EP-01.初雪に灯る
今年初めての雪が舞う。
ひらり、ひらり。
空から降りる白は、手に落ちると一瞬で消える。
まだ若い、軽い雪だ。
茜の季の半ばだというのに、やけに早い。
北のイグナー山脈へ目をやると、濃い霧がかかり、輪郭しか見ることができない。
色褪せた空は、どこかにある太陽で、辛うじて明るさを保っている。
今年の冬は、長くなりそうだ。
今日で10日だ――
崖沿いの洞窟で寝泊まりしながら、毎日何かを探している。
朝早くから、陽が暮れるまで。
ろくに暖も取らず、食事も歩きながら口に運ぶ程度だ。
ずっと地面を見ながら、ひたすら歩き回っている。
見ている限り、彼は植物の扱いに慣れている。
何かを見つけると、丁寧に根から掘り起こす。
掘った土は必ず元に戻し、同じ場所からは採取しない。
植物は布にくるんで、大切そうに持ち帰る。
採っているのは、食べ物ではなさそうだった。
最初は、ただ、珍しかった。
この付近に人が来ることはほとんどない。
道もない。
集落もない。
あるのは、ひたすら続く山だけだ。
ましてや、これから長い冬がやってくる。
麓ならまだしも、こんなに標高の高い山に、いったい何をしにやって来たのか。
毎日見かけるうちに、彼に興味が湧いた。
彼が植物を見つめる目は、我らと似ているような気がしたのだ。
初雪が降る頃になると、山に棲む植物たちの冬支度を手伝う。
まだここに慣れていない子たちには辛い季節だ。
自分たちの冬備えを進めながら、山の様子を見て回る。
木の根元で花を咲かせたロカ草は、種を落としているはずだ。
あの子はまだ3年目。
自分の力で冬を越すのは難しいだろう。
その近くには、リッカ茸が採れる木もある。
あの一帯の木は植えてからそろそろ10年だけれど……
今年は雪が多くなりそうだし、寒さをしのげるように藁を巻いてあげようか。
「今日はどの辺りを回る?」
「川を下って、池の方に行くよ」
「わたしたちは、最後のロカ茸を採ってくるつもり!」
「じゃあ、ぼくは崖沿いを見に行こうかな」
身支度をして外に出ると、樹里の中央にある広場には、もう皆が集まり始めていた。
焚火を囲み、樹液を溶かした白湯を飲みながら、その日の役割を決める時間だ。
「崖の方には僕が行くよ。見ておきたい木があるんだ」
その輪に加わりながら、何気ないふりをして行き先を伝える。
「そうか? じゃあ……ロカの実でも探しに行こうかな」
内心ほっとしつつ、置いてあるコップに白湯を注ぐ。
湯気からは、ほのかに甘苦い香りが上がる。
「木じゃなくて、人だろ? 最近毎日見に行ってない?」
「別に……人を見に行ってるわけじゃ……」
皆に視線を向けられると、言葉が見つからない。
なんとなく気まずくなり、彼らに背を向けて急いで飲み干す。
「人なんてなかなか来ないもんねぇ。何してるんだろうね? これから寒くなるのに、大丈夫なのかなぁ」
「そのうち帰るんじゃない? ここでの冬越えは人にはきついよ」
「……」
普通ならそうだ。
でも……あの人を見ていると、帰るつもりがないんじゃないかと思えてしまう。
空を見上げる。
この雪なら、積もることはないだろうが……
雪は足を冷やす。
大丈夫だろうか。
「僕は先に出るね。みんな、今日は早めに戻るんだよ」
「はーい。夕飯はロカ茸を焼こうね!」
「スープに入れる野草を見つけてくるよ」
「うん!」
フード付きの羽織を首元できっちりと留めて、藁と紐を入れた籠を背負う。
樹里の結界から出ると、寒さが身に染みた。
木がまばらな緩やかな斜面を、小川に沿って登っていく。
小さな滝は流れる水が減り、岩肌に張り付く苔が見え始めている。
ミスミ苔は、乾燥させると保存がきく。
スープの具にすればしゃきしゃきして美味しい。
帰りに寄って、採っておこう。
崖のそばまで来ると、人の匂いがする。
近付き過ぎないように、ロカ草が咲いていた木の方に回り込み、藁を敷いていく。
作業をしながら崖の方を見ると、彼はこちらに背を向けて、ただ座っている。
今日はまだ動き始めていないようだ。
藁を敷き終えても、彼は動く気配がない。
小さな焚火の前に座り、崖の向こうを眺めているようだ。
彼の視線を追う。
眼下には、麓の森を覆い尽くす深い霧が広がる。
空と霧が同じ色になるこの季節は、まるで空に浮かぶ島にいるような気分になる。
近くのリッカ茸が生える木にも、藁を巻いて紐で縛っていく。
過保護かもしれないが、リッカ茸は皆の好物だ。
あと数年は、冬越えの手伝いをしよう。
10本ほど巻き終えて、再び目を向ける。
彼はまだ、動かない。
どうしたのだろう。
まさか、眠っている……?
雪が止んだとはいえこの寒さだ。
こんなに吹きさらしの場所で、もしものことがあったら……
近付いても……大丈夫だろうか。
驚かせてしまわないだろうか。
人は自分の数倍、見上げるほど大きい。
持っている道具も、見たことのないものばかりだ。
人がツノイノシシを狩るのを見かけたときは、怖くて動けなかった。
火を吹く筒状の道具の音だけで、身体が貫かれた気がした。
きっと、彼らにとっては生きるための行動で、それが我らとは違うだけ。
そう思っても……
人は、不用意に近付こうとは思えない相手だ。
だが、不思議と怖さはない。
彼は、違うような気がした。
植物を大切にし、山を慈しんでいるのが、見ていると伝わってきた。
考えているようで、足はもう前に踏み出していた。
ゆっくりと、物音を立てないように。
後ろから近付くと、警戒させてしまうかもしれない。
姿勢を低くしたまま、彼の横側から近付いていく。
起きていて、ただ休んでいるだけなら。
それが確認できればいい。
彼から15歩ほどのところまで来ると、彼の横顔が見えた。
目は閉じられているが、うっすらと笑んでいるような、穏やかな表情だ。
起きている……?
寝ているのか……?
ここからだとよく分からない。
もう少しだけ――
足を踏み出した瞬間、彼はふいに、顔をこちらに向けた。
心臓が跳ねた。
屈んだまま、半歩足を前に出した状態で、身体が固まった。
「――やっと、出てきたね」
目だけは、しっかりと彼を捉えている。
彼は、目を閉じたまま微笑んでいる。
「ずっと、近くにいただろう?」
気付かれているなど、微塵も思わなかった。
人は、余程近くに行かない限り、こちらには気付かないのに。
「私が君たちの山を荒らしてしまっているのではないかと、心配だったんだが……」
そんなことはない。
あなたはいつも、とても丁寧に処理していた。
だから大丈夫だ。
「言葉が……分かるかい? 私とは言葉が違うのだろうか……」
返事をしている気になっていたが、うまく声になっていない。
言葉が喉の奥でつっかえている。
「……だ」
ようやく、声が出た。
彼は、こちらが話すのを、ただじっと待っている。
「……だ、大丈夫か?」
「……?」
彼は目を開いて、少し間をおいて首を傾げる。
「あ、いや……今日は、全然動かないから。眠っているのかと……こんな寒い中で眠ったら危ない。眠るなら温かいところで……の方が……いいと、思う」
首を斜めにしたまま、彼は何度も頷いて、ふわりと笑う。
「心配をしてくれたのか。さすがにここで眠ろうとはしないから、安心してくれ」
「そ……そうか……すまない。それなら、いいんだ」
冷静になれば当たり前だ。
こんなに明るいうちに、こんな寒空の下で寝ようなどと……誰が思うだろう。
急に恥ずかしくなる。
それを気にしてか、彼は視線を外した。
「……この山の植物は、皆とても元気だな。君たちが大切に育てているのが伝わってくるよ」
そうか。
手を入れた山の痕跡に、気付いていたのか。
「育てている……わけではない。いや、そういう植物もあるけど……我らは、少しだけ手伝っているだけだ」
「手伝っている……か。寒い土地では育たない薬草や木を、いくつか見つけたんだ。あれは君たちが植えたのかい?」
「どれのことだろう」
「君が藁を巻いていたのは、クヌイだろう? あれは温かい地域の森に多い木だ。こんなに標高の高い……鉄の多い山で育つなんて……驚いたよ」
彼はこの山をよく知っているようだ。
ここは鉱山だ。
麓にある洞窟では、ドワーフたちが出入りしていた。
最近になって、洞窟の入口に集落を作り、本格的に採掘を始めた。
「クヌイは我らが苗を植えた。土を入れ替えながら、少しずつこの山に慣らしていったんだ。頑張って根付いてくれたが、まだ寒いのは苦手なようだから……」
「ギンレンゲやオオヤヨイも……森でも珍しいのに、綺麗な花を咲かせていた」
「ギン……? オオヤヨイ……」
どの子のことを言っているのか分からない。
我らとは植物の呼び方が違うのかもしれない。
「クヌイのそばにあった、青白い花が咲く草花だ。もう土に還っていたが……」
「茎の先だけが残っているものか?」
「そうだ」
「あれは、クヌイが育ち始めたころに、いつの間にかあそこにいた。最初は花を咲かせられなかったが、去年からは咲けるようになったみたいだ」
「あっちの崖際に咲いていた、紫の大きな花は? 麓ではもっと花が小さいんだが……」
「あれは、もともと鉱山に咲く花だ。徐々に変化しながら、麓にも広がっていった」
「じゃあ――」
彼は、この山で見つけた植物たちのことを、熱心に尋ねてきた。
離れた所で屈んだまま話していたが、いつの間にか焚火の前に座っていた。
彼が出してくれた甘いお茶は、コクがあってまろやかで、感動するほど美味しかった。
湯ではなく、何か別のもので煮出しているようだった。
彼との話は新鮮だった。
思った通り、彼は植物にとても詳しかった。
我らとは、植物の見方が違う。
彼が尋ねてくる植物は、大半が野草だ。
食べても美味しくなく、我らにとっては眺めるだけのもの。
それが、人にとっては良い薬になり、役に立つもののようだった。
時間を忘れて話し込み、お茶を2杯飲み切る頃には、木の影が反対方向を向き始めた。
そろそろ採取をして、樹里に帰る時間だ。
「すっかり話し込んでしまった。そろそろ戻らないと、皆が夕飯の材料に困ってしまうかもしれない」
「……そう……」
声が、途切れた。
彼を見ると、はっとしたように何度も瞬きをして、閉じかけた目を必死に開く。
「大丈夫か……?」
「ああ……」
焚火に照らされて気付かなかったが、改めて見ると、彼の顔は随分と白い。
コップを持つ手が震えている。
必死に開いた目が再び閉じかけ、手からコップが滑り落ちた。
彼は転がったコップを拾おうと手を伸ばす。
――ぐらり。
彼の身体が、斜め前に傾く。
手をつくこともできず、肩から崩れるように、彼はうつぶせに倒れ込んだ。
「おい!」
真っ白な顔が、やけに浮き上がって見えた。
彼は目を閉じたまま動かない。
ぴくりと動いた指先は血の気がなく、冷え切ったような青紫色をしていた――。
「じゃあ、ぼくたちは戻るね」
「ああ、助かったよ。ありがとう」
「夕飯を作ったら、持ってこようか?」
「だが……」
陽が暮れてから、樹里の外に出るのは危ない。
夜行性の魔獣に見つかりでもしたら大変だ。
「皆に付き添ってもらって、火を焚きながら来れば大丈夫だよ。起きたら何か食べた方がいいと思う」
「ここまではそう遠くないし、細道を抜けてくるよ。リュイだって、何か食べないと看病もできないだろう?」
ミィミとウーリも、彼のことを心配してくれている。
「……じゃあ、リノ様が了承してくれたら、頼む」
「わかった。きっと許してくれるよ」
「リノ様は優しいもの」
洞窟の入口で2人を見送る。
夕陽で染まった空は温かな橙をしていて、それだけで寒さが和らぐ気がした。
洞窟の奥に戻り、彼の横に座る。
風が遮られるだけで、随分と温かく感じる。
彼が寝泊まりしていた洞窟には、最低限の荷物しか置かれていなかった。
敷き布と掛け布。
焚火の跡と、ランタン。
小さな鍋とコップ。
大きな鞄の横には、たくさんの道具が置かれている。
石を台にして、集めた野草を加工していたようだ。
彼の顔色は、先ほどに比べて良くなった。
冷え切っていた身体も、今は体温が戻った。
熱があるわけではなさそうだ。
疲労と栄養不足で、身体が限界だったのだろうか。
湯を沸かそうと立ち上がると、彼が身体を動かした。
起き上がろうとして、そのまま横にころんと半回転する。
「……なんだ? 身体が……動かせない」
もぞもぞと身をよじり、自分の身体を見ようとするが、おそらく手も足も動かせないだろう。
「起きたか? 待ってくれ、今解くから」
「……解く?」
彼は混乱して、目を白黒させている。
「身体が冷え切っていたから、温めないといけないと思って。僕たちは、人の身体に合う掛け布を持っていないから、藁を巻きつけて縛っておいたんだ。藁は保温性が高いから……」
「藁を……身体に?」
「すまない……他に何もなくて……」
膝のあたりと、腕のあたりの紐を解くと、彼はやっと身体を起こせた。
掛け布を捲り上げ、身体に纏わりついた藁を見つめ、目をぱちぱちさせる。
「……ふっ、はははははっ! 確かに、とても温かかった! そうか、これなら木も寒さをしのげるはずだな」
彼はお腹を抱えて笑っている。
大きな声は洞窟に響き、岩壁から返ってくる。
さっきまで意識を失っていたのに、随分と元気になったようだ。
「まだ横になっていた方がいい。今、身体が温まる白湯を作るから」
「……君が……ここまで運ぶのは大変だっただろう。ありがとう」
彼は掛け布を引き寄せ、ぱたぱたと藁を払い、肩からくるまった。
「僕ひとりでは無理だったから、樹里の仲間に手伝いに来てもらった。あなたの寝泊まりする洞窟を……彼らにも教えることになってしまったが……」
「まったく問題ないよ。私はここを借りているだけだ。君の仲間にも迷惑をかけてしまったね」
「彼らも心配していたよ。夕飯を届けると言っていたから、またそのうち来るはずだ」
「重ね重ね……すまない」
すまないと言いながら、彼は柔らかい笑顔を浮かべる。
膝の上に乗せた腕に顎を置き、揺らぐ炎を静かに見つめている。
「あまり食べていないようだし、疲れも溜まっていたんじゃないか? 栄養を摂って、しばらく休めばよくなるだろう……」
彼は何も言わずに、右手をさすっている。
それを見て、青紫色になっていた彼の手を思い出した。
普通の状態ではなさそうだった。
ただ冷えただけで、あんな色になるだろうか。
こちらを向いた彼と視線がぶつかり、慌てて目を逸らす。
「……ここには、薬草を探しに来たんだ。ほんの数日のつもりだったから、食料の準備もあまりしていなくてね。でも、珍しい草や、あるはずのない木を見つけて、ついつい長居してしまった。自分の身体も管理できないなんて、薬草師なのに情けないな」
「薬草師……あの道具はそのためか。我らも薬を作るが、ずっと本格的な道具で感心していた」
植物に詳しいのも納得だ。
だが、こんな季節に、自ら高山に来るとは……
よほど出回らない薬草なのだろうか。
「その薬草は見つかったのか? どんなものか分かれば、僕が場所を知っているかもしれない」
「分からない」
「……え?」
彼は腕に顔をうずめ、首を横に振る。
「そんな薬草があるのかも、分からないんだ。似たような効果の薬草がこの付近で採れると聞いて……でも、冬になると山に入るのは厳しいと教えられたから。冬になる前に、来てみたんだ」
「当てもなく探していたのか?」
「そうだ。存在しないかもしれないものを追いかけて、歩き回っていた」
声がどんどん小さくなる。
「その……右手……か?」
彼はゆっくりと顔を上げて、袖をまくる。
何本かの指先、手の甲、手首あたり。
痣のように、青紫色に変色しているのが、遠くからでも分かる。
指先の方が色が濃く、手首はまだうっすらだ。
「数年前から、徐々に広がり始めたんだ。指先が冷えて、感覚が鈍くなり……上手く動かせないときもある。寒くなってくると症状が強くなって、刺すような痛みが出始めた……」
「冷え……寒さ……」
彼の近くに腰を下ろし、手を見せてもらう。
「皮膚の炎症を抑えたり、治癒を促す薬草があるんだ。希少なものだが、この山で採れたという記録があってね。アスミナという野草で、冬の早朝に青い花が咲くそうだ。だが、それでは効果がなかった。薬草は、似た環境で育つと、近しい薬効を持つことがある。もしかしたらと思ってね」
人の身体は、正直よく分からない。
獣人とは、薬になる植物が違うのだと、話を聞いていて思う。
彼の手を見る限り、炎症を起こしているようには見えない。
熱も持っていないし、身体が温まっても指先は冷たいままだ。
皮膚が爛れたり、ひび割れたりしている様子もない。
冬場の水仕事で手が荒れたり、火傷のあとには似ている気もするが、根本的に違う気がした。
「これは……皮膚の問題なのか?」
彼の顔から、淡い笑みが消えた。
「……ちくちくと痛みがあるし、皮膚もこんなに変色しているし……」
「僕は人の身体が分かるわけではないし、皮膚も人より獣人の方が丈夫なのだと思う。だが、僕たちも皮膚が爛れたり、火傷したりもする。そういうものとは……なんというか、違うような気がする……」
彼は自分の手へ視線を移し、手のひらと甲を交互に返す。
「……君には……これがどう見える?」
彼は真剣に……
願うような目で、こちらを見る。
ただ感じただけのことを、言葉にしていいのか。
知識があるわけでもない。
種族も違う。
逆に彼を苦しめることになるのではないか。
だが、自分なら。
間違っていたとしても、糸口になるかもしれない意見は、聞きたいと思う。
「……血が……通っていないのではないだろうか」
「……」
「植物も、栄養が届かなかったり、内部の巡りが途切れると……そこから先が変色して、枯れてしまったりするだろう。なんというか、そういう不調に見える……」
彼は自分の手を見つめ、ぎゅっと握った。
それからしばらく、彼は黙ったままだった。
炎が映り込んで、ゆらゆらと揺れる彼の瞳は、微かに潤んでいるように見えた。
『千夜の一葉』は全3話の短編です。
3日間で完結です。




