『メインストーリー』①
謎の侯爵家令息の登場です。
ここから少しの間、アイラ視点を離れて物語が進みます。
彼とその家族に何が起こるのか、見守っていただければと思います。
空が明るみ、朝日が差し込み始めた頃。
閉じられたカーテンの隙間から細い光が伸び、薄暗かった部屋を少しずつ照らしていく。
私はいつものベッドで目を覚ました。
まだ僅かに眠気が残っている。
小さく欠伸をしながらゆっくりと起き上がり、枕元に置かれている呼び鈴を鳴らした。
澄んだ音が部屋へ響く。
間もなく扉が静かに開き、数人のメイドが部屋を訪れた。
彼女たちは慣れた動きで一列に並ぶと、揃って一礼する。
「おはよう。」
「おはようございます、お坊ちゃま。」
私の言葉を待っていたメイド達が顔を上げた。
毎朝変わらない光景だ。
「訓練の準備をするので手伝ってくれ。」
「承知いたしました。」
私が告げると、メイドたちはすぐに動き始める。
一人が今日使う訓練着を用意し、一人が私の寝間着を脱がせる。
訓練着を手にした別のメイドが隣へ控え、その間にも水やタオルの準備が進められていた。
誰かが細かく指示を出しているわけではない。
それぞれが自分の役割を理解し、必要な仕事を先回りして行っている。
私は彼女たちに手伝われるまま、用意された訓練着へ袖を通した。
服の皺が伸ばされ、襟元が整えられる。
最後に全体を確認したメイドが一歩下がった。
「どこか違和感はございますか?」
「いや、大丈夫だ。」
腕を伸ばし、肩を回す。
続けて足も軽く動かして着心地を確かめる。
動きを妨げるようなところは何もない。
今日も問題なく訓練できそうだ。
「ありがとう。」
手伝ってくれたメイドへ微笑みかけると、彼女は僅かに表情を和らげて一礼した。
「こちらをどうぞ。」
別のメイドから差し出された小さなコップを受け取る。
中に入っていた水を一息で飲み干した。
適量で、冷たすぎず温すぎない。
寝起きの体にはちょうど良い温度だ。
相変わらず、良い仕事をしてくれる。
空になったコップを返すと、今度はタオルを持ったメイドが一歩前へ出た。
「失礼いたします。」
「うむ。わぷっ。」
わずかに水気を含んだタオルが顔へ触れる。
頬から額、首回り。最後には耳の裏まで丁寧に拭かれた。
突然顔へ触れた冷たい感触に、思わず変な声が出てしまった。
……しまった。侯爵家の令息として、恥じるべき失態であろう。
皆は何も聞かなかったような顔をして仕事を続けてくれている。
それが余計に恥ずかしい。次からは気を引き締めねば。
「お坊ちゃま、整いました。」
一通りの準備を終えたメイドたちが私から離れる。
再び一列に並んで一礼し、私の言葉を待っていた。
「うむ。今日も見事な手際であった。皆の者、感謝する。」
私なりに感謝を伝え、そのまま部屋の扉へ向かう。
すると視界の端で何かが動いた。
……今、一番若いメイドが小さくガッツポーズをしたように見えた。
いや、きっと気のせいだろう。
大丈夫だ。私は何も見ていない。
だからメイド長。その怒った時だけ見せる顔はやめてくれ。
私は何も知らない。何も見ていないのだから、私にはどうすることもできない。
私は逃げるように部屋を出ると、長い廊下を進んで訓練場へ向かった。
メイド長は仕事中、顔に感情が出ないよう常に努めている。
主人に仕える者として、それが正しい姿なのだと考えているのだろう。
しかし彼女は長く当家に仕えており、私が幼い頃には乳母まで務めてくれた人だ。
付き合いが長い分、私にはわずかな表情の変化でも分かってしまう。
先ほどの顔は間違いなく怒っていた。
真面目なメイド長は、主人の前でガッツポーズをすることなど絶対に許さない。
この後は間違いなく雷が落ちるだろう。
あの若いメイドの無事を祈るばかりである。
そんなことを考えながら屋敷を進み、訓練場へ到着する。
扉を開けると、既に父上が体を解していた。
「おはよう、『クレス』。」
「おはようございます。父上。」
こちらを見た父上へ頭を下げる。
父上はゾディアック王国騎士団、第二部団長『カシウス・グローザ』。
そして私が誰よりも尊敬する人だ。
短い金髪に青い目。
長身で、日々の鍛錬によって作り上げられた鍛え抜かれた肉体。
私と父上は親子だけあってよく似ていると、周囲は揃って口にする。
私自身も鏡を見るたびにそう思う。
もちろん、今の私では体格も技量も父上には遠く及ばない。
いつかこの人のようになりたい。そして乗り越えたい。
それが私の夢だ。
私は父上の隣へ並び、訓練を始める前に体を解していく。
肩を回し、腕を伸ばし、足の筋を十分に伸ばす。
焦って訓練を始めても良いことはない。
父上から何度も教えられてきたことだ。
十分ほどかけて準備を終えたところで、私は父上へ声を掛けた。
「お待たせしました、父上!」
「うむ。」
既に準備を終えていた父上は、私が終わるまで待っていてくださっていた。
急かすこともない。早くしろと叱ることもない。
ただ静かに待っている。
父上は多くを語る方ではないが、こうした気遣いができるところも、私が尊敬している理由の一つだ。
父上が壁際へ歩いていく。
そこには、グローザ侯爵家に伝わる大剣が置かれていた。
父上はその柄を握り、軽々と持ち上げる。
そして訓練場の中央まで戻ると、静かに構えた。
私も専用の大剣を手に取り、父上の隣へ並んで構える。
大きく息を吸い、足の位置を確認する。
腰を落とし、柄を握る両手へ力を込めた。
そして同時に、大剣を振り下ろす。
ビュンッと風を切る音が訓練場へ響いた。
再び構えて振り下ろす。
ビュンッ。
また構える。何度も、何度も。
二本の大剣が空を切る音だけが、静かな訓練場へ規則正しく響き続ける。
やはり父上は凄い。
大剣を振り下ろしても、体はまったく揺れていない。
足は地面へ根を張ったように動かず、上半身にも余計な力が入っているようには見えない。
それなのに振り下ろされる大剣は速く、重い。
何度繰り返しても常に一定の軌道を描き、寸分違わぬ太刀筋を繰り返している。
そのうえ息は乱れず、疲労した様子も微塵も感じさせない。
私も同じように振っているつもりなのに、違いは一目で分かった。
私の剣は回数を重ねるたび、少しずつ軌道がずれていく。
腕も重くなる。呼吸も荒くなる。
対して父上の剣は、最初の一振りと何も変わらない。
どれほど修練を積めば、この領域へ辿り着けるのか。
今の私には想像もつかなかった。
それでも、止まるつもりはない。
今は必死に大剣を振り下ろす。
息が切れても、太刀筋がぶれても、腕だけは止めない。
父上の動きを横目で確認しながら、自分の姿勢を修正する。
握り方。足の位置。腰の動き。
一つずつ意識して、また大剣を振り下ろす。
少しでも正確に。少しでも美しい直線を描けるようになるために。
今日できなければ、明日。
明日できなければ、その次の日。
何度でも繰り返せばいい。
憧れの背中へ、少しでも早く追いつくために。
そしていつの日か、その背中を乗り越えるために。




