疑心暗鬼⑰
既に魔王の全身が白い氷に覆われ始めていた。
大きく掲げられた腕は完全に動きを止め、背中の翼にも厚い氷が張り付いている。
長く伸びた尻尾も、途中で曲がった姿勢のまま固まっていた。
魔法の効果は表面だけに留まらない。
魔王の体内へも冷気が浸透し、筋肉や血液、内臓に至るまで容赦なく凍結させていく。
あまりにも急激な変化だった。
おそらく痛みを感じる余裕なんてほとんどないだろう。
だけど、意識が残っている間は別だ。
自分の体が少しずつ動かなくなっていく。
どれほど力を込めても、凍り付いた手足は動かない。
しかも、その原因が何なのかさえ分からないのだ。
それは、きっと恐ろしいことだと思う。
「やめろッ! 何だ、これはッ! 俺様は魔王だぞ!?」
魔王が絶叫した。
その声には、先ほどまでの傲慢さがほとんど残っていなかった。
あるのは、自分の身に起こっている現象への恐怖だけだった。
「なぜだッ! なぜ俺様がッ!」
必死に体を動かそうとしているけど、既に肩から下はほとんど凍り付いている。
魔法の発動に必要な魔力も、術式を維持できなくなったことで急速に散っていった。
周囲を覆っていた黒紫色の光が薄れ、代わりに白い霜が広がっていく。
「嫌だッ! 俺様は、俺様はァァァッ!」
最後の叫びが、途中で途切れた。
魔王の口元まで氷が達し、そのまま頭部を覆い尽くしたのだ。
やがて全身が完全に凍結し、先ほどまで暴れ回っていた巨大な魔王が両腕を掲げた姿勢のまま動かなくなっている。
私はしばらく様子を観察してからレーヴァテインへ流していた魔力を止めた。
『アブソリュートゼロ』の効果が終了する。
すると魔王の周囲を包んでいた冷気が薄れ始めた。
急激に下がっていた気温が元へ戻り、凍り付いた肉体に変化が現れる。
パキッ。
小さな亀裂が走った。
続いて、パキパキパキッと幾つもの音が響く。
凍結によって脆くなっていた肉体が、温度の変化に耐えられなくなったのだ。
最初に崩れたのは、掲げられていた片腕だった。
氷の塊となった指先が砕け、続いて腕全体へ亀裂が広がっていく。
そして肩から先が崩れ落ちた。
その衝撃をきっかけに、全身へ亀裂が走り始める。
巨大な翼が砕け、胴体が割れ、足元から崩壊していった。
やがて魔王の肉体は、無数の氷の破片となって地面へ散らばった。
あれほど強大な魔力を放っていた存在が今は見る影もない。
討伐隊員たちは、誰もが呆然とその光景を見つめていた。
「……倒した、のか?」
誰かが呟いた。
だけど、その問いに答えられる人はいなかった。
当然だろう。
つい先ほどまで戦っていた魔王が、突然凍り付いて砕け散ったんだから。
何が起こったのか理解できない人の方が多いはずだ。
私は周囲の反応を眺めながら、二人へ声を掛けた。
「二人とも、ちょっとだけこっち来て。」
「はいはい。」
「どうしたの?」
シルフとドライアドがこちらを向いた。
二人はシルフの魔法で宙へ浮かび、倒木や砕けた岩を避けながら近付いてくる。
私は地面に散らばった魔王の残骸を指差した。
「魔王をちゃんと倒せたか、確認するのを手伝って。」
「えっ、まだ生きてるかもしれないの?」
シルフが不思議そうに首を傾げた。
「可能性は低いと思うけど、念のためね。」
私はそう答えた。
何しろ相手は魔王の肉体なのだ。
ネームレスオンラインでも、魔王の細胞が非常に強力な生命力を持っていることは何度も描かれていた。
普通の生物なら間違いなく死んでいるような状態でも、魔王なら生き残っている可能性がある。
念には念を入れておいた方が良いだろう。
シルフの魔法で私も宙へ浮かび、三人で魔王の残骸が散らばっている場所まで移動した。
上から眺めると氷の破片が広範囲に飛び散っているのが分かる。
その中には、魔王の表皮や肉体の一部だったものも混ざっていた。
私は足場になりそうな大きな破片の近くへ降ろしてもらうと慎重に調べ始めた。
まずは魔力の反応。
魔王の肉体が生きているのなら、何らかの魔力が残っていてもおかしくない。
だけど、周囲から感じられるのは散り散りになった微かな残留魔力だけだった。
少なくとも生命活動を続けているような反応はない。
「ん。動いてない。」
ドライアドが近くの破片を覗き込みながら言った。
「こっちも何も感じないわね。」
シルフも周囲を見回している。
私は念のため、目の前にある破片へ指先で触れてみた。
冷たい。
当然といえば当然だけど、まだかなり低い温度を保っているようだ。
表面は硬く、内部まで完全に凍結していることが分かる。
試しに少し力を加えてみると、小さな欠片がぽろりと崩れ落ちた。
うん、少なくとも普通の肉体としての強度は失われているみたい。
その後も三人で手分けして調べてみたけど、再生が始まるような気配は一向になかった。
「どうやら完全に死んでるみたい。」
私はようやく安心して息を吐いた。
もちろん、魔王の細胞がどれほどの生命力を持っているのか、全てを把握しているわけじゃない。
だけど、ここまで徹底的に凍結させて破壊したんだから、さすがに生き残っているとは考えにくい。
周囲では討伐隊員たちも恐る恐る魔王の残骸へ近付いてきていた。
剣先で破片を突いてみたり、魔法使いが何かを調べたりしている。
中には、あまりにも呆気ない結末に戸惑っている人もいた。
「本当に死んだのか……?」
「こんなことがあるのかよ。」
そんな声が聞こえてくる。
無理もないよね。
あれだけ強大な魔力を放っていた魔王が、突然氷漬けになって崩れ落ちたんだから。




