第8話 会いたくない人に会え
第7話では、悠斗が昔の自分に手紙を書きました。
夢を諦めた自分。
美月から逃げた自分。
父に認めてほしかった小さな自分。
過去の自分を責めるだけではなく、少しずつ味方にしていく中で、悠斗はついに父と会う日を決めます。
今回の第8話では、長年避け続けてきた父・朝倉誠司と向き合います。
日曜日の朝、朝倉悠斗は目覚ましが鳴るよりもずっと早く目を覚ました。
まだ午前六時前だった。
カーテンの隙間から差し込む光は薄く、部屋の中は青白い静けさに包まれていた。いつもなら二度寝をする時間だったが、この日は目を閉じても眠れなかった。
今日は、実家へ帰る日だった。
父に会う日だった。
朝倉誠司。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が重くなる。
悠斗は布団の中で仰向けになり、天井の染みを見つめた。何度も見てきた染み。人生に置いていかれた朝も、夢を諦めた自分に手紙を書いた夜も、ずっとそこにあった染み。
以前の悠斗なら、その染みを見つめながら「また逃げよう」と思っていたかもしれない。
体調が悪いと言えばいい。
仕事が入ったと言えばいい。
急用ができたと言えばいい。
母は心配するだろうが、無理に来いとは言わない。父もきっと何も言わない。そうしてまた、何事もなかったように数か月が過ぎる。
それは、とても簡単な逃げ道だった。
けれど悠斗は、もうその逃げ道を選びたくなかった。
怖さは消えていない。
むしろ、日が近づくにつれて怖さは増していた。
それでも、逃げたくないと思っている自分がいた。
悠斗は起き上がり、机の上のノートを開いた。
昨夜、何度も読み返したページ。
『父さんから欲しかった言葉。
一、頑張ったな。
二、好きにやってみろ。
三、お前はお前でいい。』
その下には、こう書いてある。
『もし父さんからもらえなくても、今の俺が昔の俺に言ってやる。
頑張ったな。
好きにやってみろ。
お前はお前でいい。』
悠斗は、その文字を指でなぞった。
父からその言葉をもらえるかどうかはわからない。
もしかしたら、もらえないかもしれない。
今日、実家へ帰っても、父は昔と同じように無口で、正しさだけを並べるかもしれない。
傷ついたと言っても、理解してもらえないかもしれない。
それでも、自分が何を欲しかったのかを知っているだけで、少し違う気がした。
父に勝つために帰るのではない。
父を責めるために帰るのでもない。
小さかった自分が抱えていた言葉を、今の自分が迎えに行くために帰るのだ。
悠斗は顔を洗い、簡単な朝食を食べた。
トーストを焼いたが、ほとんど味がしなかった。コーヒーも半分残した。
着替えながら、鏡の中の自分を見る。
白いシャツ。
紺色のジャケット。
会社へ行く時より少しだけ柔らかい服装。
でも顔は緊張していた。
「大丈夫」
悠斗は小さく言った。
昔なら、この言葉は嘘だった。
でも今日は少し違う。
大丈夫というのは、傷つかないという意味ではない。
怖くても行けるという意味だ。
家を出る前、悠斗はノートを鞄に入れた。
父に見せるつもりはない。
けれど、持っていきたかった。
自分の味方を連れていくような気がしたからだ。
駅へ向かう途中、いつものコンビニの前を通った。
日曜日の朝だからか、店内は平日より少し静かだった。山口さんはいなかった。佐藤さんがレジに立っている。
悠斗は店に入り、お茶を一本買った。
「おはようございます」
佐藤さんが言った。
「おはようございます」
会計を済ませ、レシートを受け取る。
「佐藤さん、ありがとうございます」
「ありがとうございます。お気をつけて」
その言葉が、今朝は妙に心強かった。
お気をつけて。
どこへ行くのか、佐藤さんは知らない。
でもその一言は、悠斗の背中を少し押してくれた。
電車に乗ると、車内は休日らしく穏やかだった。
家族連れ、買い物に向かう人、部活の道具を持った学生、眠そうな若者。
悠斗は窓際に立ち、流れていく景色を眺めた。
実家までは電車で一時間ほど。
遠すぎるわけではない。
それなのに、ここ数年の悠斗にとっては、ひどく遠い場所だった。
距離ではなく、心が遠かった。
父と向き合うことから逃げていた分だけ、実家までの道のりは長くなっていた。
電車の揺れに身を任せながら、悠斗は子供の頃のことを思い出した。
小学生の時、父とキャッチボールをしたことがあった。
父は野球経験者ではなかったが、投げ方をやけに細かく教えてきた。
「肘を下げるな」
「ボールを最後まで見ろ」
「逃げるな」
悠斗は、父の言葉が怖かった。
でも本当は、父と遊べることが嬉しかった。
厳しい指導の中にも、父が自分に時間を使ってくれているという喜びがあった。
しかし悠斗は、ある時ボールを顔に当てて泣いた。
父は慌てて駆け寄ってきたが、悠斗が泣き止まないと、困ったように言った。
「男なら、それくらいで泣くな」
その瞬間、嬉しかったキャッチボールは、恥ずかしい記憶に変わった。
泣いてはいけない。
弱いところを見せてはいけない。
父の前では、ちゃんとしていなければいけない。
そう思うようになったのは、いつからだったのだろう。
電車が実家の最寄り駅に近づくにつれ、悠斗の心臓は早くなった。
降りたくない。
まだ間に合う。
次の駅まで乗り過ごして、そのまま帰ることもできる。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、悠斗は鞄の中のノートに手を当てた。
昔の自分に書いた手紙。
負けた話。
ありがとう。
他人の幸せを祝えたこと。
夢を拾いに行ったこと。
それらが、今の悠斗の中にあった。
電車が止まる。
ドアが開く。
悠斗は降りた。
駅前は、昔より少し変わっていた。
古いスーパーは建て替えられ、駐輪場には新しい屋根がついている。けれど、駅前の花壇と、ロータリーの時計は昔のままだった。
実家までは歩いて十五分。
悠斗はゆっくり歩き出した。
途中、小学校の前を通った。
校庭では少年野球の練習が行われていた。子供たちの声と、バットにボールが当たる音が響いている。
悠斗は足を止めた。
ひとりの男の子が、ボールを後ろに逸らしてしまった。
コーチが何かを言い、男の子は慌てて頭を下げる。
その姿が、昔の自分と重なった。
失敗すると、すぐに謝る。
怒られる前に謝る。
自分を守るために、先に自分を小さくする。
悠斗は小さく息を吐いた。
もう、あの頃の自分を責めるのはやめよう。
よく頑張った。
怖かったのに、よく生きてきた。
そう心の中で呟き、また歩き出した。
実家の前に着くと、足が止まった。
二階建ての古い家。
外壁は少し汚れ、庭の木は以前より大きくなっていた。玄関脇の植木鉢には、母が好きな花が植えられている。
変わっているようで、変わっていない。
インターホンを押す指が、少し震えた。
押した。
家の中でチャイムが鳴る。
数秒後、玄関の向こうから足音が聞こえた。
ドアが開く。
「悠斗」
母だった。
母は少し驚いたように、そして嬉しそうに笑った。
「よく来たね」
「うん。久しぶり」
母は以前より少し小さく見えた。
髪には白いものが増え、目元のしわも深くなっている。
その変化に、悠斗は胸が痛んだ。
自分が避けている間にも、両親は年を取っていた。
「入って。お父さん、居間にいるから」
その言葉で、悠斗の体が少し固くなった。
靴を脱ぎ、廊下を進む。
家の匂いがした。
畳。
洗剤。
煮物の匂い。
子供の頃から知っている匂い。
懐かしいのに、少し苦しい。
居間のふすまが開いていた。
父は、テレビの前に座っていた。
朝倉誠司。
悠斗の記憶の中では大きく、硬く、絶対的だった父。
けれど目の前の父は、少し背中が丸くなっていた。髪には白髪が増え、頬も少し痩せている。
それでも、横顔の鋭さは昔のままだった。
「来たか」
父はテレビから目を離さずに言った。
「うん」
悠斗は居間に入った。
座布団に座る。
母がお茶を出してくれた。
「お昼、食べていくでしょ? 簡単なものだけど」
「うん。ありがとう」
父は黙ってテレビを見ている。
会話は、母がほとんどつないでくれた。
「仕事は忙しいの?」
「まあ、それなりに」
「体調は大丈夫?」
「うん」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
普通の会話。
けれど、その横に父がいるだけで、悠斗は言葉を選んでしまう。
父は時々、短く口を挟んだ。
「仕事は続いてるのか」
「続いてるよ」
「そうか」
「うん」
それだけ。
たったそれだけなのに、悠斗の心は昔の自分に戻りそうになる。
正解を言わなければ。
ちゃんとしているように見せなければ。
心配されないように。
失望されないように。
けれど、今日の悠斗はそれだけで帰るつもりはなかった。
昼食は、母が作った煮物と焼き魚だった。
父は黙々と食べ、母は時々悠斗に話しかけた。
味は懐かしかった。
子供の頃は当たり前のように食べていた味。
離れて初めて、それが当たり前ではなかったことに気づく。
「おいしい」
悠斗が言うと、母は嬉しそうに笑った。
「そう? よかった」
父は何も言わなかった。
食後、母が台所へ片付けに行った。
居間には、父と悠斗の二人だけが残った。
テレビの音がやけに大きく聞こえた。
悠斗は湯呑みを両手で包みながら、心臓の音を感じていた。
今しかない。
でも、何から言えばいい。
父は相変わらずテレビを見ている。
このまま何も言わずに帰れば、きっと今日も普通に終わる。
母は喜ぶだろう。
父も何も言わないだろう。
そして悠斗は、また数か月逃げる。
それは嫌だった。
悠斗は鞄に手を伸ばし、ノートを取り出した。
父がちらりとこちらを見た。
「何だ、それ」
「ノート」
「仕事か」
「違う」
悠斗は首を振った。
「最近、書いてるんだ。自分のこと」
父は少し眉をひそめた。
「日記か」
「日記みたいなものかな」
「そうか」
また沈黙。
悠斗はノートを開かなかった。
ただ、膝の上に置いた。
それだけで少し落ち着いた。
「父さん」
声が出た。
思ったより掠れていた。
父がテレビの音量を少し下げた。
「何だ」
悠斗は息を吸った。
「昔、小説家になりたいって言ったこと、覚えてる?」
父の表情が少しだけ動いた。
「そんなこともあったな」
「あの時、父さんに言われたんだ。夢なんかで飯が食えると思うなって」
父は黙った。
悠斗の胸が強く鳴る。
でも続けた。
「たぶん、父さんは現実を見ろって言いたかったんだと思う。俺が困らないようにって。今なら少しはわかる」
父はテレビを消した。
居間が静かになった。
「でも、あの時の俺には、すごくきつかった」
言った。
言ってしまった。
父の顔を見るのが怖かった。
けれど、悠斗は目を逸らさなかった。
「俺、あの言葉で、自分の夢が恥ずかしいものみたいに思えた。小説を書きたいって思う自分が、甘くて、馬鹿で、現実を知らない子供みたいに思えた」
父は何も言わない。
「それから、書かなくなった。もちろん、全部父さんのせいにするつもりはない。俺も怖かったし、逃げた。でも、ずっと引っかかってた」
声が震えた。
でも、止めなかった。
「本当は、応援してほしかったんだと思う」
父の眉がわずかに動いた。
「好きにやってみろって、言ってほしかった。駄目でもいいから、一回やってみろって」
言い終えた瞬間、胸の奥が熱くなった。
これが、ずっと言えなかった言葉だった。
父はしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じた。
やっぱり言わなければよかった。
そう思いかけた時、父が低い声で言った。
「……そんなに、傷ついてたのか」
悠斗は顔を上げた。
父はテレビの消えた画面を見ていた。
「俺は、そんなつもりで言ったわけじゃなかった」
予想していた言葉だった。
そんなつもりじゃなかった。
でも、不思議と悠斗は怒らなかった。
弥助の言葉を思い出した。
無傷で本音を言おうとするな。
相手もざわつく。
空気も揺れる。
「うん。そうだと思う」
悠斗は言った。
「でも、俺は傷ついた」
父はゆっくり頷いた。
「そうか」
その「そうか」は、いつものそっけない「そうか」と少し違っていた。
重かった。
受け取ろうとしている声だった。
父はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「俺も、言い方が悪かったんだろうな」
悠斗は驚いた。
父がそんなことを言うとは思わなかった。
父は手元の湯呑みを見つめていた。
「お前に苦労させたくなかった」
「うん」
「俺は、若い頃にやりたいことなんかなかった。いや、あったのかもしれんが、考える余裕がなかった。働くしかなかった。家族を食わせることばかり考えてた」
父の声は、昔より少し小さかった。
「だから、お前が夢みたいなことを言った時、怖かったんだと思う。そんな不安定な道に行って、食えなかったらどうするんだと」
悠斗は黙って聞いていた。
父の怖さ。
初めて見るものだった。
「でも」
父は言葉を探すように続けた。
「お前が書いてたのは、知ってた」
「え?」
「夜、部屋の明かりがついてた。ノートに何か書いてるのも見たことがある」
悠斗は息を呑んだ。
父は知っていたのか。
「正直、俺には何がいいのかわからなかった。でも、お前が真剣な顔をしてたのは覚えてる」
悠斗の胸が震えた。
父は覚えていた。
自分がノートに向かっていたことを。
何も見ていなかったわけではなかった。
「俺は、褒めるのが下手だった」
父は言った。
「今さら言っても遅いかもしれないが」
今さら。
その言葉に、悠斗は弥助の顔を思い出した。
人間、だいたい全部今さらや。
今さらやから意味がないって誰が決めたんや。
父は、ゆっくり悠斗を見た。
「お前は、よくやってると思う」
悠斗は動けなくなった。
父の口から出た言葉。
よくやってる。
それは、悠斗がずっと欲しかった言葉に似ていた。
「仕事のことは、詳しく知らん。小説のことも、俺にはよくわからん。でも、今日こうして話しに来たのは、勇気がいっただろう」
父は少し不器用に言った。
「頑張ったな」
その瞬間、悠斗の中で何かが崩れた。
ずっと待っていた言葉だった。
小学生の頃から。
テストで失敗した日も。
運動会で悔しかった日も。
小説を書いていた夜も。
就職した日も。
美月と別れた日も。
仕事で怒られた日も。
ずっと、どこかで待っていた言葉。
頑張ったな。
悠斗は俯いた。
涙がこぼれた。
父の前で泣くのは、いつ以来だろう。
子供の頃、ボールを顔に当てて泣いた日以来かもしれない。
あの時は「それくらいで泣くな」と言われた。
でも今日、父は何も言わなかった。
ただ、黙ってそこにいた。
「俺……ずっと、父さんに認めてほしかった」
悠斗は涙を拭いながら言った。
「うん」
「頑張ったなって、言ってほしかった」
「うん」
「お前はお前でいいって、言ってほしかった」
父は長く黙った。
そして、不器用に、少し掠れた声で言った。
「お前は、お前でいい」
悠斗は声を出して泣いた。
三十五歳の大人が、父の前で泣いている。
情けないと思う気持ちは、不思議となかった。
小さかった自分が、ようやく泣けたのだと思った。
台所から母が戻ってきた。
母は何かを察したように、何も言わず、そっと居間の入口に立っていた。
父は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……小説は、まだ書いてるのか」
父が聞いた。
悠斗は涙を拭きながら頷いた。
「少しだけ。また最近、書き始めた」
「そうか」
「まだ、一文とか、短い文章だけど」
「そうか」
父は少し迷ったあと、言った。
「好きにやってみろ」
悠斗はまた泣きそうになった。
欲しかった三つの言葉。
頑張ったな。
お前はお前でいい。
好きにやってみろ。
全部、今日もらってしまった。
もちろん、それで過去が完全に消えるわけではない。
傷ついた時間がなかったことになるわけではない。
でも、長い間止まっていた何かが、静かに動き出した気がした。
母は目元を押さえながら、少し笑った。
「よかったね、悠斗」
悠斗は頷いた。
「うん」
その日の午後、悠斗は久しぶりに実家でゆっくり過ごした。
母と台所で話し、父とは庭の木を眺めながら少しだけ話した。
父は相変わらず口数が少ない。
急に優しい人になったわけではない。
でも、悠斗もまた、父に完璧な変化を求めていたわけではなかった。
少し話せた。
それだけで十分だった。
帰り際、母が弁当を持たせてくれた。
「夜、食べなさい」
「ありがとう」
父は玄関まで来た。
「また、顔出せ」
短い言葉だった。
でも、それは父なりの「また会いたい」なのだと思った。
「うん。また来る」
悠斗は靴を履き、玄関を出た。
振り返ると、父と母が並んで立っていた。
その姿を見て、悠斗は思った。
家族は、完璧な場所ではない。
傷つけ合うこともある。
言葉が足りないこともある。
長い間すれ違うこともある。
それでも、戻れる場所になることもある。
遅すぎることなんて、本当はないのかもしれない。
駅へ向かう道で、悠斗は何度も深呼吸をした。
胸の中が痛くて、温かくて、まだ整理できなかった。
電車に乗り、窓の外を見ながら、ノートを開いた。
揺れる車内で、悠斗は今日のことを書いた。
『父に会った。
怖かった。
逃げたかった。
でも、言えた。
あの言葉で傷ついたこと。
本当は応援してほしかったこと。
認めてほしかったこと。
父さんは、すぐに全部わかってくれたわけではない。
でも、聞いてくれた。
そして、言ってくれた。
頑張ったな。
お前はお前でいい。
好きにやってみろ。』
文字が少し滲んだ。
また涙が落ちていた。
悠斗は慌てて拭ったが、もう恥ずかしくはなかった。
最寄り駅に着く頃には、外は夕方になっていた。
空は橙色に染まり、街の影が長く伸びていた。
悠斗はそのまま、いつものバス停へ向かった。
福神弥助は、そこにいた。
ベンチに座り、缶のおしるこを飲んでいる。
「お、帰ってきたな」
弥助は悠斗を見るなり、目を細めた。
「泣いた顔しとる」
「便利ですね、その顔診断」
「福の神検定一級や」
悠斗は隣に座った。
しばらく、何も言えなかった。
弥助も急かさなかった。
夕方の風が、バス停の屋根を静かに揺らした。
「言えました」
悠斗はようやく言った。
「何を」
「傷ついたこと。応援してほしかったこと。認めてほしかったこと」
「うん」
「父さん、聞いてくれました」
「うん」
「欲しかった言葉も、言ってくれました」
弥助は少しだけ笑った。
「よかったな」
その言葉は、いつものふざけた調子ではなかった。
本当に、静かに、温かかった。
悠斗は頷いた。
「はい」
「でもな」
弥助が言った。
「これで全部解決やと思うなよ」
「わかってます」
悠斗は小さく笑った。
「父さんとの関係が急に完璧になるわけじゃない。でも、今日、初めてちゃんと話せた気がします」
「それでええ」
弥助は缶のおしるこを飲み干した。
「人生はな、一回の感動で全部変わるほど単純やない。でも、一回ちゃんと向き合えた記憶は、その後の自分を支えてくれる」
悠斗は頷いた。
今日のことは、きっとこれから何度も思い出す。
仕事で落ち込んだ日。
夢を書くのが怖くなった日。
誰かに会うのが怖くなった日。
そのたびに、自分は思い出すだろう。
怖くても行けた日があった。
本音を言えた日があった。
欲しかった言葉を受け取れた日があった。
「次の宿題や」
弥助が言った。
「今日くらい休ませてくれませんか」
「甘い。人生は続くんや」
悠斗は苦笑した。
「何ですか」
弥助は紙切れを渡した。
そこには、こう書かれていた。
『第九の宿題。父親の背中を、悪者にせず思い出せ。』
悠斗は紙切れを見つめた。
「父親の背中……」
「今日、話したんやろ。でも、まだ父親を一人の人間として見る宿題が残っとる」
「一人の人間として」
「父親を父親としてだけ見てるうちは、昔の痛みから抜けられへんことがある。あの人も、何かを背負って生きてきた一人の人間や」
悠斗は、今日見た父の背中を思い出した。
少し丸くなった背中。
昔より小さく見えた背中。
それでも、不器用に家族を支えてきた背中。
「書いてみます」
悠斗は言った。
「ええ顔や」
「今日は犬じゃないですか?」
「今日は……まあ、人間やな」
「ようやく」
悠斗は笑った。
家に帰ると、母が持たせてくれた弁当を温めた。
焼き魚、卵焼き、煮物。
昼にも食べた味なのに、夜に一人で食べるとまた違う味がした。
温かくて、少し寂しくて、ありがたい味だった。
食べ終えたあと、悠斗は机に向かった。
ノートを開く。
今日のページの続きに、こう書いた。
『父さんは、俺を傷つけた人だった。
でも、それだけの人ではなかった。
不器用で、怖がりで、褒め方を知らなくて、それでも家族を守ろうとしていた人だった。
俺は、父さんを許しきれたわけじゃない。
でも、父さんを悪者だけにするのは、今日で少しやめようと思う。』
悠斗はペンを止めた。
胸の中には、まだ痛みがある。
でも、その痛みの隣に、温かいものもある。
人を許すというのは、傷つかなかったことにすることではない。
相手を完全に正しいことにすることでもない。
ただ、その人にも物語があったのだと認めることなのかもしれない。
悠斗は、今日父からもらった言葉をもう一度書いた。
『頑張ったな。
お前はお前でいい。
好きにやってみろ。』
その下に、小さく書き足す。
『遠回りしたぶん、少しだけ幸せに近づいた気がした。』
部屋は相変わらず完璧ではない。
仕事も不安なまま。
美月とはまだ向き合えていない。
小説だって、まだ一文ずつしか進んでいない。
でも、今日の悠斗は思った。
人生は、一気に変わらなくていい。
一つずつでいい。
一人ずつでいい。
一言ずつでいい。
遠回りした道の途中で、拾えるものがある。
置いてきた自分。
言えなかった本音。
欲しかった言葉。
誰かの不器用な愛情。
それらを拾い集めながら、人は少しずつ、自分の人生へ戻っていく。
悠斗はノートを閉じ、机のライトを消した。
布団に入る前、スマートフォンが震えた。
父からだった。
短いメッセージ。
『今日は来てくれてありがとう。小説、書けたら少し読ませてくれ。』
悠斗は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして、涙がまたこぼれた。
今度は、少し笑いながら泣いた。
返信欄を開く。
『ありがとう。いつか読んでほしい。』
送信。
その夜、悠斗は久しぶりに深く眠った。
夢の中で、小さな自分がキャッチボールをしていた。
ボールを落としても、泣いても、誰も怒らなかった。
ただ、遠くから誰かの声がした。
頑張ったな。
その声に向かって、小さな悠斗は少し笑った。
第8話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「会いたくない人に会う」でした。
会いたくない人に会うことは、相手を許すためだけではありません。
昔の自分が抱えていた言葉を、今の自分が迎えに行くためでもあります。
悠斗は父に、傷ついたこと、応援してほしかったこと、認めてほしかったことを伝えました。
父との関係が一瞬で完璧になるわけではありません。
それでも、本音を言えた一日は、これからの悠斗を支える記憶になります。
次回は、第9話「父親の背中」へ続きます。




