第7話 昔の自分に手紙を書け
第6話では、悠斗が友人・恒一の幸せを祝い、自分の中にあった「家族が欲しかった」という本音に気づきました。
そして、夢を諦めた昔の自分、美月から逃げてしまった昔の自分へ手紙を書き始めます。
今回の第7話では、その手紙を通して、悠斗が過去の自分を少しずつ許していく物語です。
朝倉悠斗は、ノートに書いた父の名前を見つめていた。
『朝倉誠司』
たった四文字の名前なのに、そこには三十五年分の重さがあった。
厳しい声。
無言の背中。
食卓に流れる緊張。
テストの点数を見せた時の、低い溜め息。
小説家になりたいと言った時の、あの一言。
「夢なんかで飯が食えると思うな」
その言葉は、長い間、悠斗の中で呪いのように残っていた。
けれど最近になって、少しだけ違う見方も生まれていた。
父は本当に、悠斗を傷つけたかったのだろうか。
もちろん、傷ついたことは事実だ。
あの言葉で悠斗は夢を閉じ込めた。自分の好きなものを恥ずかしいと思うようになった。父に本音を話すのが怖くなった。
でも、父にも父の怖さがあったのかもしれない。
不安定な夢を追って、息子が生活に困ることを恐れていたのかもしれない。
父自身もまた、何かを諦めてきた人だったのかもしれない。
そう考えられるようになったのは、福神弥助と出会ってからだった。
負けたことを書く。
ありがとうを言う。
夢を諦めた駅へ戻る。
コンビニ店員の名前を覚える。
他人の成功を祝う。
昔の自分に手紙を書く。
ひとつひとつは小さな宿題だった。
けれど、それらは悠斗の固く閉じていた心を、少しずつこじ開けていた。
日曜日の夜。
悠斗は机に向かっていた。
部屋の中は、以前より少しだけ片付いていた。完璧にはほど遠い。床にはまだ洗濯物が残り、キッチンには洗っていない皿もある。
けれど、机の上だけは違った。
古本屋で買った文庫本。
宿題ノート。
黒いペン。
小さなライト。
そこだけは、悠斗が自分に戻るための場所になっていた。
悠斗はノートを開いた。
前のページには、二通の手紙がある。
一通目は、夢を諦めた二十二歳の自分へ。
二通目は、美月から逃げた三十二歳の自分へ。
読み返すと、胸が少し痛んだ。
でも、その痛みはもう自分を責めるだけのものではなかった。
あの時の自分も必死だった。
怖かった。
弱かった。
でも、生きようとしていた。
そう思えるだけで、過去の景色が少し変わった。
悠斗は新しいページを開いた。
今日、書かなければならない手紙がある。
父に会う前に、どうしても向き合わなければならない自分がいた。
小学生の頃の自分。
父に褒められたくて、でもうまくできなかった自分。
悠斗はページの一番上に書いた。
『小さかった俺へ』
ペン先が止まった。
昔の自分へ手紙を書く。
それは、思った以上に体力のいる作業だった。
記憶の中に戻るということは、楽しかったことだけでなく、痛かったことにも触れるということだからだ。
悠斗は目を閉じた。
小学四年生の頃。
運動会の前日。
リレーの選手に選ばれなかった悠斗は、家に帰ってから父に言われた。
「足が遅いのは仕方ない。でも悔しいなら練習しろ」
父に悪気はなかったのかもしれない。
けれど悠斗は、その言葉を「お前は努力が足りない」と受け取った。
悔しかった。
でも、悔しいと言えなかった。
練習したいとも言えなかった。
ただ黙って、夕飯の白米を見つめていた。
中学生の頃。
数学のテストで平均点より少し低い点を取った。
父は答案用紙を見て言った。
「ケアレスミスが多すぎる。こういうところが甘いんだ」
その通りだった。
でも悠斗が本当に欲しかったのは、正論ではなかった。
「頑張ったな」
その一言だった。
高校生の頃。
初めて書いた短い小説を、誰にも見せられずに机の引き出しにしまった。
父に見つかったら笑われると思った。
くだらないと言われると思った。
だから、書いたことすら秘密にした。
悠斗はペンを握り直した。
『小さかった俺へ。
お前は、ずっと父さんに褒められたかったんだと思う。
すごいなって言われたかった。
頑張ったなって言われたかった。
失敗しても、点数が低くても、足が遅くても、夢みたいなことを言っても、それでもお前はお前でいいって言ってほしかった。』
書いた瞬間、胸の奥に古い痛みが広がった。
そうだ。
悠斗は父に勝ちたかったのではない。
父を見返したかったのでもない。
本当は、父に認めてほしかった。
たったそれだけだった。
『でも、お前はそれを言えなかった。
言ったら負けだと思った。
甘えていると思われるのが怖かった。
だから、平気なふりをした。
傷ついていないふりをした。
そのうち、本当に自分の気持ちがわからなくなった。』
悠斗は一度ペンを置いた。
窓の外では、夜の風がカーテンを揺らしている。
昔の自分が、机の向こう側に座っているような気がした。
小さな悠斗。
膝を抱えて、何も言わずにこちらを見ている。
その子に、今の自分は何を言ってやれるだろう。
大丈夫だよ。
そんな簡単な言葉では届かない気がした。
だから悠斗は、正直に書いた。
『ごめん。
ずっと、お前の寂しさをなかったことにしてきた。
父さんに認めてほしかっただけなのに、それを情けないことみたいに扱ってきた。
でも今なら少しわかる。
認めてほしいと思うのは、弱いからじゃない。
大切な人だったからだ。
父さんのことがどうでもよかったら、あんなに傷つかなかった。』
ペンを動かしながら、悠斗の目から涙が落ちた。
静かな涙だった。
嗚咽するほどではない。
ただ、胸の奥から古い水が染み出してくるようだった。
『お前は、よく我慢した。
言えなかったことも、泣けなかったことも、全部ひとりで抱えてきた。
でも、もう全部ひとりで持たなくていい。
今の俺が、少しずつ拾いに行く。
父さんに言えなかった言葉も、夢を隠した時間も、自分を嫌いになった癖も、少しずつ取り戻していく。』
書き終えた時、悠斗は深く息を吐いた。
手紙を書くたびに、過去が変わるわけではない。
父の言葉が消えるわけでもない。
美月を傷つけた事実が消えるわけでもない。
夢を諦めた十年が戻ってくるわけでもない。
それでも、過去の見え方は変わる。
昔の自分を責めるだけだった記憶に、少しだけ優しさが混ざる。
それは、悠斗にとって大きなことだった。
スマートフォンが震えた。
母からのメッセージだった。
『今日は電話ありがとう。久しぶりに声が聞けて嬉しかったです。無理しないでね。今度、時間がある時に帰っておいで。』
悠斗は画面を見つめた。
母からの何気ない言葉が、今夜はやけに染みた。
帰っておいで。
その言葉の向こうには、父もいる。
実家。
食卓。
あの重苦しい空気。
でも同時に、焼き芋を半分こした記憶もある。
傷だけではない。
温かいものもあった。
悠斗は返信を打った。
『こちらこそありがとう。今度、帰る日決めるよ。』
送信してから、しばらく画面を見つめた。
送ってしまった。
帰る日を決める。
父に会う。
その現実が、少しずつ近づいてくる。
翌朝。
悠斗はいつもより早く目が覚めた。
カーテンを開けると、空は薄く曇っていた。昨日までの晴れが少し遠のき、街全体にぼんやりとした灰色の光がかかっている。
会社に行く準備をしながら、悠斗はノートのことを考えていた。
小さかった自分への手紙。
書いたことで、胸は軽くなった。
でも同時に、父に会うことへの怖さは増していた。
向き合う準備ができたからこそ、怖さが具体的になったのだ。
父に何を言えばいいのか。
あの時、傷ついたと言えばいいのか。
夢を否定されたことが苦しかったと言えばいいのか。
認めてほしかったと言えばいいのか。
そんなことを言って、父はどう反応するだろう。
「今さら何を言ってるんだ」
そう言われるかもしれない。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
と流されるかもしれない。
あるいは、何も言わずに黙り込むかもしれない。
考えるだけで、胃の奥が重くなった。
会社へ向かう途中、いつものコンビニに寄った。
レジには山口さんがいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
悠斗はお茶とパンを買った。
会計をしながら、山口さんが少し首を傾げた。
「今日、少し眠そうですね」
悠斗は驚いた。
そんなことを言われる関係になったのか。
「ちょっと考え事してて」
「そうなんですね。無理しないでください」
山口さんはそう言って、レシートを渡した。
何気ない一言。
でも、悠斗の心には温かく残った。
「ありがとうございます、山口さん」
店を出ると、朝の空気が少し柔らかく感じた。
人は、名前を知ると背景ではなくなる。
そして、相手もまた自分を少しだけ見てくれることがある。
会社では、月曜日らしく慌ただしい時間が流れていた。
週明けのメール。
急な会議。
先方からの確認依頼。
村瀬の厳しい声。
西野の慌ただしい足音。
以前なら、そのすべてに飲み込まれていた。
今も楽ではない。
でも、少しだけ違う。
悠斗はタスクを紙に書き出した。
優先順位をつける。
わからないことは西野に相談する。
ミスを見つけたら、早めに村瀬へ報告する。
完璧ではない。
でも、以前よりは抱え込まなくなった。
昼休み、西野が隣に座ってきた。
「朝倉さん、今日お昼ここでいいですか?」
会社近くの公園だった。
悠斗はベンチでパンを食べていた。
「もちろん」
西野はコンビニ弁当を開けた。
少し迷うような顔をしてから言った。
「朝倉さんって、最近何か始めたんですか?」
「何かって?」
「なんか、前より落ち着いてるというか。いや、忙しそうなのは変わらないですけど」
悠斗は少し考えた。
変なおっさんに宿題を出されている。
そう言うわけにもいかない。
「ノートを書いてる」
「ノート?」
「自分が負けたこととか、受け取ってきたものとか。昔の自分への手紙とか」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
西野は笑うかと思った。
でも、西野は真面目な顔で頷いた。
「いいですね、それ」
「そう?」
「はい。僕も最近、自分が何に焦ってるのかわからなくなる時あります」
悠斗は意外だった。
「西野でも?」
「でもって何ですか」
「いや、仕事できるから」
西野は苦笑した。
「できるように見せてるだけです。内心いつも焦ってますよ」
その言葉に、悠斗は恒一の話を思い出した。
幸せそうに見える人も、成功しているように見える人も、みんな途中。
西野もそうなのだ。
「朝倉さん、前はすごく遠い人に見えてました」
「俺が?」
「はい。何考えてるかわからなくて、いつも自分の中に閉じこもってる感じで」
悠斗は苦笑した。
「実際、閉じこもってたと思う」
「でも最近は、弱いところも見せてくれるから、こっちも話しやすいです」
悠斗はパンの袋を丸めながら、胸が少し温かくなるのを感じた。
弱さを見せることは、情けないことだと思っていた。
でも、それで誰かとの距離が近づくこともある。
もちろん、すべての弱さを誰にでも見せればいいわけではない。
でも、隠し続けるだけでは、人は近づけない。
「西野」
「はい」
「焦ってることがあるなら、俺でよければ聞くよ」
西野は少し驚いたあと、照れたように笑った。
「ありがとうございます。今度、聞いてください」
「うん」
その短いやり取りが、悠斗には嬉しかった。
誰かに頼るだけでなく、誰かに頼られること。
それもまた、自分がここにいていいと思える理由になる。
夕方、母から返信が来た。
『来月じゃなくても、今月でも大丈夫だよ。お父さんには私から言っておく?』
悠斗は画面を見て固まった。
父に言う。
帰ることを。
逃げたい気持ちが一気に戻ってきた。
まだ早い。
今は忙しい。
もう少し準備してから。
そんな言い訳が頭に浮かぶ。
だが、悠斗は弥助の紙切れを思い出した。
『会いたくない人に会え。まずは一番怖い名前を、声に出せ。』
昨夜、父の名前を声に出した。
朝倉誠司。
次は、実際に会う日を決めることなのかもしれない。
悠斗は返信欄を開いた。
何度も打っては消した。
そして、ようやく送った。
『今週の日曜日、少しだけ帰ろうかな。父さんにも伝えておいて。』
送信。
送った直後、心臓が強く鳴った。
決めてしまった。
今週の日曜日。
父に会う。
画面を伏せると、手が少し震えていた。
夜、悠斗はバス停へ向かった。
弥助はベンチに座り、なぜか将棋の駒を並べていた。
「何してるんですか」
「人生の研究や」
「将棋で?」
「人生も将棋も、一手間違えたくらいで終わらん」
弥助は真面目な顔で言った。
妙に説得力があるのが腹立たしい。
悠斗は隣に座った。
「手紙、書いたか?」
「書きました」
「誰に?」
「夢を諦めた自分と、美月から逃げた自分と、小さかった自分に」
「三通か。よう書いたな」
「疲れました」
「せやろな。過去の自分に会うのは体力いるからな」
弥助は将棋の歩を指で転がした。
「で、どうやった」
悠斗は少し考えた。
「昔の自分を、少し責めなくなりました」
「うん」
「夢を諦めた自分も、美月から逃げた自分も、父に何も言えなかった自分も、ずっと情けないと思ってました。でも、書いてみたら、みんな怖かっただけなんだなって」
「怖かっただけ?」
「はい。弱かったし、逃げたし、間違えた。でも、それだけじゃなくて、守りたいものもあったんだと思います」
弥助は小さく頷いた。
「ええな」
「父に会う日、決めました」
弥助の手が止まった。
「いつや」
「今週の日曜日です」
「ほう」
「怖いです」
「怖いやろな」
「何を言えばいいかわかりません」
「正解を言おうとするな」
弥助は言った。
「父親との会話に模範解答なんかない」
「でも、傷つけたくないし、傷つきたくもないです」
「無傷で本音を言おうとすんな」
悠斗は黙った。
「本音を言う時は、少しは傷つく。相手もざわつく。空気も揺れる。せやけど、その揺れを怖がって何も言わんかった結果、兄ちゃんは何年も苦しかったんやろ」
その通りだった。
「父さんに何を言えばいいんでしょう」
「まずは、昔の自分に書いた手紙を読め」
「父にですか?」
「ちゃう。自分でや」
弥助は将棋の駒を片付けながら言った。
「父親に会う前に、小さかった自分への手紙を声に出して読め。自分が何を伝えたいのか、そこに書いてある」
悠斗はノートを思い浮かべた。
小さかった俺へ。
父に認めてほしかった。
頑張ったなと言ってほしかった。
お前はお前でいいと言ってほしかった。
それが、伝えたいこと。
父を責めたいわけではない。
ただ、あの時の自分が傷ついたことを、なかったことにしたくない。
「次の宿題や」
弥助が言った。
「父に会うことじゃないんですか?」
「それは大宿題や。こっちは小宿題」
「宿題にサイズがあるんですね」
「ある。人生には小テストと期末テストがある」
「嫌な例えです」
弥助は紙切れを渡した。
『第八の宿題。会いたくない人に会え。会う前に、自分が本当に欲しかった言葉を三つ書け。』
悠斗は紙切れを見つめた。
欲しかった言葉。
父から欲しかった言葉。
すぐに浮かんだ。
頑張ったな。
好きにやってみろ。
お前はお前でいい。
たったそれだけ。
でも、悠斗がずっと欲しかった言葉だった。
家に帰ると、悠斗はノートを開いた。
今日のページに書く。
『父さんから欲しかった言葉。
一、頑張ったな。
二、好きにやってみろ。
三、お前はお前でいい。』
書いた瞬間、胸が締めつけられた。
こんなに単純な言葉を、自分はずっと欲しがっていたのか。
大人になっても。
三十五歳になっても。
心のどこかで、まだ待っていたのか。
悠斗はしばらくその三つの言葉を見つめていた。
そして、下に書き足した。
『もし父さんからもらえなくても、今の俺が昔の俺に言ってやる。
頑張ったな。
好きにやってみろ。
お前はお前でいい。』
書き終えた時、涙が落ちた。
それは悲しみだけではなかった。
長い間、誰かにもらえなかった言葉を、ようやく自分で自分に渡せたような涙だった。
日曜日まで、あと六日。
父に会う日が近づいている。
怖さは消えない。
でも、悠斗はもうひとりではなかった。
小さかった自分。
夢を持っていた自分。
美月から逃げた自分。
負けた話をした自分。
ありがとうを言えた自分。
他人の幸せを祝えた自分。
それら全部が、少しずつ今の悠斗の味方になり始めていた。
遠回りした道で置いてきた自分たちを、悠斗は少しずつ拾い集めている。
その先に、父がいる。
そしてきっと、その先にはまだ見たことのない景色がある。
悠斗はノートを閉じ、机のライトを消した。
暗くなった部屋の中で、胸の奥の小さな灯りだけが、静かに残っていた。
第7話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「昔の自分を責めるのをやめること」でした。
過去の自分は、弱かったかもしれません。
逃げたかもしれません。
間違えたかもしれません。
でも、その時の自分も必死に生きていました。
悠斗は手紙を書くことで、夢を諦めた自分、美月から逃げた自分、父に認めてほしかった小さな自分を、少しずつ味方にしていきます。
次回は、第8話「会いたくない人に会え」です。
悠斗はついに、長年避け続けてきた父と向き合うことになります。




