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盛大な勘違い⑤

「神様を使うなんて不敬すぎる。」

ドライアドがむーっと頬を膨らませて怒っている。


もちもちしたほっぺが、いつも以上に丸くなっていた。

さっきまで泣きそうな顔をしていたのに、今度は神様の話で怒り始めるなんて感情が忙しそうだね。

「それだけ向こうも必死ってことね。」

シルフはマリスの行動を理解したわけではなさそうだけど、そこまでして恋人を取り戻そうとしていることは伝わったらしい。


ただ、ここから先が問題なんだ。

「マリスは手段も目的も選ばない。そもそもこの世界で生きてる命を何とも思ってない。」

彼にとって、この世界は自分の故郷ではない。

大切な恋人も友達も、故郷の世界と一緒に消えてしまった。


だから、この世界に暮らしている人々の命を犠牲にすることにも躊躇いがない。

どれほど非道な人体実験を行っても、心が痛むことはないのだろう。

何千年もそうやって生きてきたのだから。

シン共和国で行われていた人体実験も、そんなマリスの研究の一部だ。


身寄りのない子供達を攫い、危険な魔王細胞を埋め込む。

そんなことまで平然と行える人間が、たった一人の恋人のために研究を続けている。

「何だかあいつこそ世界の敵って感じがしてきたわ。」

シルフが険しい表情で呟いた。


その認識は、大きく外れていないだろう。

マリスがこの世界を滅ぼそうとすれば、女神ガイアとの全面対決になる。

それに世界そのものを滅ぼしてしまえば、恋人を取り戻すという自分の目的も果たせなくなる。

だから今は世界を滅ぼそうとしていないだけだ。


もし世界を滅ぼすことが自分の目的に必要だと判断すれば、あの人は躊躇わずに実行するかもしれない。

何千年もかけて恋人を取り戻そうとしている人間が、そのためにどこまでやるのか。

考えただけでも恐ろしい。

マリスという存在は、いつ爆発するか分からない爆弾のようなものだ。

控えめに表現しても、巨悪としか言いようがない。


「ねぇ、アイラの力で倒しちゃうっていうのはどう?」

シルフが突然、とんでもないことを言ってきた。

あまりにもあっさりと口にしたものだから、一瞬、思考が停止してしまっていた。

だけど、すぐにその意味を理解する。


マリスを今のうちに倒してしまえば、これから先、彼の手によって不幸になる人達を減らせるかもしれない。

確かに、それは間違っていないと思ったけど。

「それはやめておこう。」

「どうして? 悪い人は倒さなきゃ。」


ドライアドが納得できないという顔で私を見る。

彼女の言うことは、決して間違っているわけじゃない。

これまでマリスが行ってきた非道な研究を考えれば、放っておいて良い人物ではないことくらい私にも分かっている。

実は私も、これまで何度か同じことを考えたことがあった。


もしも私がマリスを倒してしまえば、これから不幸になる人を減らせるんじゃないか。

彼が存在しなくなれば、少なくとも彼の命令によって行われる非道な実験は止まるかもしれない。

だけど、それで本当に救われる人が増えるのだろうか。

たぶん答えはNOだ。


「マリスを倒したら、実質的な指導者を失ったシン共和国は多分混乱する。そうしたら戦争が起きて、今よりたくさんの人が死ぬことになるよ。」

あまりにも救いのない話だと思う。

だけど、これまで何度も考えてきて、私が下した結論はこれだった。

シン共和国を裏から支配しているマリスが突然いなくなれば、当然その影響は国全体へ広がるだろう。


アルカナの実質的な権力者が消えれば、その空いた席を狙う人間だって現れるはずだ。

これまでマリスの力によって抑えられていたものが、一斉に表へ出てくるかもしれない。

そうなれば、シン共和国の内部で権力争いが起こる可能性は高い。

場合によっては内紛にまで発展するだろう。


そして、問題はそれだけじゃない。

「シン共和国が混乱して国力を失ったら、他の二国だって黙って見ているとは思えないんだよね。」

今は三か国が協力してレイディアントを討伐しようとしている。

だけど、その裏ではそれぞれが自国の利益を求めて動いていることを、私は今日嫌というほど思い知らされた。


そんな国々が、シン共和国の弱体化を目の当たりにしたらどうするだろう。

弱った相手を助けるために手を差し伸べる?

残念だけど、そんな都合の良い展開になるとは思えない。

むしろ今こそ好機だと考えて、侵略戦争を始める可能性の方が高いんじゃないかな。


そうなれば、シン共和国の内紛だけでは済まなくなる。

国同士が争い始めれば、戦場で戦う兵士だけじゃなく、何の関係もない人達まで巻き込まれるだろう。

家を失う人。家族を失う人。それこそマリスのような人間が増える。

マリスを倒したことで救われる人がいる一方で、それ以上の犠牲者が生まれてしまう可能性が高い。


「だから私は何もしない。」

そう口にして、自分でも嫌になる。

私は今、何もしない方が犠牲が少なくて済むと言ったのだ。

確かにマリスを倒せば戦争が起こるかもしれない。


それは確かに、私が考えた末に辿り着いた結論だ。

だけど、本当にそれだけなのかな。

私がマリスを倒そうとしない本当の理由は、もっと単純なところ。

人の命を奪うことに抵抗があるからなんじゃないだろうか。


どれだけ悪い人間だったとしても、自分の意思で誰かを殺すことが怖い。

それに、もし私がマリスを倒したことで戦争が始まってしまったら?

その時、私は自分の行動を後悔せずにいられるだろうか。

いや、それはきっと無理だ。


自分が引き金を引いたせいで大勢の人が死んでしまったら、その責任を背負って生きていく自信なんてない。

だから戦争が起こるかもしれないという可能性を理由にして、何もしないことを選んでいる。

そう考えると、さっきまでの理屈も全部、自分の行動を正当化するための言い訳に思えてくる。

本当は何もしなければ、これからもマリスの手によって不幸になる人達がいると分かっている。


それでも私には、怖くて彼を倒すという選択ができない。

誰かの命を奪うことも、その結果として何が起こるのか分からないことも。

そして、その責任を自分が負うことも。

こればっかりは、どうしようもない。

私は臆病者なのだ。

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