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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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8/30

第8話 会いたくない人に会え

第7話では、悠斗が昔の自分に手紙を書きました。


夢を諦めた自分。

美月から逃げた自分。

父に認めてほしかった小さな自分。


過去の自分を責めるだけではなく、少しずつ味方にしていく中で、悠斗はついに父と会う日を決めます。


今回の第8話では、長年避け続けてきた父・朝倉誠司と向き合います。

日曜日の朝、朝倉悠斗は目覚ましが鳴るよりもずっと早く目を覚ました。


 まだ午前六時前だった。


 カーテンの隙間から差し込む光は薄く、部屋の中は青白い静けさに包まれていた。いつもなら二度寝をする時間だったが、この日は目を閉じても眠れなかった。


 今日は、実家へ帰る日だった。


 父に会う日だった。


 朝倉誠司。


 その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が重くなる。


 悠斗は布団の中で仰向けになり、天井の染みを見つめた。何度も見てきた染み。人生に置いていかれた朝も、夢を諦めた自分に手紙を書いた夜も、ずっとそこにあった染み。


 以前の悠斗なら、その染みを見つめながら「また逃げよう」と思っていたかもしれない。


 体調が悪いと言えばいい。


 仕事が入ったと言えばいい。


 急用ができたと言えばいい。


 母は心配するだろうが、無理に来いとは言わない。父もきっと何も言わない。そうしてまた、何事もなかったように数か月が過ぎる。


 それは、とても簡単な逃げ道だった。


 けれど悠斗は、もうその逃げ道を選びたくなかった。


 怖さは消えていない。


 むしろ、日が近づくにつれて怖さは増していた。


 それでも、逃げたくないと思っている自分がいた。


 悠斗は起き上がり、机の上のノートを開いた。


 昨夜、何度も読み返したページ。


『父さんから欲しかった言葉。

 一、頑張ったな。

 二、好きにやってみろ。

 三、お前はお前でいい。』


 その下には、こう書いてある。


『もし父さんからもらえなくても、今の俺が昔の俺に言ってやる。

 頑張ったな。

 好きにやってみろ。

 お前はお前でいい。』


 悠斗は、その文字を指でなぞった。


 父からその言葉をもらえるかどうかはわからない。


 もしかしたら、もらえないかもしれない。


 今日、実家へ帰っても、父は昔と同じように無口で、正しさだけを並べるかもしれない。


 傷ついたと言っても、理解してもらえないかもしれない。


 それでも、自分が何を欲しかったのかを知っているだけで、少し違う気がした。


 父に勝つために帰るのではない。


 父を責めるために帰るのでもない。


 小さかった自分が抱えていた言葉を、今の自分が迎えに行くために帰るのだ。


 悠斗は顔を洗い、簡単な朝食を食べた。


 トーストを焼いたが、ほとんど味がしなかった。コーヒーも半分残した。


 着替えながら、鏡の中の自分を見る。


 白いシャツ。


 紺色のジャケット。


 会社へ行く時より少しだけ柔らかい服装。


 でも顔は緊張していた。


「大丈夫」


 悠斗は小さく言った。


 昔なら、この言葉は嘘だった。


 でも今日は少し違う。


 大丈夫というのは、傷つかないという意味ではない。


 怖くても行けるという意味だ。


 家を出る前、悠斗はノートを鞄に入れた。


 父に見せるつもりはない。


 けれど、持っていきたかった。


 自分の味方を連れていくような気がしたからだ。


 駅へ向かう途中、いつものコンビニの前を通った。


 日曜日の朝だからか、店内は平日より少し静かだった。山口さんはいなかった。佐藤さんがレジに立っている。


 悠斗は店に入り、お茶を一本買った。


「おはようございます」


 佐藤さんが言った。


「おはようございます」


 会計を済ませ、レシートを受け取る。


「佐藤さん、ありがとうございます」


「ありがとうございます。お気をつけて」


 その言葉が、今朝は妙に心強かった。


 お気をつけて。


 どこへ行くのか、佐藤さんは知らない。


 でもその一言は、悠斗の背中を少し押してくれた。


 電車に乗ると、車内は休日らしく穏やかだった。


 家族連れ、買い物に向かう人、部活の道具を持った学生、眠そうな若者。


 悠斗は窓際に立ち、流れていく景色を眺めた。


 実家までは電車で一時間ほど。


 遠すぎるわけではない。


 それなのに、ここ数年の悠斗にとっては、ひどく遠い場所だった。


 距離ではなく、心が遠かった。


 父と向き合うことから逃げていた分だけ、実家までの道のりは長くなっていた。


 電車の揺れに身を任せながら、悠斗は子供の頃のことを思い出した。


 小学生の時、父とキャッチボールをしたことがあった。


 父は野球経験者ではなかったが、投げ方をやけに細かく教えてきた。


「肘を下げるな」


「ボールを最後まで見ろ」


「逃げるな」


 悠斗は、父の言葉が怖かった。


 でも本当は、父と遊べることが嬉しかった。


 厳しい指導の中にも、父が自分に時間を使ってくれているという喜びがあった。


 しかし悠斗は、ある時ボールを顔に当てて泣いた。


 父は慌てて駆け寄ってきたが、悠斗が泣き止まないと、困ったように言った。


「男なら、それくらいで泣くな」


 その瞬間、嬉しかったキャッチボールは、恥ずかしい記憶に変わった。


 泣いてはいけない。


 弱いところを見せてはいけない。


 父の前では、ちゃんとしていなければいけない。


 そう思うようになったのは、いつからだったのだろう。


 電車が実家の最寄り駅に近づくにつれ、悠斗の心臓は早くなった。


 降りたくない。


 まだ間に合う。


 次の駅まで乗り過ごして、そのまま帰ることもできる。


 そんな考えが浮かぶ。


 けれど、悠斗は鞄の中のノートに手を当てた。


 昔の自分に書いた手紙。


 負けた話。


 ありがとう。


 他人の幸せを祝えたこと。


 夢を拾いに行ったこと。


 それらが、今の悠斗の中にあった。


 電車が止まる。


 ドアが開く。


 悠斗は降りた。


 駅前は、昔より少し変わっていた。


 古いスーパーは建て替えられ、駐輪場には新しい屋根がついている。けれど、駅前の花壇と、ロータリーの時計は昔のままだった。


 実家までは歩いて十五分。


 悠斗はゆっくり歩き出した。


 途中、小学校の前を通った。


 校庭では少年野球の練習が行われていた。子供たちの声と、バットにボールが当たる音が響いている。


 悠斗は足を止めた。


 ひとりの男の子が、ボールを後ろに逸らしてしまった。


 コーチが何かを言い、男の子は慌てて頭を下げる。


 その姿が、昔の自分と重なった。


 失敗すると、すぐに謝る。


 怒られる前に謝る。


 自分を守るために、先に自分を小さくする。


 悠斗は小さく息を吐いた。


 もう、あの頃の自分を責めるのはやめよう。


 よく頑張った。


 怖かったのに、よく生きてきた。


 そう心の中で呟き、また歩き出した。


 実家の前に着くと、足が止まった。


 二階建ての古い家。


 外壁は少し汚れ、庭の木は以前より大きくなっていた。玄関脇の植木鉢には、母が好きな花が植えられている。


 変わっているようで、変わっていない。


 インターホンを押す指が、少し震えた。


 押した。


 家の中でチャイムが鳴る。


 数秒後、玄関の向こうから足音が聞こえた。


 ドアが開く。


「悠斗」


 母だった。


 母は少し驚いたように、そして嬉しそうに笑った。


「よく来たね」


「うん。久しぶり」


 母は以前より少し小さく見えた。


 髪には白いものが増え、目元のしわも深くなっている。


 その変化に、悠斗は胸が痛んだ。


 自分が避けている間にも、両親は年を取っていた。


「入って。お父さん、居間にいるから」


 その言葉で、悠斗の体が少し固くなった。


 靴を脱ぎ、廊下を進む。


 家の匂いがした。


 畳。


 洗剤。


 煮物の匂い。


 子供の頃から知っている匂い。


 懐かしいのに、少し苦しい。


 居間のふすまが開いていた。


 父は、テレビの前に座っていた。


 朝倉誠司。


 悠斗の記憶の中では大きく、硬く、絶対的だった父。


 けれど目の前の父は、少し背中が丸くなっていた。髪には白髪が増え、頬も少し痩せている。


 それでも、横顔の鋭さは昔のままだった。


「来たか」


 父はテレビから目を離さずに言った。


「うん」


 悠斗は居間に入った。


 座布団に座る。


 母がお茶を出してくれた。


「お昼、食べていくでしょ? 簡単なものだけど」


「うん。ありがとう」


 父は黙ってテレビを見ている。


 会話は、母がほとんどつないでくれた。


「仕事は忙しいの?」


「まあ、それなりに」


「体調は大丈夫?」


「うん」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


 普通の会話。


 けれど、その横に父がいるだけで、悠斗は言葉を選んでしまう。


 父は時々、短く口を挟んだ。


「仕事は続いてるのか」


「続いてるよ」


「そうか」


「うん」


 それだけ。


 たったそれだけなのに、悠斗の心は昔の自分に戻りそうになる。


 正解を言わなければ。


 ちゃんとしているように見せなければ。


 心配されないように。


 失望されないように。


 けれど、今日の悠斗はそれだけで帰るつもりはなかった。


 昼食は、母が作った煮物と焼き魚だった。


 父は黙々と食べ、母は時々悠斗に話しかけた。


 味は懐かしかった。


 子供の頃は当たり前のように食べていた味。


 離れて初めて、それが当たり前ではなかったことに気づく。


「おいしい」


 悠斗が言うと、母は嬉しそうに笑った。


「そう? よかった」


 父は何も言わなかった。


 食後、母が台所へ片付けに行った。


 居間には、父と悠斗の二人だけが残った。


 テレビの音がやけに大きく聞こえた。


 悠斗は湯呑みを両手で包みながら、心臓の音を感じていた。


 今しかない。


 でも、何から言えばいい。


 父は相変わらずテレビを見ている。


 このまま何も言わずに帰れば、きっと今日も普通に終わる。


 母は喜ぶだろう。


 父も何も言わないだろう。


 そして悠斗は、また数か月逃げる。


 それは嫌だった。


 悠斗は鞄に手を伸ばし、ノートを取り出した。


 父がちらりとこちらを見た。


「何だ、それ」


「ノート」


「仕事か」


「違う」


 悠斗は首を振った。


「最近、書いてるんだ。自分のこと」


 父は少し眉をひそめた。


「日記か」


「日記みたいなものかな」


「そうか」


 また沈黙。


 悠斗はノートを開かなかった。


 ただ、膝の上に置いた。


 それだけで少し落ち着いた。


「父さん」


 声が出た。


 思ったより掠れていた。


 父がテレビの音量を少し下げた。


「何だ」


 悠斗は息を吸った。


「昔、小説家になりたいって言ったこと、覚えてる?」


 父の表情が少しだけ動いた。


「そんなこともあったな」


「あの時、父さんに言われたんだ。夢なんかで飯が食えると思うなって」


 父は黙った。


 悠斗の胸が強く鳴る。


 でも続けた。


「たぶん、父さんは現実を見ろって言いたかったんだと思う。俺が困らないようにって。今なら少しはわかる」


 父はテレビを消した。


 居間が静かになった。


「でも、あの時の俺には、すごくきつかった」


 言った。


 言ってしまった。


 父の顔を見るのが怖かった。


 けれど、悠斗は目を逸らさなかった。


「俺、あの言葉で、自分の夢が恥ずかしいものみたいに思えた。小説を書きたいって思う自分が、甘くて、馬鹿で、現実を知らない子供みたいに思えた」


 父は何も言わない。


「それから、書かなくなった。もちろん、全部父さんのせいにするつもりはない。俺も怖かったし、逃げた。でも、ずっと引っかかってた」


 声が震えた。


 でも、止めなかった。


「本当は、応援してほしかったんだと思う」


 父の眉がわずかに動いた。


「好きにやってみろって、言ってほしかった。駄目でもいいから、一回やってみろって」


 言い終えた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 これが、ずっと言えなかった言葉だった。


 父はしばらく黙っていた。


 その沈黙が長く感じた。


 やっぱり言わなければよかった。


 そう思いかけた時、父が低い声で言った。


「……そんなに、傷ついてたのか」


 悠斗は顔を上げた。


 父はテレビの消えた画面を見ていた。


「俺は、そんなつもりで言ったわけじゃなかった」


 予想していた言葉だった。


 そんなつもりじゃなかった。


 でも、不思議と悠斗は怒らなかった。


 弥助の言葉を思い出した。


 無傷で本音を言おうとするな。


 相手もざわつく。


 空気も揺れる。


「うん。そうだと思う」


 悠斗は言った。


「でも、俺は傷ついた」


 父はゆっくり頷いた。


「そうか」


 その「そうか」は、いつものそっけない「そうか」と少し違っていた。


 重かった。


 受け取ろうとしている声だった。


 父はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。


「俺も、言い方が悪かったんだろうな」


 悠斗は驚いた。


 父がそんなことを言うとは思わなかった。


 父は手元の湯呑みを見つめていた。


「お前に苦労させたくなかった」


「うん」


「俺は、若い頃にやりたいことなんかなかった。いや、あったのかもしれんが、考える余裕がなかった。働くしかなかった。家族を食わせることばかり考えてた」


 父の声は、昔より少し小さかった。


「だから、お前が夢みたいなことを言った時、怖かったんだと思う。そんな不安定な道に行って、食えなかったらどうするんだと」


 悠斗は黙って聞いていた。


 父の怖さ。


 初めて見るものだった。


「でも」


 父は言葉を探すように続けた。


「お前が書いてたのは、知ってた」


「え?」


「夜、部屋の明かりがついてた。ノートに何か書いてるのも見たことがある」


 悠斗は息を呑んだ。


 父は知っていたのか。


「正直、俺には何がいいのかわからなかった。でも、お前が真剣な顔をしてたのは覚えてる」


 悠斗の胸が震えた。


 父は覚えていた。


 自分がノートに向かっていたことを。


 何も見ていなかったわけではなかった。


「俺は、褒めるのが下手だった」


 父は言った。


「今さら言っても遅いかもしれないが」


 今さら。


 その言葉に、悠斗は弥助の顔を思い出した。


 人間、だいたい全部今さらや。


 今さらやから意味がないって誰が決めたんや。


 父は、ゆっくり悠斗を見た。


「お前は、よくやってると思う」


 悠斗は動けなくなった。


 父の口から出た言葉。


 よくやってる。


 それは、悠斗がずっと欲しかった言葉に似ていた。


「仕事のことは、詳しく知らん。小説のことも、俺にはよくわからん。でも、今日こうして話しに来たのは、勇気がいっただろう」


 父は少し不器用に言った。


「頑張ったな」


 その瞬間、悠斗の中で何かが崩れた。


 ずっと待っていた言葉だった。


 小学生の頃から。


 テストで失敗した日も。


 運動会で悔しかった日も。


 小説を書いていた夜も。


 就職した日も。


 美月と別れた日も。


 仕事で怒られた日も。


 ずっと、どこかで待っていた言葉。


 頑張ったな。


 悠斗は俯いた。


 涙がこぼれた。


 父の前で泣くのは、いつ以来だろう。


 子供の頃、ボールを顔に当てて泣いた日以来かもしれない。


 あの時は「それくらいで泣くな」と言われた。


 でも今日、父は何も言わなかった。


 ただ、黙ってそこにいた。


「俺……ずっと、父さんに認めてほしかった」


 悠斗は涙を拭いながら言った。


「うん」


「頑張ったなって、言ってほしかった」


「うん」


「お前はお前でいいって、言ってほしかった」


 父は長く黙った。


 そして、不器用に、少し掠れた声で言った。


「お前は、お前でいい」


 悠斗は声を出して泣いた。


 三十五歳の大人が、父の前で泣いている。


 情けないと思う気持ちは、不思議となかった。


 小さかった自分が、ようやく泣けたのだと思った。


 台所から母が戻ってきた。


 母は何かを察したように、何も言わず、そっと居間の入口に立っていた。


 父は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「……小説は、まだ書いてるのか」


 父が聞いた。


 悠斗は涙を拭きながら頷いた。


「少しだけ。また最近、書き始めた」


「そうか」


「まだ、一文とか、短い文章だけど」


「そうか」


 父は少し迷ったあと、言った。


「好きにやってみろ」


 悠斗はまた泣きそうになった。


 欲しかった三つの言葉。


 頑張ったな。


 お前はお前でいい。


 好きにやってみろ。


 全部、今日もらってしまった。


 もちろん、それで過去が完全に消えるわけではない。


 傷ついた時間がなかったことになるわけではない。


 でも、長い間止まっていた何かが、静かに動き出した気がした。


 母は目元を押さえながら、少し笑った。


「よかったね、悠斗」


 悠斗は頷いた。


「うん」


 その日の午後、悠斗は久しぶりに実家でゆっくり過ごした。


 母と台所で話し、父とは庭の木を眺めながら少しだけ話した。


 父は相変わらず口数が少ない。


 急に優しい人になったわけではない。


 でも、悠斗もまた、父に完璧な変化を求めていたわけではなかった。


 少し話せた。


 それだけで十分だった。


 帰り際、母が弁当を持たせてくれた。


「夜、食べなさい」


「ありがとう」


 父は玄関まで来た。


「また、顔出せ」


 短い言葉だった。


 でも、それは父なりの「また会いたい」なのだと思った。


「うん。また来る」


 悠斗は靴を履き、玄関を出た。


 振り返ると、父と母が並んで立っていた。


 その姿を見て、悠斗は思った。


 家族は、完璧な場所ではない。


 傷つけ合うこともある。


 言葉が足りないこともある。


 長い間すれ違うこともある。


 それでも、戻れる場所になることもある。


 遅すぎることなんて、本当はないのかもしれない。


 駅へ向かう道で、悠斗は何度も深呼吸をした。


 胸の中が痛くて、温かくて、まだ整理できなかった。


 電車に乗り、窓の外を見ながら、ノートを開いた。


 揺れる車内で、悠斗は今日のことを書いた。


『父に会った。

 怖かった。

 逃げたかった。

 でも、言えた。

 あの言葉で傷ついたこと。

 本当は応援してほしかったこと。

 認めてほしかったこと。

 父さんは、すぐに全部わかってくれたわけではない。

 でも、聞いてくれた。

 そして、言ってくれた。

 頑張ったな。

 お前はお前でいい。

 好きにやってみろ。』


 文字が少し滲んだ。


 また涙が落ちていた。


 悠斗は慌てて拭ったが、もう恥ずかしくはなかった。


 最寄り駅に着く頃には、外は夕方になっていた。


 空は橙色に染まり、街の影が長く伸びていた。


 悠斗はそのまま、いつものバス停へ向かった。


 福神弥助は、そこにいた。


 ベンチに座り、缶のおしるこを飲んでいる。


「お、帰ってきたな」


 弥助は悠斗を見るなり、目を細めた。


「泣いた顔しとる」


「便利ですね、その顔診断」


「福の神検定一級や」


 悠斗は隣に座った。


 しばらく、何も言えなかった。


 弥助も急かさなかった。


 夕方の風が、バス停の屋根を静かに揺らした。


「言えました」


 悠斗はようやく言った。


「何を」


「傷ついたこと。応援してほしかったこと。認めてほしかったこと」


「うん」


「父さん、聞いてくれました」


「うん」


「欲しかった言葉も、言ってくれました」


 弥助は少しだけ笑った。


「よかったな」


 その言葉は、いつものふざけた調子ではなかった。


 本当に、静かに、温かかった。


 悠斗は頷いた。


「はい」


「でもな」


 弥助が言った。


「これで全部解決やと思うなよ」


「わかってます」


 悠斗は小さく笑った。


「父さんとの関係が急に完璧になるわけじゃない。でも、今日、初めてちゃんと話せた気がします」


「それでええ」


 弥助は缶のおしるこを飲み干した。


「人生はな、一回の感動で全部変わるほど単純やない。でも、一回ちゃんと向き合えた記憶は、その後の自分を支えてくれる」


 悠斗は頷いた。


 今日のことは、きっとこれから何度も思い出す。


 仕事で落ち込んだ日。


 夢を書くのが怖くなった日。


 誰かに会うのが怖くなった日。


 そのたびに、自分は思い出すだろう。


 怖くても行けた日があった。


 本音を言えた日があった。


 欲しかった言葉を受け取れた日があった。


「次の宿題や」


 弥助が言った。


「今日くらい休ませてくれませんか」


「甘い。人生は続くんや」


 悠斗は苦笑した。


「何ですか」


 弥助は紙切れを渡した。


 そこには、こう書かれていた。


『第九の宿題。父親の背中を、悪者にせず思い出せ。』


 悠斗は紙切れを見つめた。


「父親の背中……」


「今日、話したんやろ。でも、まだ父親を一人の人間として見る宿題が残っとる」


「一人の人間として」


「父親を父親としてだけ見てるうちは、昔の痛みから抜けられへんことがある。あの人も、何かを背負って生きてきた一人の人間や」


 悠斗は、今日見た父の背中を思い出した。


 少し丸くなった背中。


 昔より小さく見えた背中。


 それでも、不器用に家族を支えてきた背中。


「書いてみます」


 悠斗は言った。


「ええ顔や」


「今日は犬じゃないですか?」


「今日は……まあ、人間やな」


「ようやく」


 悠斗は笑った。


 家に帰ると、母が持たせてくれた弁当を温めた。


 焼き魚、卵焼き、煮物。


 昼にも食べた味なのに、夜に一人で食べるとまた違う味がした。


 温かくて、少し寂しくて、ありがたい味だった。


 食べ終えたあと、悠斗は机に向かった。


 ノートを開く。


 今日のページの続きに、こう書いた。


『父さんは、俺を傷つけた人だった。

 でも、それだけの人ではなかった。

 不器用で、怖がりで、褒め方を知らなくて、それでも家族を守ろうとしていた人だった。

 俺は、父さんを許しきれたわけじゃない。

 でも、父さんを悪者だけにするのは、今日で少しやめようと思う。』


 悠斗はペンを止めた。


 胸の中には、まだ痛みがある。


 でも、その痛みの隣に、温かいものもある。


 人を許すというのは、傷つかなかったことにすることではない。


 相手を完全に正しいことにすることでもない。


 ただ、その人にも物語があったのだと認めることなのかもしれない。


 悠斗は、今日父からもらった言葉をもう一度書いた。


『頑張ったな。

 お前はお前でいい。

 好きにやってみろ。』


 その下に、小さく書き足す。


『遠回りしたぶん、少しだけ幸せに近づいた気がした。』


 部屋は相変わらず完璧ではない。


 仕事も不安なまま。


 美月とはまだ向き合えていない。


 小説だって、まだ一文ずつしか進んでいない。


 でも、今日の悠斗は思った。


 人生は、一気に変わらなくていい。


 一つずつでいい。


 一人ずつでいい。


 一言ずつでいい。


 遠回りした道の途中で、拾えるものがある。


 置いてきた自分。


 言えなかった本音。


 欲しかった言葉。


 誰かの不器用な愛情。


 それらを拾い集めながら、人は少しずつ、自分の人生へ戻っていく。


 悠斗はノートを閉じ、机のライトを消した。


 布団に入る前、スマートフォンが震えた。


 父からだった。


 短いメッセージ。


『今日は来てくれてありがとう。小説、書けたら少し読ませてくれ。』


 悠斗は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 そして、涙がまたこぼれた。


 今度は、少し笑いながら泣いた。


 返信欄を開く。


『ありがとう。いつか読んでほしい。』


 送信。


 その夜、悠斗は久しぶりに深く眠った。


 夢の中で、小さな自分がキャッチボールをしていた。


 ボールを落としても、泣いても、誰も怒らなかった。


 ただ、遠くから誰かの声がした。


 頑張ったな。


 その声に向かって、小さな悠斗は少し笑った。

第8話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「会いたくない人に会う」でした。


会いたくない人に会うことは、相手を許すためだけではありません。

昔の自分が抱えていた言葉を、今の自分が迎えに行くためでもあります。


悠斗は父に、傷ついたこと、応援してほしかったこと、認めてほしかったことを伝えました。


父との関係が一瞬で完璧になるわけではありません。

それでも、本音を言えた一日は、これからの悠斗を支える記憶になります。


次回は、第9話「父親の背中」へ続きます。

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