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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第5話 コンビニ店員の名前を覚えろ

第4話では、悠斗がかつて小説家になる夢を置いてきた駅へ戻り、十年以上ぶりに一文を書きました。


夢を叶えるかどうかではなく、夢を持っていた自分を否定しないこと。


今回の第5話では、福神弥助から出された宿題「コンビニ店員の名前を覚えろ」に向き合います。


何気ない日常の中にも、人とのつながりは隠れています。

朝倉悠斗は、コンビニの自動ドアの前で一度立ち止まった。


 いつもの朝。


 いつもの駅前。


 いつものコンビニ。


 ガラス越しに見える店内では、通勤前の客たちが忙しなく商品を手に取り、レジへ並んでいる。コーヒーマシンの前にはスーツ姿の男性が立ち、雑誌コーナーでは高校生らしき少年が漫画雑誌を立ち読みしていた。


 何も特別な朝ではない。


 けれど悠斗にとっては、少しだけ特別だった。


 福神弥助から出された宿題。


『コンビニ店員の名前を覚えろ』


 すでに、山口さんの名前は覚えた。


 昨日、悠斗はレジで山口さんに向かって言った。


「山口さん、いつもありがとうございます」


 たったそれだけのことだった。


 でも、言った直後の照れくささと、山口さんが少し驚いたあとに見せた笑顔が、妙に心に残っていた。


 人の名前を呼ぶ。


 ただ、それだけ。


 それだけで、相手が背景ではなくなる。


 悠斗は自動ドアをくぐった。


「いらっしゃいませ」


 店内に入ると、いつもの明るい声がした。


 山口さんだった。


 胸の奥が少しだけ緊張する。


 今までなら、コンビニ店員の顔などほとんど見ていなかった。商品を出し、お金を払い、レシートを受け取り、会釈して終わり。それだけの関係だった。


 けれど名前を覚えてしまうと、そうはいかなかった。


 山口さんは、ただの「コンビニの人」ではない。


 朝の忙しい時間にレジを打ち、客に頭を下げ、店内を整え、誰かの一日の始まりを支えている一人の人間だった。


 悠斗はお茶とおにぎりを手に取り、レジに並んだ。


 前に並んでいた男性が、少し苛立った様子でスマートフォンを見ている。会計の時、ポイントカードの確認に対して舌打ちをした。


「持ってないって」


「失礼いたしました」


 山口さんは頭を下げる。


 男性は商品を乱暴に掴み、店を出ていった。


 悠斗はその後ろ姿を見ながら、少し前の自分を思い出した。


 自分もあそこまで露骨ではなかったかもしれない。


 でも、店員の言葉を聞き流し、目も合わせず、急いでいる空気を出していたことは何度もあった。


 誰かを傷つけるつもりはなくても、誰かを雑に扱っていたことはある。


 自分が雑に扱われると傷つくくせに、自分も誰かを雑に扱っていた。


 悠斗の番になった。


「おはようございます」


 山口さんが言った。


 昨日までは「いらっしゃいませ」だけだった気がする。


 それが自分に向けられた挨拶に変わったようで、悠斗は少し驚いた。


「おはようございます」


 悠斗も返した。


 商品が読み取られる。


「三百二十円です」


 悠斗は小銭を出した。


 レシートを受け取る時、山口さんがほんの少し笑った。


「いつもありがとうございます」


 先に言われた。


 悠斗は思わず笑ってしまった。


「こちらこそ、山口さん。今日もありがとうございます」


 山口さんは少し照れたように目を伏せた。


「いえ。お気をつけて」


 コンビニを出たあと、悠斗はしばらくその余韻を抱えて歩いた。


 ほんの短い会話。


 けれど、不思議と朝の空気が少し柔らかくなったような気がした。


 会社へ向かう道で、悠斗は弥助の言葉を思い出した。


「いつものコンビニ、いつもの道、いつもの挨拶。そういう日常を雑に扱う人間は、幸せにも雑になる」


 最初に聞いた時は、少し大げさだと思った。


 でも今は、少しわかる気がした。


 幸せとは、大きな出来事だけではないのかもしれない。


 結婚。


 出世。


 夢の実現。


 大金。


 成功。


 そういうものだけを幸せだと思っていると、それを持っていない自分はずっと不幸の側に立たされる。


 けれど、朝の挨拶。


 名前を呼ばれること。


 誰かにありがとうを言うこと。


 昨日より少しだけ部屋が片付いたこと。


 一文だけでも書けたこと。


 そういう小さなものを幸せとして受け取れるなら、自分の一日は今より少し違って見える。


 会社に着くと、西野がすでに席にいた。


「おはようございます、朝倉さん」


「おはよう」


 悠斗は鞄を置き、パソコンを立ち上げた。


 メールを確認すると、今日も未読が多かった。予定表には打ち合わせが三件入っている。午前中に先方へ送る資料もある。


 現実は、何ひとつ優しくなっていない。


 それでも、昨日より少しだけ息がしやすかった。


 午前中の打ち合わせは、思ったより長引いた。


 村瀬の指摘は相変わらず鋭く、悠斗は何度か言葉に詰まった。以前なら、そのたびに頭の中で「やっぱり自分は駄目だ」と繰り返していただろう。


 だが今日は、少し違った。


 指摘された内容をノートに書き留める。


 わからないところは聞き返す。


 西野に確認を頼む。


 完璧にできない自分を責める前に、今できることへ手を伸ばす。


 それだけで、仕事は少し進みやすくなった。


 昼休み。


 悠斗は会社近くの公園で、おにぎりを食べながらスマートフォンを開いた。


 森下恒一からメッセージが来ていた。


『土曜、十三時でどう? 駅前のラーメン屋予約いらないと思うけど、混んでたら並ぼうぜ』


 悠斗は返信した。


『大丈夫。楽しみにしてる』


 送ってから、少し迷った。


 弥助の新しい宿題。


『他人の成功を祝ってみろ。心がざわついてもええから、祝え。』


 恒一に会ったら、ちゃんと言わなければならない。


 第二子誕生、おめでとう。


 文字では伝えた。


 けれど、顔を見て言うのはまた違う。


 心がざわつくかもしれない。


 羨ましいと思うかもしれない。


 自分と比べて落ち込むかもしれない。


 それでも、祝う。


 祝うというのは、自分が負けを認めることではない。


 相手の幸せを、相手のものとして大切にすることなのかもしれない。


 そう思おうとしたが、簡単ではなかった。


 胸の奥にはまだ、黒いものがあった。


 いいな。


 羨ましい。


 どうして自分は。


 そんな気持ち。


 悠斗はそれを消そうとしなかった。


 弥助は言った。


 心がざわついてもええから、祝え。


 ざわつかない人間になれとは言われていない。


 羨ましさを消せとは言われていない。


 ただ、それでも祝えと言われた。


 なら、今の自分にできることは、その黒い気持ちごと抱えて、恒一に会うことなのだろう。


 午後、仕事中に小さな出来事があった。


 西野が電話で先方と話している途中、少し困った顔をした。どうやら相手から急な資料追加を求められているらしい。


「はい、確認して折り返します」


 電話を切った西野は、ため息をついた。


「参ったな……今日中に競合比較が欲しいって言われました」


「今日中?」


「はい。でも別件もあって、ちょっと手が回らなくて」


 悠斗は自分のタスクを見た。


 余裕があるわけではない。


 だが、午前中に西野に助けてもらったことを思い出した。


「比較表、俺が叩き台作るよ」


「え、いいんですか?」


「うん。前に似た資料作ったことあるから」


「助かります」


 西野が心からほっとした顔をした。


 その顔を見た時、悠斗は少し驚いた。


 人を助けることは、自分に余裕がある人だけがするものだと思っていた。


 でも違うのかもしれない。


 自分も不安なまま、誰かを助けることはできる。


 完璧な人間になってから優しくなる必要はない。


 不完全なままでも、誰かの一日を少し軽くすることはできる。


 悠斗は資料を作りながら、自分の中にある小さな変化を感じていた。


 以前の自分なら、後輩に頼られることを負担に感じていたかもしれない。


 もしくは「自分の仕事もできていないのに」と責めていたかもしれない。


 でも今日は、少しだけ嬉しかった。


 誰かの役に立てること。


 ありがとうと言われること。


 それは、自分の存在がここにあっていいと教えてくれるようだった。


 夕方、資料を西野に送ると、すぐに返信が来た。


『めちゃくちゃ助かりました! 本当にありがとうございます!』


 悠斗は画面を見て、少し笑った。


 ありがとうを受け取るのも、少しずつうまくなっている気がした。


 仕事を終えたのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。


 会社を出ると、外は冷たい風が吹いていた。雨は降っていない。空には薄く月が見えた。


 悠斗はバス停へ向かった。


 福神弥助は、ベンチで肉まんを食べていた。


「遅いやないか」


「毎回それ言いますね」


「決まり文句は大事や。人生にリズムが出る」


「肉まん食べながら言われても説得力ないです」


 弥助は肉まんを半分に割り、片方を悠斗に差し出した。


「食うか?」


「いいんですか?」


「半分こや。人間関係の基本や」


「急にいいこと言いますね」


「いつも言うとる」


 悠斗は肉まんを受け取った。


 温かかった。


 夜のバス停で、変なおっさんと肉まんを半分こしている。


 少し前の自分なら、絶対にありえない時間だった。


 でも、その温かさが不思議と心地よかった。


「山口さんに言えたか?」


 弥助が聞いた。


「はい」


「名前呼んで?」


「呼びました」


「どうやった?」


「恥ずかしかったです」


「ええな」


「恥ずかしいのがいいんですか?」


「心が動いとる証拠や」


 弥助は肉まんを頬張りながら言った。


「人間はな、恥ずかしいからって避けてることの中に、大事なもんが混ざっとることが多い」


「例えば?」


「ありがとうを言う。ごめんと言う。好きやと言う。助けてと言う。会いたかったと言う。寂しかったと言う。名前を呼ぶ」


 悠斗は黙って聞いていた。


「どれも恥ずかしい。でも、それを全部避けてたら、人とつながられへん」


 弥助の言葉は、いつも乱暴なのに、核心だけは外さない。


 悠斗は肉まんをかじった。


 熱い湯気が口の中に広がった。


「今日、少しわかった気がします」


「何がや」


「名前を覚えるって、相手をちゃんと存在させることなんですね」


「ほう」


「山口さんって名前を知る前は、コンビニの店員さんでした。でも名前を知ったら、その人が一人の人に見えた。朝から働いて、嫌な客にも頭を下げて、それでも笑顔で接客してる人なんだなって」


 弥助は満足そうに頷いた。


「上出来や」


「それで思ったんです。俺、周りの人をちゃんと見てなかったんだなって」


「自分の不幸で視界が曇っとったんやろ」


「はい」


 悠斗は認めた。


「俺、自分だけが置いていかれてると思ってました。でも、そう思っている間、周りの人のことを全然見てなかった。みんな何か抱えてるかもしれないのに」


「それに気づいたら、だいぶ変わるで」


「何がですか」


「孤独の形や」


 弥助は肉まんの最後の一口を食べた。


「孤独ってな、周りに人がいないことだけやない。周りに人がおるのに、その人らを見えてへん状態も孤独なんや」


 悠斗は胸の奥に、その言葉を置いた。


 周りに人がいるのに、見えていない。


 まさに自分だった。


 会社に人はいた。


 友人もいた。


 コンビニの店員もいた。


 昔の恋人もいた。


 父もいた。


 けれど、悠斗はずっと自分の傷ばかりを見ていた。


 だから、誰かが差し出してくれた小さな優しさも、誰かの寂しさも、誰かの努力も見えていなかった。


「次は、他人の成功を祝う宿題ですよね」


 悠斗が言うと、弥助はにやりとした。


「お、覚えとったか」


「忘れたいですけど」


「なんでや」


「難しいからです」


「せやな」


 弥助はあっさり認めた。


「他人の成功を祝うのは難しい。特に、自分が欲しかったもんを相手が持ってる時はな」


 悠斗は恒一のことを思い浮かべた。


 妻。


 子供。


 家庭。


 自分がどこかで欲しいと思いながら、手にできなかったもの。


「祝えない自分って、最低ですよね」


 悠斗が呟くと、弥助は少し強い声で言った。


「そこで自分を最低にすんな」


 悠斗は驚いて弥助を見た。


「羨ましいと思うのは、最低やない。欲しかった証拠や」


「欲しかった証拠……」


「子供が欲しかった。家庭が欲しかった。誰かと生きる未来が欲しかった。そういう願いがあるから、ざわつくんやろ」


「でも、相手には関係ないのに」


「せや。相手には関係ない。だから、ざわつきは自分で持つ。でも、祝う言葉は相手に渡す。それが大人の祝福や」


 悠斗はゆっくり息を吐いた。


 ざわつきは自分で持つ。


 祝う言葉は相手に渡す。


 それなら、自分にもできるかもしれない。


 完璧に澄んだ心で祝えなくてもいい。


 羨ましさが残っていてもいい。


 ただ、恒一の幸せを、恒一のものとして認める。


 それだけでいいのかもしれない。


「土曜日、友人に会います」


「第二子の友人か」


「はい」


「ちゃんと言うんやで」


「おめでとう、ですよね」


「それだけやない」


「え?」


 弥助は悠斗を見た。


「幸せそうで羨ましかった。でも、本当におめでとう。そう言え」


 悠斗は顔をしかめた。


「また重いです」


「軽くするな」


「でも、そんなこと言ったら空気悪くなりません?」


「空気っちゅうのはな、きれいな本音でちょっと揺れたくらいでは壊れへん」


「きれいな本音?」


「相手を傷つけるためやなく、自分を正直にするための本音や」


 悠斗は黙った。


 弥助の言葉は、時々ずるい。


 逃げ道を塞ぐのに、その先にちゃんと小さな灯りを置いてくる。


「わかりました」


 悠斗は言った。


「言ってみます」


「ええ顔や」


「犬じゃなくて?」


「今日は柴犬くらいやな」


「まだ犬なんですね」


「だいぶ愛嬌出てきたで」


 悠斗は笑ってしまった。


 家に帰ると、悠斗は机に向かった。


 最近、帰宅してからノートを開くのが少しだけ習慣になっていた。


 まだ部屋は散らかっている。


 洗濯物も残っている。


 仕事の疲れもある。


 でも、机の上の小さなスペースだけは守っていた。


 古本屋で買った文庫本。


 宿題ノート。


 ペン。


 その三つが並んでいるだけで、そこは自分が自分に戻るための場所になっていた。


 悠斗は今日のページを開いた。


『コンビニ店員の名前を覚えた。

 山口さん。

 名前を呼んでありがとうと言ったら、朝が少しだけ変わった。

 人は、名前を知った瞬間、背景ではなくなる。』


 そこまで書いて、手を止めた。


 さらに続ける。


『自分はずっと、誰にも見られていないと思っていた。

 でも本当は、自分も誰かを見ていなかったのかもしれない。

 孤独は、周りに人がいないことだけじゃない。

 周りにいる人を、人として見られなくなることも孤独なんだと思った。』


 書き終えると、悠斗は小さく息を吐いた。


 文章を書くことは、少しずつ自分の呼吸に戻ってきていた。


 うまいかどうかはわからない。


 でも、書いている間だけは、自分の中で散らばっていた感情が、少しずつ並んでいく気がした。


 その時、スマートフォンが震えた。


 恒一からだった。


『土曜、子供の写真見せてもいい? 親バカで悪いけど、めちゃくちゃ可愛い』


 悠斗は画面を見つめた。


 胸が少しざわついた。


 いいな。


 羨ましいな。


 そう思った。


 でも、同時に、恒一が嬉しそうにメッセージを送っている姿も浮かんだ。


 きっと、見せたいのだ。


 自分の幸せを。


 友人に。


 悠斗は返信欄を開いた。


『もちろん。楽しみにしてる。ちゃんと親バカ聞かせて』


 送信。


 心はまだ少しざわついていた。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 ざわついたままでも、人の幸せに近づくことはできる。


 悠斗はそう思った。


 翌朝。


 会社へ行く前、悠斗はまたコンビニに寄った。


 山口さんは品出しをしていた。レジには別の若い男性店員がいた。名札には「佐藤」と書かれている。


 悠斗は少し迷った。


 山口さんだけでいいと思っていた。


 けれど、宿題は「コンビニ店員の名前を覚えろ」だ。


 一人とは言われていない。


 お茶を一本持ってレジへ行く。


「百二十八円です」


 佐藤さんは淡々と言った。


 悠斗はお金を出し、レシートを受け取る。


「佐藤さん、ありがとうございます」


 佐藤さんは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、少しぎこちなく笑った。


「ありがとうございます」


 店を出る時、品出し中の山口さんが軽く会釈をした。


 悠斗も会釈を返した。


 それだけのこと。


 でも、世界が少しずつ名前を持ち始めていた。


 山口さん。


 佐藤さん。


 西野。


 村瀬。


 恒一。


 美月。


 父。


 誰かの名前を覚えることは、その人の人生が自分の世界に入ってくることだった。


 会社では、忙しい一日が続いた。


 午後、村瀬から急に声をかけられた。


「朝倉、例の競合比較、見た」


「はい」


「あれ、わかりやすかった。西野も助かったって言ってた」


 悠斗は少し驚いた。


「ありがとうございます」


「今後、あの形式でチーム内のテンプレ作ってくれ」


「わかりました」


 村瀬はそれだけ言って去っていった。


 以前の悠斗なら、褒められても素直に受け取れなかった。


 たまたまだ。


 まだまだ足りない。


 次は失敗するかもしれない。


 そうやって、褒め言葉をすぐに打ち消していた。


 でも今日は、少しだけ受け取ってみようと思った。


 わかりやすかった。


 助かった。


 その言葉を、ノートの中にしまうように胸に置いた。


 夕方、西野がコーヒーを持って悠斗のデスクに来た。


「朝倉さん、これ」


「え?」


「昨日のお礼です。コンビニのコーヒーですけど」


「ありがとう」


 悠斗は受け取った。


 カップは温かかった。


「最近、朝倉さん変わりましたよね」


 西野が言った。


「みんなに言われるな」


「前より話しかけやすいです」


「前は話しかけにくかった?」


「正直、ちょっと」


 西野は気まずそうに笑った。


「いつも自分の中で反省会してる感じでした」


「反省会……」


「はい。話しかけても、朝倉さんの中でもう朝倉さんが朝倉さんを責めてるみたいな」


 悠斗は苦笑した。


 的確すぎる。


「そう見えてたんだ」


「でも最近は、ちゃんとこっちを見てくれる感じがします」


 悠斗は、すぐに返事ができなかった。


 ちゃんとこっちを見てくれる。


 それは、山口さんの名前を覚えたことともつながっている気がした。


 誰かを見る。


 自分の不安だけではなく、相手の存在を見る。


 それは簡単なようで、ずっとできていなかったことだった。


「ありがとう。言ってくれて」


「いえ」


 西野は笑った。


 その日の夜、バス停に行くと、弥助はいなかった。


 最近は、いる日といない日がある。


 その代わり、ベンチには紙切れが置かれていた。


 悠斗はそれを拾った。


『第六の宿題。他人の成功を祝ってみろ。逃げずに、目を見て言え。』


 また同じ宿題。


 いや、少し具体的になっている。


 逃げずに、目を見て言え。


 悠斗は紙切れを見つめ、苦笑した。


「本当に逃げ道塞ぐな、あの人」


 土曜日。


 悠斗は約束の時間より十五分早く、駅前に着いた。


 恒一と会うのは久しぶりだった。


 高校時代からの友人。


 昔は何でも話せた。


 でも、大人になるにつれて、会うたびに比べてしまうようになった。


 恒一は結婚し、子供が生まれ、家を買い、ちゃんと人生を進めているように見えた。


 一方の自分は、独身で、仕事も中途半端で、夢も諦め、部屋も散らかっている。


 会えば、自分の遅れを突きつけられる気がした。


 だから避けていた。


 駅前の時計を見る。


 十二時五十五分。


 人混みの向こうから、見覚えのある男が手を振った。


「悠斗!」


 森下恒一だった。


 少し太った。


 目元に疲れもある。


 でも、笑い方は昔のままだった。


「久しぶり」


 悠斗が言うと、恒一は近づいてきて、軽く肩を叩いた。


「ほんと久しぶりだな。元気……ではなさそうだけど、生きててよかった」


「第一声それかよ」


「だって連絡薄かったからさ」


 恒一は笑った。


 その笑顔を見た瞬間、悠斗の胸の中にあった緊張が少し緩んだ。


 二人は高校時代によく通ったラーメン屋へ向かった。


 店はまだ残っていた。


 看板は昔より色褪せ、店主は代替わりしたようだったが、メニューの一番上には昔と同じ醤油ラーメンがあった。


「懐かしいな」


 恒一が言った。


「部活帰り、よく来たよな」


「金ないのに大盛り頼んで、帰りの電車賃ギリギリになった」


「あったあった」


 二人は笑った。


 ラーメンを注文し、カウンターに並んで座る。


 昔は、何も考えずに隣に座れた。


 今は、久しぶりの距離感が少し照れくさい。


 水を一口飲んだあと、悠斗は心を決めた。


 逃げずに、目を見て言え。


「恒一」


「ん?」


「子供、生まれたんだよな」


「ああ。うん」


 恒一の顔が少し柔らかくなる。


 その表情を見た瞬間、悠斗の胸がざわついた。


 幸せそうだ。


 いいな。


 羨ましい。


 その気持ちは、やはり消えなかった。


 でも、悠斗は逃げなかった。


 恒一の目を見た。


「おめでとう」


 声は少し震えた。


 でも、言えた。


「本当に、おめでとう」


 恒一は驚いたように瞬きをした。


 それから、ゆっくり笑った。


「ありがとう」


 悠斗は続けた。


「正直、羨ましかった。投稿見た時、すぐに祝えなかった。自分が情けなくて、比べて、距離置いた」


 恒一は黙って聞いていた。


「でも、ちゃんと言いたかった。おめでとう。幸せそうで、羨ましい。でも、本当に嬉しい」


 言い終えた瞬間、悠斗は息を吐いた。


 重い。


 やっぱり重いことを言ってしまった。


 そう思った。


 けれど、恒一は困った顔をしなかった。


 むしろ、少し泣きそうな顔で笑った。


「悠斗、それ言ってくれてありがとう」


「え?」


「俺さ、幸せそうに見えるだろ」


「うん」


「幸せだよ。子供も可愛いし、妻にも感謝してる。でも、ずっと余裕があるわけじゃない」


 恒一は水の入ったグラスを見つめた。


「二人目が生まれて、嬉しいのに、怖くもなった。ちゃんと養えるのかなとか、いい父親になれるのかなとか。上の子に寂しい思いさせてないかなとか。夜泣きで寝不足だし、妻とも喧嘩するし、仕事ではミスするし」


 悠斗は黙っていた。


「SNSには、そんなこと書かないじゃん。幸せな写真だけ載せる。そしたら、みんな『いいな』って言ってくれる。でもたまに、自分でもその写真の中の自分に追いつけてない気がするんだよ」


 悠斗は胸を突かれた。


 写真の中の自分に追いつけていない。


 そんな感覚があるのか。


 幸せそうに見える恒一にも。


「だから、悠斗が本音言ってくれて、ちょっと安心した」


「安心?」


「うん。俺だけじゃないんだなって」


 ラーメンが運ばれてきた。


 湯気が立ち上る。


 昔と同じ匂いだった。


 でも、二人の間に流れる空気は、昔より少し深かった。


 恒一は箸を割りながら言った。


「負けた話、するんだろ?」


 悠斗は笑った。


「する」


「じゃあ俺からな」


「お前から?」


「俺、最近、上の子に怒鳴った」


 恒一は苦い顔をした。


「夜泣きで寝不足で、仕事でも揉めて、帰ったら上の子が牛乳こぼしてさ。そんなの子供なら普通なのに、俺、怒鳴っちゃって。子供、固まって泣いて。妻にも怒られて。俺、父親向いてないんじゃないかって思った」


 悠斗は、恒一の横顔を見た。


 自分が「成功者」と決めつけていた男が、父親としての不安を抱えている。


 それは少し意外で、でも、とても人間らしかった。


「俺はさ」


 悠斗は言った。


「ずっと、自分だけ何も持ってないと思ってた」


 恒一はラーメンをすすりながら聞いている。


「仕事も中途半端で、結婚もしてなくて、夢も諦めて。お前の投稿見て、勝手に傷ついてた」


「うん」


「でも、最近変なおっさんに会って」


「変なおっさん?」


「そこは説明長くなる」


「気になるんだけど」


「俺もよくわかってない」


 二人は笑った。


 悠斗は、弥助の宿題のことを少し話した。


 負けたことを書くこと。


 ありがとうを一回多く言うこと。


 夢を諦めた駅へ戻ったこと。


 コンビニ店員の名前を覚えたこと。


 話しながら、自分でも不思議だった。


 こんな話、誰にもできないと思っていた。


 でも恒一は笑いながら、時々真面目に頷きながら聞いてくれた。


「いいじゃん、そのおっさん」


「怪しいけどな」


「でも、悠斗ちょっと変わったよ」


「そう?」


「うん。前より、生きてる感じする」


 生きてる感じ。


 その言葉に、悠斗は胸が詰まりそうになった。


 自分は、以前どれほど死んだように生きていたのだろう。


 ラーメンを食べ終えたあと、恒一はスマートフォンを取り出した。


「写真、見る?」


 悠斗の胸がまた少しざわついた。


 でも、今度は逃げなかった。


「見せて」


 画面には、生まれたばかりの赤ん坊の写真が映っていた。


 小さな手。


 眠った顔。


 その隣で、少し疲れた顔をしながら笑う恒一の妻。


 そして上の子が、赤ん坊を覗き込んでいる写真。


 悠斗は画面を見つめた。


 羨ましい。


 でも、それだけではなかった。


 可愛い。


 守られてほしい。


 恒一、頑張ってるんだな。


 そんな気持ちも、確かにあった。


「可愛いな」


 悠斗は言った。


「だろ?」


 恒一は親バカ全開の顔で笑った。


 その顔を見て、悠斗も笑った。


「ちゃんと幸せそうで、よかった」


 恒一は少し照れたように鼻をこすった。


「ありがとな」


 店を出たあと、二人は駅前を少し歩いた。


 高校時代の話。


 仕事の話。


 家族の話。


 夢の話。


 昔のように何でも軽く話せるわけではない。


 でも、昔よりも深く話せることが増えていた。


 別れ際、恒一が言った。


「また会おうぜ。今度は半年空けるなよ」


「うん」


「あと、小説書いたら読ませろよ」


 悠斗は驚いた。


「覚えてたのか」


「当たり前だろ。お前の本、俺が一番に買うって言ったじゃん」


 悠斗の胸に、昔の言葉が戻ってきた。


 自分が忘れようとしていた言葉を、恒一は覚えていた。


「まだ本になるようなものじゃない」


「じゃあ、一文でもいいよ」


 恒一は笑った。


「読ませろ」


 悠斗は少し迷ってから頷いた。


「いつか」


「約束な」


 恒一は手を振って去っていった。


 悠斗はその背中を見送りながら、心の中で静かに思った。


 他人の成功を祝うことは、自分の失敗を認めることではなかった。


 相手の幸せをちゃんと見た時、自分の中の願いも見えてくる。


 自分も、誰かと生きたかった。


 自分も、祝われるような人生を歩きたかった。


 その願いは、惨めなものではない。


 まだ心が生きている証拠だった。


 夜、バス停に行くと、弥助がいた。


「どうやった?」


 弥助は聞いた。


 悠斗はベンチに座り、少し笑った。


「祝えました」


「目を見て?」


「はい」


「ざわついたか?」


「ざわつきました」


「それでええ」


 弥助は満足そうに頷いた。


「ざわついたまま、ちゃんと祝えました」


「上出来や」


 悠斗は空を見上げた。


 夜空には、細い月が浮かんでいた。


「恒一も、色々抱えてました」


「せやろな」


「俺、勝手にあいつを成功者にしてました。でも、あいつも途中でした」


「みんな途中や」


 弥助は静かに言った。


「人生の完成品みたいな顔して歩いとる人間も、家帰ったら未完成や。みんな、どっか欠けたまま生きとる」


 悠斗は頷いた。


「次の宿題や」


「やっぱりあるんですね」


「もちろんや」


 弥助は紙切れを悠斗に渡した。


 そこには、こう書かれていた。


『第七の宿題。昔の自分に手紙を書け。』


 悠斗は紙を見つめた。


 昔の自分。


 夢を抱えていた自分。


 父に傷ついた自分。


 美月を失う前の自分。


 負けた話を誰にもできなかった自分。


 どの自分に書けばいいのだろう。


 弥助は言った。


「一番置いてきた自分に書け」


「一番置いてきた自分……」


「そいつを迎えに行かな、前には進まれへん」


 悠斗は紙をノートに挟んだ。


 帰り道、足取りは少し軽かった。


 祝えた。


 羨ましいままでも、祝えた。


 それは悠斗にとって、小さくない出来事だった。


 家に帰ると、悠斗はノートを開いた。


 今日のページに書く。


『恒一に会った。

 子供が生まれたことを、目を見て祝えた。

 羨ましかった。胸がざわついた。

 でも、本当におめでとうと思えた。

 他人の幸せは、自分の不幸の証明じゃない。

 相手の幸せを見つめると、自分が本当に欲しかったものも見えてくる。』


 悠斗はそこで手を止めた。


 そして、次のページに新しくタイトルを書いた。


『昔の自分へ』


 まだ本文は書けなかった。


 でも、明日書こうと思った。


 今なら、少しだけ書ける気がした。


 遠回りした道の途中で、悠斗は少しずつ人の名前を覚え、自分の願いを思い出し、誰かの幸せを祝えるようになっていた。


 人生はまだ変わりきっていない。


 でも、確かに動き始めていた。

第5話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「名前を覚えること」と「他人の幸せを祝うこと」でした。


誰かの名前を呼ぶと、その人は背景ではなく、一人の人間として見えてきます。


そして、他人の幸せを祝うことは、自分の負けを認めることではありません。


羨ましいと思ってもいい。

心がざわついてもいい。

それでも「おめでとう」と言えた時、人は少しだけ優しくなれるのかもしれません。


次回は、第6話「他人の成功を祝ってみろ」からさらに進み、悠斗が“昔の自分”へ手紙を書く物語へ続きます。

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