行ってきます!⑥
◇
「アイラ、そろそろご飯ができるよ。」
大きな手が私の肩を優しく揺らす。
この手を知っている。
小さい頃から、いつも私を起こしてくれる手だ。
「んぅ……。」
寝ぼけながら、ゆっくりと上半身を起こす。
まだ開かない瞼の向こうから、朝日の明るさを感じた。
「あらあら、成人したのにまだ子供のままなのかしら?」
居間から、愉快そうなママの声が聞こえてくる。
成人?
ああ、そっか。今日は……。
ゆっくりと瞼を開く。
窓から差し込む黄金色の朝日が視界に映った。
十二年間、幾度となく見てきた光景。
なのに今日は、いつもより少しだけ綺麗に見えた。
「う~~~ん。」
両腕を上げて、体を大きく伸ばす。
寝起きで固まっていた体がほぐれ、少しずつ頭も目を覚ましていく。
ベッドから降りて靴を履く。
「……おはよう。」
「おはよう、アイラ。」
「おはよう。よく眠れた?」
居間へ向かって挨拶すると、パパとママもいつもと変わらない笑顔で返してくれた。
「顔、洗ってらっしゃい。」
「はぁい。」
まだ完全には目が覚めていない。
ふらふらとした足取りで家を出る。
「おはよう、アイラちゃん。」
「おはようございます……。」
「今日は随分眠そうだねぇ。」
「いつものことです……。」
すでに起きて活動している近所の人たちと挨拶を交わしながら、いつもの井戸へ向かう。
これも毎朝の光景だ。
井戸の前までたどり着くと、備え付けの釣瓶を中へ落とす。
水を十分に掬ったところで紐を引き、ゆっくりと引き上げた。
「よいしょ。」
冷たい水を両手で掬い、そのまま顔へ。
パシャ。パシャ。
「冷たぁ~い……。」
秋の早朝。
井戸水の冷たさが寝起きの顔に突き刺さる。
思わず泣きそうになりながらも、もう一度。
パシャ。
「うぅ……。」
でも、おかげですっかり目が覚めた。
雨の日を除けば、毎朝繰り返してきたこと。
顔を洗って。近所の人に挨拶をして。
家に戻れば、パパとママと朝ご飯を食べる。
何でもない、いつもの朝。だけど。
「これも、今日でお終いなんだよね。」
濡れた手を軽く振りながら、井戸を見つめる。
明日からは、目を覚ましてもここへ顔を洗いに来ることはない。
そう思うと、冷たくて嫌だったはずの井戸水まで少し名残惜しく感じた。
「……今までありがとう。」
昨日のベンチに続いて、今度は井戸にまでお礼を言ってしまった。
我ながら変なことをしていると思う。
「ふふっ。」
でも、今日くらいはいいよね。
十二年間の『いつも』に別れを告げながら、私は家へと戻った。
「お待たせ。」
家に戻ると、朝食の並んだテーブルにパパとママが着いていた。
私もいつもの席に座る。
誰が先にというわけでもなく、三人揃って手を合わせた。
「「「いただきます。」」」
彩りの少ないサラダに、お芋のスープ。
そのままでは噛み切れないほど固いパン。
幾度となく食べてきた、我が家のいつもの朝食。
昨日のご馳走とは大違いだ。
だけど、これが私にとって一番馴染みのある味だった。
でもいつもと違うところが一つだけある。
珍しく、誰も喋ろうとしない。
いつもなら食事中は、今日の予定や仕事の話。
近所であった出来事なんかを三人で楽しく話しているはずなのに。
今日は誰も口を開かなかった。
私も何を話せばいいのか分からない。
パンをスープに浸して柔らかくする。
少しずつ口に運んで、ゆっくり、ゆっくり味わって食べる。
何度も食べてきた味を、忘れないように。
――ごくん。
最後に残ったスープを飲み干す。
結局、食事が終わるまで誰も一言も喋らなかった。
静かな時間を最初に終わらせたのは、ママだった。
「食器は片付けておくから、着替えてきなさい。今日はパパもママもお休みだから、ゆっくりでいいわよ。」
「うん。」
いつもなら朝食を食べた後、仕事へ向かうパパを見送る。
だけど今日は、私の門出に合わせて二人とも仕事を休んでくれたらしい。
きっと見送りに来てくれるつもりなんだろう。
嬉しい。
すごく嬉しいんだけど……。
――見送りの時、泣いちゃいそうだなぁ。
少しだけ複雑な気持ちを抱えながら、私は寝室へ向かった。
部屋の隅に置いてある箱を開ける。
中に入っているのは、今日のために用意しておいた服と装備。
一つずつ取り出して、ベッドの上へ並べていく。
「よし。」
寝間着を脱ぎ、まずは黒茶色のショートパンツを履く。
次に白い半袖のシャツへ袖を通した。
腰には擦れを防ぐための布を巻き、その上からしっかりとベルトを締める。
そこへ小物を入れるためのレザー製ウエストポーチ。
胸には急所を守る鉄製のプロテクターを取り付ける。
そしてママから受け継いだ青い宝石のネックレス。
首に掛けると、小さな青い宝石が胸元で揺れた。
「……うん。」
指先でそっと触れる。
これも今日から、私と一緒に旅をする。
白い靴下を履いて、大きめのレザーグローブを両手にはめる。
最後にレザーシューズをしっかりと履けば――。
「完成!」
姿見なんてないので、自分の格好を上から順番に確認する。
うん。間違いない。
ネームレスオンラインで、まだ職業に就いていない『無職』のキャラクターが身に着けていた初心者装備。
ようやく私も、この格好をする日が来たんだ。
少しだけ胸を張って居間へ戻る。
「どう?」
二人の前で両手を広げてみせる。
「立派になったわね。」
「似合ってるぞ。」
「えへへ。」
いっぱい褒めてもらえたのが嬉しくて、その場でくるりと一回転。
もう一回。
「どう?」
「今日も可愛いよ。」
パパが笑う。
すると、ママが私の髪を見て何かに気付いた。
「少し髪が邪魔そうね。結んであげる。」
「うん。」
ママは赤いリボンを持って私の後ろへ回る。
慣れた手つきで銀色の髪を掬い、後ろでまとめていく。
髪を引かれないよう優しく整えて、最後に赤いリボンを結んだ。
「はい、できた。」
後頭部に触れてみる。
この結び方はハーフアップだ。
見えなくても分かる。これは絶対可愛い。




