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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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7/20

第7話 昔の自分に手紙を書け

第6話では、悠斗が友人・恒一の幸せを祝い、自分の中にあった「家族が欲しかった」という本音に気づきました。


そして、夢を諦めた昔の自分、美月から逃げてしまった昔の自分へ手紙を書き始めます。


今回の第7話では、その手紙を通して、悠斗が過去の自分を少しずつ許していく物語です。

朝倉悠斗は、ノートに書いた父の名前を見つめていた。


『朝倉誠司』


 たった四文字の名前なのに、そこには三十五年分の重さがあった。


 厳しい声。


 無言の背中。


 食卓に流れる緊張。


 テストの点数を見せた時の、低い溜め息。


 小説家になりたいと言った時の、あの一言。


「夢なんかで飯が食えると思うな」


 その言葉は、長い間、悠斗の中で呪いのように残っていた。


 けれど最近になって、少しだけ違う見方も生まれていた。


 父は本当に、悠斗を傷つけたかったのだろうか。


 もちろん、傷ついたことは事実だ。


 あの言葉で悠斗は夢を閉じ込めた。自分の好きなものを恥ずかしいと思うようになった。父に本音を話すのが怖くなった。


 でも、父にも父の怖さがあったのかもしれない。


 不安定な夢を追って、息子が生活に困ることを恐れていたのかもしれない。


 父自身もまた、何かを諦めてきた人だったのかもしれない。


 そう考えられるようになったのは、福神弥助と出会ってからだった。


 負けたことを書く。


 ありがとうを言う。


 夢を諦めた駅へ戻る。


 コンビニ店員の名前を覚える。


 他人の成功を祝う。


 昔の自分に手紙を書く。


 ひとつひとつは小さな宿題だった。


 けれど、それらは悠斗の固く閉じていた心を、少しずつこじ開けていた。


 日曜日の夜。


 悠斗は机に向かっていた。


 部屋の中は、以前より少しだけ片付いていた。完璧にはほど遠い。床にはまだ洗濯物が残り、キッチンには洗っていない皿もある。


 けれど、机の上だけは違った。


 古本屋で買った文庫本。


 宿題ノート。


 黒いペン。


 小さなライト。


 そこだけは、悠斗が自分に戻るための場所になっていた。


 悠斗はノートを開いた。


 前のページには、二通の手紙がある。


 一通目は、夢を諦めた二十二歳の自分へ。


 二通目は、美月から逃げた三十二歳の自分へ。


 読み返すと、胸が少し痛んだ。


 でも、その痛みはもう自分を責めるだけのものではなかった。


 あの時の自分も必死だった。


 怖かった。


 弱かった。


 でも、生きようとしていた。


 そう思えるだけで、過去の景色が少し変わった。


 悠斗は新しいページを開いた。


 今日、書かなければならない手紙がある。


 父に会う前に、どうしても向き合わなければならない自分がいた。


 小学生の頃の自分。


 父に褒められたくて、でもうまくできなかった自分。


 悠斗はページの一番上に書いた。


『小さかった俺へ』


 ペン先が止まった。


 昔の自分へ手紙を書く。


 それは、思った以上に体力のいる作業だった。


 記憶の中に戻るということは、楽しかったことだけでなく、痛かったことにも触れるということだからだ。


 悠斗は目を閉じた。


 小学四年生の頃。


 運動会の前日。


 リレーの選手に選ばれなかった悠斗は、家に帰ってから父に言われた。


「足が遅いのは仕方ない。でも悔しいなら練習しろ」


 父に悪気はなかったのかもしれない。


 けれど悠斗は、その言葉を「お前は努力が足りない」と受け取った。


 悔しかった。


 でも、悔しいと言えなかった。


 練習したいとも言えなかった。


 ただ黙って、夕飯の白米を見つめていた。


 中学生の頃。


 数学のテストで平均点より少し低い点を取った。


 父は答案用紙を見て言った。


「ケアレスミスが多すぎる。こういうところが甘いんだ」


 その通りだった。


 でも悠斗が本当に欲しかったのは、正論ではなかった。


「頑張ったな」


 その一言だった。


 高校生の頃。


 初めて書いた短い小説を、誰にも見せられずに机の引き出しにしまった。


 父に見つかったら笑われると思った。


 くだらないと言われると思った。


 だから、書いたことすら秘密にした。


 悠斗はペンを握り直した。


『小さかった俺へ。

 お前は、ずっと父さんに褒められたかったんだと思う。

 すごいなって言われたかった。

 頑張ったなって言われたかった。

 失敗しても、点数が低くても、足が遅くても、夢みたいなことを言っても、それでもお前はお前でいいって言ってほしかった。』


 書いた瞬間、胸の奥に古い痛みが広がった。


 そうだ。


 悠斗は父に勝ちたかったのではない。


 父を見返したかったのでもない。


 本当は、父に認めてほしかった。


 たったそれだけだった。


『でも、お前はそれを言えなかった。

 言ったら負けだと思った。

 甘えていると思われるのが怖かった。

 だから、平気なふりをした。

 傷ついていないふりをした。

 そのうち、本当に自分の気持ちがわからなくなった。』


 悠斗は一度ペンを置いた。


 窓の外では、夜の風がカーテンを揺らしている。


 昔の自分が、机の向こう側に座っているような気がした。


 小さな悠斗。


 膝を抱えて、何も言わずにこちらを見ている。


 その子に、今の自分は何を言ってやれるだろう。


 大丈夫だよ。


 そんな簡単な言葉では届かない気がした。


 だから悠斗は、正直に書いた。


『ごめん。

 ずっと、お前の寂しさをなかったことにしてきた。

 父さんに認めてほしかっただけなのに、それを情けないことみたいに扱ってきた。

 でも今なら少しわかる。

 認めてほしいと思うのは、弱いからじゃない。

 大切な人だったからだ。

 父さんのことがどうでもよかったら、あんなに傷つかなかった。』


 ペンを動かしながら、悠斗の目から涙が落ちた。


 静かな涙だった。


 嗚咽するほどではない。


 ただ、胸の奥から古い水が染み出してくるようだった。


『お前は、よく我慢した。

 言えなかったことも、泣けなかったことも、全部ひとりで抱えてきた。

 でも、もう全部ひとりで持たなくていい。

 今の俺が、少しずつ拾いに行く。

 父さんに言えなかった言葉も、夢を隠した時間も、自分を嫌いになった癖も、少しずつ取り戻していく。』


 書き終えた時、悠斗は深く息を吐いた。


 手紙を書くたびに、過去が変わるわけではない。


 父の言葉が消えるわけでもない。


 美月を傷つけた事実が消えるわけでもない。


 夢を諦めた十年が戻ってくるわけでもない。


 それでも、過去の見え方は変わる。


 昔の自分を責めるだけだった記憶に、少しだけ優しさが混ざる。


 それは、悠斗にとって大きなことだった。


 スマートフォンが震えた。


 母からのメッセージだった。


『今日は電話ありがとう。久しぶりに声が聞けて嬉しかったです。無理しないでね。今度、時間がある時に帰っておいで。』


 悠斗は画面を見つめた。


 母からの何気ない言葉が、今夜はやけに染みた。


 帰っておいで。


 その言葉の向こうには、父もいる。


 実家。


 食卓。


 あの重苦しい空気。


 でも同時に、焼き芋を半分こした記憶もある。


 傷だけではない。


 温かいものもあった。


 悠斗は返信を打った。


『こちらこそありがとう。今度、帰る日決めるよ。』


 送信してから、しばらく画面を見つめた。


 送ってしまった。


 帰る日を決める。


 父に会う。


 その現実が、少しずつ近づいてくる。


 翌朝。


 悠斗はいつもより早く目が覚めた。


 カーテンを開けると、空は薄く曇っていた。昨日までの晴れが少し遠のき、街全体にぼんやりとした灰色の光がかかっている。


 会社に行く準備をしながら、悠斗はノートのことを考えていた。


 小さかった自分への手紙。


 書いたことで、胸は軽くなった。


 でも同時に、父に会うことへの怖さは増していた。


 向き合う準備ができたからこそ、怖さが具体的になったのだ。


 父に何を言えばいいのか。


 あの時、傷ついたと言えばいいのか。


 夢を否定されたことが苦しかったと言えばいいのか。


 認めてほしかったと言えばいいのか。


 そんなことを言って、父はどう反応するだろう。


「今さら何を言ってるんだ」


 そう言われるかもしれない。


「そんなつもりで言ったんじゃない」


 と流されるかもしれない。


 あるいは、何も言わずに黙り込むかもしれない。


 考えるだけで、胃の奥が重くなった。


 会社へ向かう途中、いつものコンビニに寄った。


 レジには山口さんがいた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 悠斗はお茶とパンを買った。


 会計をしながら、山口さんが少し首を傾げた。


「今日、少し眠そうですね」


 悠斗は驚いた。


 そんなことを言われる関係になったのか。


「ちょっと考え事してて」


「そうなんですね。無理しないでください」


 山口さんはそう言って、レシートを渡した。


 何気ない一言。


 でも、悠斗の心には温かく残った。


「ありがとうございます、山口さん」


 店を出ると、朝の空気が少し柔らかく感じた。


 人は、名前を知ると背景ではなくなる。


 そして、相手もまた自分を少しだけ見てくれることがある。


 会社では、月曜日らしく慌ただしい時間が流れていた。


 週明けのメール。


 急な会議。


 先方からの確認依頼。


 村瀬の厳しい声。


 西野の慌ただしい足音。


 以前なら、そのすべてに飲み込まれていた。


 今も楽ではない。


 でも、少しだけ違う。


 悠斗はタスクを紙に書き出した。


 優先順位をつける。


 わからないことは西野に相談する。


 ミスを見つけたら、早めに村瀬へ報告する。


 完璧ではない。


 でも、以前よりは抱え込まなくなった。


 昼休み、西野が隣に座ってきた。


「朝倉さん、今日お昼ここでいいですか?」


 会社近くの公園だった。


 悠斗はベンチでパンを食べていた。


「もちろん」


 西野はコンビニ弁当を開けた。


 少し迷うような顔をしてから言った。


「朝倉さんって、最近何か始めたんですか?」


「何かって?」


「なんか、前より落ち着いてるというか。いや、忙しそうなのは変わらないですけど」


 悠斗は少し考えた。


 変なおっさんに宿題を出されている。


 そう言うわけにもいかない。


「ノートを書いてる」


「ノート?」


「自分が負けたこととか、受け取ってきたものとか。昔の自分への手紙とか」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 西野は笑うかと思った。


 でも、西野は真面目な顔で頷いた。


「いいですね、それ」


「そう?」


「はい。僕も最近、自分が何に焦ってるのかわからなくなる時あります」


 悠斗は意外だった。


「西野でも?」


「でもって何ですか」


「いや、仕事できるから」


 西野は苦笑した。


「できるように見せてるだけです。内心いつも焦ってますよ」


 その言葉に、悠斗は恒一の話を思い出した。


 幸せそうに見える人も、成功しているように見える人も、みんな途中。


 西野もそうなのだ。


「朝倉さん、前はすごく遠い人に見えてました」


「俺が?」


「はい。何考えてるかわからなくて、いつも自分の中に閉じこもってる感じで」


 悠斗は苦笑した。


「実際、閉じこもってたと思う」


「でも最近は、弱いところも見せてくれるから、こっちも話しやすいです」


 悠斗はパンの袋を丸めながら、胸が少し温かくなるのを感じた。


 弱さを見せることは、情けないことだと思っていた。


 でも、それで誰かとの距離が近づくこともある。


 もちろん、すべての弱さを誰にでも見せればいいわけではない。


 でも、隠し続けるだけでは、人は近づけない。


「西野」


「はい」


「焦ってることがあるなら、俺でよければ聞くよ」


 西野は少し驚いたあと、照れたように笑った。


「ありがとうございます。今度、聞いてください」


「うん」


 その短いやり取りが、悠斗には嬉しかった。


 誰かに頼るだけでなく、誰かに頼られること。


 それもまた、自分がここにいていいと思える理由になる。


 夕方、母から返信が来た。


『来月じゃなくても、今月でも大丈夫だよ。お父さんには私から言っておく?』


 悠斗は画面を見て固まった。


 父に言う。


 帰ることを。


 逃げたい気持ちが一気に戻ってきた。


 まだ早い。


 今は忙しい。


 もう少し準備してから。


 そんな言い訳が頭に浮かぶ。


 だが、悠斗は弥助の紙切れを思い出した。


『会いたくない人に会え。まずは一番怖い名前を、声に出せ。』


 昨夜、父の名前を声に出した。


 朝倉誠司。


 次は、実際に会う日を決めることなのかもしれない。


 悠斗は返信欄を開いた。


 何度も打っては消した。


 そして、ようやく送った。


『今週の日曜日、少しだけ帰ろうかな。父さんにも伝えておいて。』


 送信。


 送った直後、心臓が強く鳴った。


 決めてしまった。


 今週の日曜日。


 父に会う。


 画面を伏せると、手が少し震えていた。


 夜、悠斗はバス停へ向かった。


 弥助はベンチに座り、なぜか将棋の駒を並べていた。


「何してるんですか」


「人生の研究や」


「将棋で?」


「人生も将棋も、一手間違えたくらいで終わらん」


 弥助は真面目な顔で言った。


 妙に説得力があるのが腹立たしい。


 悠斗は隣に座った。


「手紙、書いたか?」


「書きました」


「誰に?」


「夢を諦めた自分と、美月から逃げた自分と、小さかった自分に」


「三通か。よう書いたな」


「疲れました」


「せやろな。過去の自分に会うのは体力いるからな」


 弥助は将棋の歩を指で転がした。


「で、どうやった」


 悠斗は少し考えた。


「昔の自分を、少し責めなくなりました」


「うん」


「夢を諦めた自分も、美月から逃げた自分も、父に何も言えなかった自分も、ずっと情けないと思ってました。でも、書いてみたら、みんな怖かっただけなんだなって」


「怖かっただけ?」


「はい。弱かったし、逃げたし、間違えた。でも、それだけじゃなくて、守りたいものもあったんだと思います」


 弥助は小さく頷いた。


「ええな」


「父に会う日、決めました」


 弥助の手が止まった。


「いつや」


「今週の日曜日です」


「ほう」


「怖いです」


「怖いやろな」


「何を言えばいいかわかりません」


「正解を言おうとするな」


 弥助は言った。


「父親との会話に模範解答なんかない」


「でも、傷つけたくないし、傷つきたくもないです」


「無傷で本音を言おうとすんな」


 悠斗は黙った。


「本音を言う時は、少しは傷つく。相手もざわつく。空気も揺れる。せやけど、その揺れを怖がって何も言わんかった結果、兄ちゃんは何年も苦しかったんやろ」


 その通りだった。


「父さんに何を言えばいいんでしょう」


「まずは、昔の自分に書いた手紙を読め」


「父にですか?」


「ちゃう。自分でや」


 弥助は将棋の駒を片付けながら言った。


「父親に会う前に、小さかった自分への手紙を声に出して読め。自分が何を伝えたいのか、そこに書いてある」


 悠斗はノートを思い浮かべた。


 小さかった俺へ。


 父に認めてほしかった。


 頑張ったなと言ってほしかった。


 お前はお前でいいと言ってほしかった。


 それが、伝えたいこと。


 父を責めたいわけではない。


 ただ、あの時の自分が傷ついたことを、なかったことにしたくない。


「次の宿題や」


 弥助が言った。


「父に会うことじゃないんですか?」


「それは大宿題や。こっちは小宿題」


「宿題にサイズがあるんですね」


「ある。人生には小テストと期末テストがある」


「嫌な例えです」


 弥助は紙切れを渡した。


『第八の宿題。会いたくない人に会え。会う前に、自分が本当に欲しかった言葉を三つ書け。』


 悠斗は紙切れを見つめた。


 欲しかった言葉。


 父から欲しかった言葉。


 すぐに浮かんだ。


 頑張ったな。


 好きにやってみろ。


 お前はお前でいい。


 たったそれだけ。


 でも、悠斗がずっと欲しかった言葉だった。


 家に帰ると、悠斗はノートを開いた。


 今日のページに書く。


『父さんから欲しかった言葉。

 一、頑張ったな。

 二、好きにやってみろ。

 三、お前はお前でいい。』


 書いた瞬間、胸が締めつけられた。


 こんなに単純な言葉を、自分はずっと欲しがっていたのか。


 大人になっても。


 三十五歳になっても。


 心のどこかで、まだ待っていたのか。


 悠斗はしばらくその三つの言葉を見つめていた。


 そして、下に書き足した。


『もし父さんからもらえなくても、今の俺が昔の俺に言ってやる。

 頑張ったな。

 好きにやってみろ。

 お前はお前でいい。』


 書き終えた時、涙が落ちた。


 それは悲しみだけではなかった。


 長い間、誰かにもらえなかった言葉を、ようやく自分で自分に渡せたような涙だった。


 日曜日まで、あと六日。


 父に会う日が近づいている。


 怖さは消えない。


 でも、悠斗はもうひとりではなかった。


 小さかった自分。


 夢を持っていた自分。


 美月から逃げた自分。


 負けた話をした自分。


 ありがとうを言えた自分。


 他人の幸せを祝えた自分。


 それら全部が、少しずつ今の悠斗の味方になり始めていた。


 遠回りした道で置いてきた自分たちを、悠斗は少しずつ拾い集めている。


 その先に、父がいる。


 そしてきっと、その先にはまだ見たことのない景色がある。


 悠斗はノートを閉じ、机のライトを消した。


 暗くなった部屋の中で、胸の奥の小さな灯りだけが、静かに残っていた。

第7話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「昔の自分を責めるのをやめること」でした。


過去の自分は、弱かったかもしれません。

逃げたかもしれません。

間違えたかもしれません。


でも、その時の自分も必死に生きていました。


悠斗は手紙を書くことで、夢を諦めた自分、美月から逃げた自分、父に認めてほしかった小さな自分を、少しずつ味方にしていきます。


次回は、第8話「会いたくない人に会え」です。

悠斗はついに、長年避け続けてきた父と向き合うことになります。

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