」
ライスは笑った。
「愛してる」
カダフィーは彼女の手を取った。
「私もだ」
「知ってる」
「言わせておいてそれか」
「付き合いが長いから」
夕方の窓に、フロリダの空が赤く映った。
夫婦という一語で全部が説明できるわけではなかった。
けれど、その一語をわざわざ避ける必要も、もうなかった。
二人は夫婦だった。
ずいぶん長いこと。




