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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第6話 他人の成功を祝ってみろ

第5話では、悠斗がコンビニ店員の名前を覚え、日常の中にある小さな人とのつながりに気づきました。


そして、久しぶりに会った友人・恒一へ、子供が生まれたことを目を見て祝うことができました。


今回の第6話では、「他人の成功を祝う」という宿題の本当の意味に、悠斗がさらに向き合っていきます。


羨ましさも、悔しさも、消さなくていい。

それでも誰かの幸せを祝えた時、人は少しだけ強くなれるのかもしれません。

森下恒一と別れたあと、朝倉悠斗は駅前の人混みの中で、しばらく動けずにいた。


 土曜日の午後。


 駅前には、家族連れや学生、買い物袋を下げた人たちが行き交っていた。ベビーカーを押す夫婦。手をつないで歩く親子。楽しそうに笑う若い恋人たち。


 いつもの悠斗なら、その光景を見るだけで胸がざわついた。


 自分にはないもの。


 自分が手に入れられなかったもの。


 誰かが当たり前のように持っている幸せ。


 それらを目にするたび、心の奥に小さな棘が刺さった。


 でも今日は、その棘の痛みが少し違っていた。


 恒一に言えた。


「おめでとう」


「幸せそうで羨ましい。でも、本当に嬉しい」


 完璧に綺麗な気持ちではなかった。


 羨ましさはあった。


 胸の奥はざわついた。


 でも、そのざわつきを抱えたまま、悠斗は恒一の幸せを祝った。


 そして、恒一もまた完璧な成功者などではなかった。


 子供が生まれて嬉しい一方で、不安も抱えていた。父親としての失敗も、寝不足の苛立ちも、家族を守る怖さも持っていた。


 幸せそうに見える人も、途中なのだ。


 その当たり前の事実が、悠斗の心を少しだけ軽くしていた。


 悠斗はスマートフォンを開いた。


 恒一から、さっき見せてもらった赤ん坊の写真が送られてきていた。


『今日はありがとう。久しぶりに会えてよかった。今度は奥さんと子供たちも連れてくるわ』


 悠斗は写真を見つめた。


 小さな手。


 眠った顔。


 それを見て、また少し胸がざわついた。


 羨ましい。


 でも、可愛い。


 守られてほしい。


 恒一には、ちゃんと幸せでいてほしい。


 その気持ちも、確かにあった。


 悠斗は返信した。


『こちらこそありがとう。写真、本当に可愛い。恒一も無理しすぎるなよ。また会おう』


 送信してから、悠斗は小さく息を吐いた。


 他人の幸せに触れることは、少し怖い。


 でも、怖いからといって目を背け続ければ、自分はいつまでも孤独なままだ。


 誰かの幸せを見ないようにすることは、自分の願いを見ないようにすることでもある。


 悠斗はそう思いながら、駅の改札へ向かった。


 その日の夜。


 悠斗はいつものバス停へ行った。


 福神弥助は、ベンチに座って焼き芋を食べていた。


 季節外れな気もしたが、弥助はいつも通り堂々としていた。


「お、来たな。祝福帰りの男」


「その呼び方、なんか宗教っぽいです」


「福の神やからな」


「自分で言うと怪しさが増しますよ」


 弥助は焼き芋を半分に割り、悠斗に差し出した。


「食うか?」


「また半分ですか」


「人間関係の基本や」


「この前も聞きました」


「大事なことは何回でも言う」


 悠斗は焼き芋を受け取った。


 ほかほかと湯気が立っている。


 一口食べると、甘さが口の中に広がった。


「どうやった?」


 弥助が聞いた。


「言えました」


「何を」


「おめでとうって。目を見て」


「ざわついたか?」


「はい」


「羨ましかったか?」


「羨ましかったです」


「それでええ」


 弥助は満足そうに頷いた。


「でも、本当に祝えた気もします」


「ほう」


「羨ましいのに、ちゃんと嬉しかったんです。恒一が幸せそうで、よかったなって思えました」


「ええやん」


「でも、不思議でした」


「何がや」


「他人の幸せって、前は自分の不幸を突きつけてくるものだと思ってました。でも今日は、少し違いました。恒一の幸せを見て、自分も本当は何が欲しかったのか、わかった気がしました」


 弥助は黙って聞いていた。


「俺、たぶん家族が欲しかったんです」


 その言葉を口にした瞬間、悠斗の胸が少し震えた。


 今まで、はっきり言ったことのない願いだった。


 結婚したい。


 子供が欲しい。


 誰かと一緒に暮らしたい。


 そういう言葉を、悠斗はずっと避けてきた。


 口にすると、手に入っていない自分が惨めになる気がしたからだ。


 でも、恒一の幸せを見て羨ましいと思ったのは、自分も欲しかったからだ。


 それは恥ずかしいことではない。


 心がまだ願いを持っている証拠だった。


「家族が欲しかった」


 弥助は繰り返した。


「ええ願いやん」


「でも、三十五です」


「三十五やな」


「貯金もないし、仕事も中途半端だし、恋人もいません」


「せやな」


「今さらそんなこと思っても」


「また出たな、今さら」


 弥助は焼き芋をかじりながら、呆れた顔をした。


「兄ちゃん、今さら言うの好きやな」


「だって実際、今さらじゃないですか」


「人間の願いに賞味期限つけるな」


 悠斗は黙った。


「家族が欲しい。誰かと生きたい。大事にしたいし、大事にされたい。そう思うのに、年齢も貯金も仕事も関係あるかい。もちろん現実の準備は必要や。でも願うことまで禁止せんでええ」


 弥助の声は、いつもより少し強かった。


「願いを持つだけで、自分を責めるな」


 悠斗は焼き芋を見つめた。


 甘い匂いがする。


 子供の頃、母とスーパーの前で焼き芋を買ったことを思い出した。


 寒い夕方。


 紙袋に入った焼き芋を、母が半分に割ってくれた。


「熱いから気をつけてね」


 その声を、突然思い出した。


 父は厳しかった。


 家の中はいつも少し緊張していた。


 でも、母との小さな温かい記憶もあった。


 自分は、そういうものを欲しがっていたのかもしれない。


 誰かと半分こする時間。


 ただいまと言える場所。


 自分の弱さを隠さずにいられる家。


「他人の成功を祝うってな」


 弥助が言った。


「相手を持ち上げて、自分を下げることやない」


「はい」


「相手の幸せをちゃんと見て、自分の中の願いにも気づくことや」


 悠斗は顔を上げた。


「自分の願いに?」


「羨ましいって感情はな、使い方を間違えると人を腐らせる。でも、ちゃんと見れば道しるべになる」


「道しるべ」


「自分が何を欲しかったのか、どこへ行きたかったのか、誰になりたかったのか。羨ましさは、それを教えてくれることがある」


 悠斗は静かに頷いた。


 これまで、羨ましさは醜いものだと思っていた。


 嫉妬する自分は最低だと思っていた。


 だから、誰かを羨ましいと思うたびに、自分を責めた。


 でももし、羨ましさが自分の願いを教えてくれるものなら。


 それを消すのではなく、聞いてやることもできるのかもしれない。


「次の宿題や」


 弥助が言った。


「もうですか」


「焼き芋食うたら宿題や」


「どういうルールですか」


「福の神ルールや」


 弥助はポケットから紙切れを出し、悠斗に渡した。


 そこには太い文字で書かれていた。


『第七の宿題。昔の自分に手紙を書け。』


 前にも渡された宿題だった。


 でも今日は、その意味が少し違って見えた。


「昔の自分……」


「一番置いてきた自分に書け」


「どの自分かわかりません」


「ほんまか?」


 弥助は悠斗をじっと見た。


「ほんまに、わからんか?」


 悠斗は黙った。


 わからないわけではなかった。


 浮かんでいる。


 大学時代の自分。


 夢を持っていた自分。


 喫茶店でノートに向かっていた自分。


 駅のホームで、もう書くのはやめようと決めた自分。


 そして、もう一人。


 美月の前で、本音を言えなかった自分。


 結婚が怖くて、愛されるのが怖くて、逃げてしまった自分。


「夢を諦めた頃の自分かもしれません」


 悠斗は言った。


「それと、美月と別れた頃の自分」


「二人おるな」


「はい」


「ほな、二通書け」


「また増えた」


「お得やろ」


「お得ではないです」


 弥助は笑った。


「手紙はな、過去を変えるために書くんやない。過去の自分を、今の自分の味方にするために書くんや」


「味方にする?」


「昔の自分を恥ずかしいとか、情けないとか、馬鹿やったとか言うて敵に回すから、今の自分もしんどくなるんや」


 悠斗はノートを思い出した。


 夢を持っていた自分を、ずっと恥ずかしいと思っていた。


 美月から逃げた自分を、ずっと最低だと思っていた。


 でも、その自分たちも必死だった。


 傷つきたくなくて、失敗したくなくて、それでも何かを守ろうとしていた。


「今日、帰ったら書け」


「はい」


「うまく書こうとすんな」


「手紙もですか」


「手紙もや。小説も人生も、うまくやろうとしすぎると嘘になる」


 弥助は立ち上がった。


「ほな、またな。祝福できた男」


「その呼び方はやっぱり嫌です」


「ほな、焼き芋半分こ男」


「もっと嫌です」


 弥助は笑いながら、夜の商店街へ歩いていった。


 悠斗はしばらくベンチに座っていた。


 手元には紙切れ。


 鞄の中にはノート。


 胸の中には、今日言えた「おめでとう」の余韻が残っていた。


 家に帰ると、部屋は相変わらず散らかっていた。


 でも、机の上だけは少し整っていた。


 古本屋で買った文庫本。


 宿題ノート。


 ペン。


 小さなスペース。


 夢の居場所。


 悠斗は椅子に座り、ノートを開いた。


 まず、今日の出来事を書く。


『恒一の成功を祝えた。

 子供が生まれたことを、目を見ておめでとうと言えた。

 羨ましかった。

 でも、本当に嬉しかった。

 羨ましさは、自分の願いを教えてくれるものなのかもしれない。

 俺は、家族が欲しかった。

 誰かと生きる未来が欲しかった。』


 そこまで書くと、胸の奥が熱くなった。


 家族が欲しかった。


 文字にすると、逃げられなくなる。


 でも、同時に少し楽にもなった。


 願いに名前がついたからだ。


 悠斗はページをめくった。


 新しいページの一番上に書く。


『昔の自分へ』


 最初の手紙。


 夢を諦めた頃の自分へ。


 ペン先が止まる。


 何を書けばいい。


 謝ればいいのか。


 励ませばいいのか。


 それとも、ただ話しかければいいのか。


 悠斗は深く息を吸った。


 うまく書こうとするな。


 弥助の声が聞こえた気がした。


 悠斗は書き始めた。


『二十二歳の俺へ。

 駅のホームで、もう小説を書くのはやめようと決めた日の俺へ。

 あの日、お前はすごく怖かったんだと思う。

 夢を追って失敗するのが怖かった。

 父さんに否定されたことも、周りが現実を選んでいくことも、全部怖かったんだと思う。

 だから、お前は夢を捨てたんじゃなくて、自分を守ろうとしたんだよな。』


 書きながら、悠斗の目が少し滲んだ。


 あの日の自分を、初めて責めずに見られた気がした。


『ずっと、お前のことを情けないと思っていた。

 逃げたやつだと思っていた。

 でも今は、少し違う。

 お前は弱かったけど、夢を持っていた。

 誰かの言葉に救われて、自分も誰かを救える言葉を書きたいと思っていた。

 その願いは、恥ずかしいものじゃなかった。』


 悠斗は手を止め、涙を拭った。


 部屋の中は静かだった。


 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。


 外では車が通り過ぎていく。


 誰も、自分が今過去の自分に手紙を書いていることを知らない。


 でも、これは悠斗にとって大事な時間だった。


 続ける。


『十年以上、書かなくなってごめん。

 お前の夢を、なかったことみたいにしてごめん。

 でも、この前、あの駅に戻った。

 喫茶店で、一文だけ書いた。

 下手かもしれないけど、書けた。

 だから、お前に伝えたい。

 夢は完全には死んでなかった。

 ずっと待っていてくれた。

 ありがとう。

 あの時、夢を持ってくれてありがとう。』


 書き終えた時、悠斗はしばらくノートを見つめていた。


 胸の奥に、小さな灯りがともったようだった。


 過去の自分を許すというのは、大げさな儀式ではないのかもしれない。


 こうして言葉をかけること。


 あの時は怖かったよな、と認めること。


 それだけで、ずっと敵だと思っていた昔の自分が、少し味方になってくれる。


 悠斗は次のページを開いた。


 二通目。


 美月と別れた頃の自分へ。


 これはもっと苦しかった。


 ペンを持つ手が重い。


 美月の顔が浮かぶ。


 笑った顔。


 怒った顔。


 台所で味見をしている横顔。


 最後の日の、静かな目。


 悠斗は書いた。


『三十二歳の俺へ。

 美月と別れた日の俺へ。

 お前は、本当は美月のことが好きだった。

 好きだったのに、怖くなった。

 結婚の話が出て、誰かの人生を背負うことが怖くなった。

 自分なんかが人を幸せにできるわけないと思った。

 だから、忙しいふりをした。

 冷めたふりをした。

 自分から壊す前に、関係が壊れていくのを待った。』


 書いていて、苦しくなった。


 あまりにもその通りだったからだ。


 悠斗は美月を嫌いになったわけではなかった。


 むしろ、好きだった。


 だから怖かった。


 愛されることも、愛し続けることも、自分にできると思えなかった。


『美月を傷つけたことは、消えない。

 それは本当に申し訳なかったと思う。

 でも、お前も怖かったんだよな。

 誰かに大切にされる資格がないと思っていた。

 自分を嫌いすぎて、差し出された手を握れなかった。』


 美月の言葉が蘇る。


「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」


 あの時は、責められたように感じた。


 でも今なら少しわかる。


 美月は、悠斗を責めたかったのではない。


 きっと、悠斗自身が悠斗を傷つけていることに気づいてほしかったのだ。


『あの日の俺へ。

 お前は最低だった部分もある。

 逃げたし、黙ったし、ちゃんと向き合わなかった。

 でも、お前が誰かを愛せなかった人間だったとは思わない。

 ただ、自分を愛せなさすぎて、相手の愛を受け取れなかったんだと思う。

 これから少しずつ、自分を嫌いすぎる癖をやめていく。

 美月に謝れる日が来るかはわからない。

 でも、あの恋をなかったことにはしない。

 愛された時間を、ちゃんと覚えておく。』


 書き終えた瞬間、悠斗はペンを置いた。


 胸が痛かった。


 けれど、その痛みはただの後悔ではなかった。


 過去に手を伸ばした痛みだった。


 ずっと閉じていた扉を開けた時の、埃っぽい痛みだった。


 悠斗はノートを閉じずに、しばらくそのまま置いた。


 すると、スマートフォンが震えた。


 恒一からだった。


『今日は本当にありがとう。悠斗がちゃんとおめでとうって言ってくれて、なんか救われた。俺も頑張るわ。お前も無理すんなよ』


 悠斗は画面を見て、胸が温かくなった。


 祝った相手から、自分も救われる。


 そんなことがあるのかと思った。


 悠斗は返信した。


『俺も救われた。ありがとう。また負けた話しよう』


 送信。


 その後、悠斗はノートに短く書き足した。


『祝福は、一方通行じゃなかった。

 相手を祝ったはずなのに、自分も少し救われた。』


 翌朝、悠斗は少し遅めに起きた。


 日曜日だった。


 仕事は休み。


 以前なら昼過ぎまで布団の中でスマートフォンを眺め、気づけば夕方になり、何もしなかった自分を責めて終わる日だった。


 でも今日は違った。


 起き上がり、洗濯機を回した。


 部屋の窓を開けた。


 冷たい空気が入ってくる。


 机の上には、昨日書いた手紙が開かれたままだった。


 悠斗はそれを読み返した。


 少し恥ずかしい。


 でも、消したいとは思わなかった。


 昔の自分に手紙を書くなんて、誰かに見られたら笑われるかもしれない。


 でも、悠斗には必要だった。


 過去の自分を敵にしたまま、未来へ進むことはできない。


 悠斗はコーヒーを淹れ、ノートの前に座った。


 今日は小説の続きを一文だけ書こうと思った。


 夢を拾いに行った男の話。


 自分のことのようで、自分ではない男の話。


 悠斗はペンを握った。


『男は、昔の自分に手紙を書いた。

 返事は来ないはずだった。

 けれど朝になって目を覚ますと、胸の奥で誰かが小さく「待っていた」と言った気がした。』


 書いてから、悠斗は少し笑った。


 悪くない。


 少なくとも、今の自分には必要な一文だった。


 昼前、悠斗は近所を散歩した。


 何か目的があったわけではない。


 ただ、外を歩きたくなった。


 商店街を抜け、いつものコンビニの前を通る。


 山口さんはいなかった。


 レジには佐藤さんがいた。


 悠斗は店に入り、缶コーヒーを一本買った。


「ありがとうございます、佐藤さん」


 そう言うと、佐藤さんは少し照れたように笑った。


「いつもありがとうございます」


 店を出ると、空はよく晴れていた。


 ただそれだけのことが、少し嬉しかった。


 午後、悠斗は久しぶりに母へ電話をした。


 父に電話する勇気はまだなかった。


 でも、母になら少し話せる気がした。


 数回の呼び出し音のあと、母が出た。


「もしもし、悠斗?」


「うん。久しぶり」


「どうしたの? 何かあった?」


 母の声は、少し心配そうだった。


 連絡が少ない息子から突然電話が来れば、そう思うのも当然だ。


「何もないよ。ただ、元気かなと思って」


「そう。珍しいね」


 母は少し笑った。


 その笑い方に、焼き芋を半分に割ってくれた日の記憶が重なる。


「母さん」


「何?」


「昔、スーパーの前で焼き芋買ってくれたことあったよね」


「焼き芋?」


「うん。寒い日に、半分こした」


 電話の向こうで、母が少し黙った。


「あったねえ。悠斗、熱いのに急いで食べようとして、舌火傷しそうになってた」


「覚えてたんだ」


「覚えてるよ」


 その言葉だけで、悠斗の胸が少し熱くなった。


 自分が覚えている小さな幸せを、母も覚えていた。


 家族の記憶は、傷だけではなかった。


 温かいものも、確かにあった。


「どうしたの、急に」


「いや、なんとなく思い出して」


「そう」


 母の声が柔らかくなった。


「今度、帰っておいで。お父さんも、たまには顔見たいと思うよ」


 父。


 その名前が出た瞬間、悠斗の胸が固くなった。


 まだ無理だ。


 でも、いつまでも無理ではないかもしれない。


「うん。そのうち」


 いつもの逃げ言葉だった。


 でも今日は、完全な逃げではなかった。


 そのうち、本当に帰ろうと思った。


 電話を切ったあと、悠斗はしばらくスマートフォンを見つめていた。


 父と話す日は、近づいている。


 そう感じた。


 夜。


 バス停へ行くと、弥助はいなかった。


 ベンチの上に、紙切れだけが置かれていた。


 悠斗はそれを拾った。


『第八の宿題。会いたくない人に会え。まずは一番怖い名前を、声に出せ。』


 悠斗の手が止まった。


 一番怖い名前。


 父か。


 美月か。


 いや、今の悠斗にはわかっていた。


 父だった。


 朝倉誠司。


 その名前を声に出すだけで、胸が重くなる。


 でも、もう逃げ続けることはできないのかもしれない。


 悠斗はバス停のベンチに座った。


 夜風が冷たい。


 紙切れを握りしめる。


 そして、小さな声で言った。


「朝倉誠司」


 父の名前。


 声に出した瞬間、胸の奥に古い痛みが広がった。


 でも、同時に何かが動いた。


 遠回りの道は、ついに一番避けてきた場所へ向かおうとしていた。


 悠斗は空を見上げた。


 細い月が、静かに光っていた。

第6話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「他人の成功を祝うこと」でした。


羨ましいと思う気持ちは、決して悪いものではありません。

それは、自分が本当に欲しかったものを教えてくれることがあります。


悠斗は恒一の幸せを祝うことで、自分も家族を欲しかったこと、誰かと生きる未来を望んでいたことに気づきました。


そして、昔の自分へ手紙を書き、少しずつ過去の自分を責めることをやめ始めます。


次回は、第7話「昔の自分に手紙を書け」からさらに深まり、第8話「会いたくない人に会え」へ向かう準備の物語になります。

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