逢魔が時⑮
「隊長!」
「クレス隊長!」
騎士団の人達から悲鳴のような声が上がる。
その声を聞いても、私は目の前の光景から視線を外せなかった。
ついさっきまでドラゴンスレイヤーを振るい、ドッペルゲンガーと互角に近い戦いを繰り広げていた右腕が、そこにはなかった。
傷口からは大量の血が流れ続け、足元の土を赤く染めている。
私達が何とか戦えていたのもクレスが相手の攻撃を引き受けてくれていたからだ。
そんなクレスが片腕を失ってしまった。
それが何を意味するのか考えるまでもなかった。
周囲の騎士団の人達の顔から、みるみる血の気が引いていく。
つい先ほどまで戦う意思を失っていなかった人達が、今は誰もが絶望に近い表情を浮かべていた。
彼らにとってクレスは、隊長であると同時に、この戦場で最後まで頼れる守護神のような存在だった。
その守護神が、私を庇って片腕を失った。
「隊長、今すぐ治療を!」
セレナがクレスへ向かって駆け出そうとした。
だけど、その腕を近くにいた騎士が慌てて掴んだ。
「待ってください!」
「ですが、このままでは隊長が!」
「分かっています! ですが、今あなたまでやられたら!」
男性の声が震えていた。
セレナも、その言葉を聞いて足を止める。
私は二人のやり取りを見ながら、胸が苦しくなった。
クレスの怪我はどう見ても一刻を争う。
あれほど大量の血を失っているのだから、早く治療しなければ命に関わるかもしれない。
だけど、セレナが不用意に近付くのは危険すぎる。
今ここでセレナまで倒されてしまったら、私達にはもう立て直す手段がなくなってしまうから。
だから騎士団の人達も彼女を止めるしかなかった。
目の前で隊長が血を流しているのに助けに行くことさえできない。
そのもどかしさが周囲の人達の表情から痛いほど伝わってきた。
「詰んだな。最後の判断は失策だぞ。」
ドッペルゲンガーが嘲るように口を開いた。
その声には先ほどまでの激しい戦闘で見せていた苛立ちが感じられなかった。
既に勝利を確信しているのだろう。
片腕を失ったクレスでは、もう自分を止められないと考えているに違いない。
「……確かに今のは隊長らしい判断では、無かったな。」
クレスが静かに答えた。
その声を聞いて、私は思わず顔を上げた。
クレスは額から冷や汗を流しながら、それでもドッペルゲンガーを睨み付けている。
右肩からは今も血が滴り落ちていた。
痛くないはずがない。
普通なら立っていることさえ難しいだろうに、クレスは残された左手でドラゴンスレイヤーを握り、何とか戦う姿勢を保っていた。
私は唇を噛み締めた。
全くもって、その通りだった。
隊長として考えるなら今の判断は間違っていたと思う。
私を守るためにクレスがあれほどの大怪我を負うなんて。
この場で最も重要な戦力を失ってしまったら、残された私達はどうすれば良いんだろう。
私一人を守ったことで、騎士団の人達まで危険に晒してしまった。
戦術的に考えれば決して正しい選択とは言えない。
私はクレスの失われた右腕を見つめた。
そこから流れ落ちる血を見るたびに、胸の奥が強く締め付けられる。
クレスを責める気持ちなんて、微塵も湧いてこなかった。
むしろ、どうしてそこまでしてくれたのかと聞きたかった。
あの時、クレスが間に入ってくれなかったら、今頃どうなっていたか分からない。
ドッペルゲンガーの攻撃をまともに受けていたのは、間違いなく私だった。
クレスは、その攻撃を自分の腕を犠牲にしてまで受け止めてくれた。
「その女がそんなに大事か。」
ドッペルゲンガーが、不意にそんなことを尋ねた。
私は思わず眉を寄せた。
何、その質問。
さっきまで私達を殺そうとしていたくせに、今度はそんなことを聞いてくるなんて。
もう勝ったつもりだから余裕を見せているんだろうか。
それともクレスが私を庇った理由が本当に理解できないのかもしれない。
どちらにしても今の状況で聞くようなことじゃないと思う。
だけどクレスは迷わず答えた。
「ああ、大事だ。」
それだけだった。
余計な説明も、言い訳もなかった。
そしてクレスは、これまでに見た中で一番穏やかな笑顔を浮かべた。
私は、その表情に思わず息を呑んだ。
こんな状況なのに。
片腕を失い、今も大量の血を流しているというのに。
どうして、そんな顔で笑えるんだろう。
それに、大事って。
どういう意味で?
私は思わず、その言葉の意味を探ろうとしてしまった。
クレスが私を大切に思ってくれていることは、もちろん嬉しい。
だけど、それは昔からの知り合いだから?
それとも、誰かを守るのは当然だと思っているから?
あるいは、もっと別の意味があるんだろうか。
私はそこまで考えて、慌てて思考を止めた。
これ以上は考えちゃダメ。
そのことには、ずっと触れないようにしてきた。
気付かないふりをして、心の奥に仕舞い込んできたものがある。
今ここで、その蓋を開けるわけにはいかない。
ましてや目の前ではクレスが命を懸けて戦っている。
こんな時に私は何を考えているんだろう。
私は強く目を閉じ、頭の中に浮かびかけたものを振り払った。
今、考えなければならないことは他にある。
クレスが守ってくれた、この命。
そのために失ってしまった右腕。
私が今するべきことは、そんなクレスの気持ちに報いることだ。
これ以上、誰かが私を守るために傷付くところなんて見たくない。
クレスも騎士団の人達も。
もちろん、シルフとドライアドも。
私はもう一度、目の前のドッペルゲンガーを見つめた。
あいつは今も余裕のある表情を浮かべている。
クレスが片腕を失ったことで、勝負は決まったと思っているんだろう。
確かに普通に戦っていたら私達に勝ち目はない。
クレスですら止められなかった相手を、どうにかできるとは思えなかった。
だけど私にはまだ切り札が残っている。
できることなら、最後まで使わずに済ませたかった。
だけど、その判断によってクレスが大怪我を負ってしまった。
これ以上、同じことを繰り返すわけにはいかない。
私は奥歯を噛み締め、腹の底から声を張り上げた。
「あああああああああああっ!」
洞窟内に、私の叫び声が響き渡った。
それは自分でも驚くほど大きな声だった。
周囲の騎士団の人達が、何事かとこちらを振り返る。
だけど、そんなことはどうでも良かった。
頭の中に残っていた迷いも、恐怖も、全部まとめて吹き飛ばしてしまいたかった。
もう後戻りはできない。
それを自分自身に言い聞かせるように叫び続けた。
そして、これまでずっと維持してきた魔力へと意識を向ける。
クレス達が戦っている間も霧散させないように慎重に維持してきた。
その約半分を一気に解放する。
私はドッペルゲンガーのいる場所へ向けて、両手を突き出した。
「はあああああああっ!」
圧縮されていた魔力が、凄まじい勢いで放たれた。
周囲の空気が震え、洞窟の床へ向かって膨大な魔力が殺到する。
ドッペルゲンガーが、こちらへ視線を向けた。
その表情には僅かな驚きが浮かんでいた。
だけど私は最初から命中するなんて思っていない。
今のあいつなら、これほど大きな魔力の動きを見逃すはずがない。
放たれた魔法を確認してからでも十分に回避できるだろう。
実際、ドッペルゲンガーはすぐに地面を蹴り、その場から飛び退いた。
でも私が狙っているのは、あいつ自身じゃない。
欲しいのは、この攻撃によって生まれるほんの一瞬。
ドゴォォォンッ!!
魔法が洞窟の地面に激突した。
凄まじい爆発音が響き、地面が大きく抉れる。
大量の土砂や岩の欠片が周囲へ飛び散り、衝撃で足元が激しく揺れた。
「なっ!?」
騎士団の人達から驚きの声が上がる。
だけど私は魔法の行方を確認することなく、次の行動へと意識を向けていた。
これだけでは足りない。
今の爆発で土煙は上がったけど、あいつの視界を完全に奪うには不十分だ。
ドッペルゲンガーほどの身体能力があれば、土煙が広がるより先にこちらの位置を把握してしまうかもしれない。
そう考えた瞬間だった。
「ドライアド!」
シルフが鋭く叫んだ。
「うん!」
ドライアドが即座に応じる。
二人とも、私が何をしようとしているのか理解してくれたらしい。
ドライアドが両手を地面へ向けると、爆発でひび割れた大地がさらに激しく砕け始めた。
バキバキッ!
地面の亀裂が一気に広がり、砕けた岩や土が勢いよく跳ね上がる。
そこへシルフが風を送り込んだ。
ゴォォォッ!!
猛烈な風が洞窟内を吹き抜け、舞い上がった土砂を一気に巻き上げた。
爆発によって生まれた土煙が瞬く間に周囲へと広がっていく。
しかも、ただ土煙を散らしているわけじゃない。
シルフは風の流れを巧みに操り、土煙がその場に留まるように渦を作っていた。
ドライアドも次々と地面を砕き、さらに大量の土を供給している。
二人の魔法が重なったことで周囲の景色が急速に茶色く染まっていった。
「くっ、何も見えん!」
騎士団の男性が声を上げた。
私も目を細めたけど、すぐ近くにいる人の姿さえ見えなくなっていた。
さっきまで目の前にいたクレスもドッペルゲンガーも、今は土煙の向こうに隠れている。
周囲の視界は完全に遮断された。
私はその光景を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
シルフ、ドライアド。
二人とも、ありがとう。
何も説明していないのに私の意図を正確に汲み取ってくれた。
私が欲しかったのは敵を攻撃するための援護じゃない。
誰にも見られずに、ほんの一瞬だけ行動できる時間だった。
この土煙が晴れるまで、そう長くは掛からないだろう。
ドッペルゲンガーだって、いつまでも大人しくしているはずがない。
だからこそ、今しかない。
私は周囲の気配を確かめながら、心の中で《Storage》と念じた。




