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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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4/10

第4話 夢を諦めた駅へ戻れ

第3話では、悠斗が友人・恒一に初めて「負けた話」をしました。


誰かに弱さを見せること。

情けない自分を隠さずに言葉にすること。


それは、悠斗にとって大きな一歩でした。


今回の第4話では、福神弥助から出された宿題「夢を諦めた駅へ戻れ」に向き合います。


かつて小説家になる夢を置いてきた場所で、悠斗は昔の自分と再会します。

駅のホームに降り立った瞬間、朝倉悠斗は時間が巻き戻ったような感覚に襲われた。


 十年以上前。


 大学生だった頃、悠斗はこの駅で何度も電車を降りた。


 講義が終わった夕方。アルバイト帰りの夜。雨の降る休日。何かを書きたくてたまらないのに、家では集中できなくて、わざわざ電車に乗ってこの街まで来た。


 駅前には、小さな古本屋があった。


 その隣には、夜十一時まで開いている喫茶店があった。


 悠斗はそこで、何杯も安いブレンドコーヒーを頼み、大学ノートを広げて物語を書いていた。


 その頃の自分は、何者でもなかった。


 けれど、何者かになれる気がしていた。


 根拠なんてなかった。才能があると言われたこともない。小説の賞に応募しても一次選考に通ったことすらなかった。


 それでも、書いている時間だけは、自分が自分の人生の真ん中にいる気がした。


 悠斗はホームの端に立ち、発車メロディを聞いていた。


 昔と同じ音だった。


 電車が走り去ると、ホームに少し冷たい風が残った。線路の向こうには、夕暮れの空が広がっている。オレンジ色と灰色が混ざったような、はっきりしない空だった。


 まるで今の自分みたいだ、と悠斗は思った。


 明るいのか、暗いのか。


 終わりなのか、始まりなのか。


 自分でもわからない。


 改札へ向かう階段を上りながら、悠斗は鞄の中のノートを意識した。


 福神弥助の宿題。


『夢を諦めた駅へ戻れ』


 ただそれだけ。


 この駅で一時間過ごせ、と弥助は言った。


 書きたくなったら書け。泣きたくなったら泣け。何も感じないなら、何も感じない自分を見ていろ。


 簡単なようで、ひどく難しい宿題だった。


 改札を出ると、駅前は少し変わっていた。


 昔あったレンタルビデオ店は、ドラッグストアになっていた。古いパン屋は閉店していて、シャッターにテナント募集の紙が貼られていた。駅前のロータリーには新しいマンションが建ち、学生よりも会社帰りの大人が多く歩いている。


 変わらないものもあった。


 駅前の時計台。


 細い路地に続く街灯。


 信号の横にある古びた掲示板。


 悠斗は、ゆっくり歩き出した。


 昔通った道を、記憶を頼りに進む。


 足は自然と、あの古本屋へ向かっていた。


 路地を曲がる。


 そこに、古本屋はまだあった。


 看板は色褪せ、店先のワゴンには百円の文庫本が並んでいる。ガラス戸には手書きのポップが貼られ、入口の横には埃をかぶった文学全集が積まれていた。


「まだ、あるんだ……」


 悠斗は思わず声に出した。


 胸の奥で、小さな何かが揺れた。


 この古本屋で、悠斗は初めて好きな作家の本を買った。新品では高くて買えなかった文庫本を、三百円で見つけて、宝物みたいに鞄に入れた。


 小説家になりたい。


 そう思ったのも、この店で読んだ一冊がきっかけだった。


 誰かの書いた言葉に、自分の人生が救われた気がした。


 だったら、自分もいつか誰かの心に届く言葉を書きたい。


 そんな青臭い願いを、悠斗は持っていた。


 ガラス戸を開けると、古い紙の匂いがした。


 懐かしい匂いだった。


 店内は狭く、棚と棚の間をすれ違うのもやっとだった。文学、歴史、漫画、雑誌、詩集。雑多に並べられた本たちは、どれも誰かに読まれ、手放され、それでもまだここで次の持ち主を待っている。


 レジには、白髪の店主が座っていた。


 昔と同じ人だろうか。


 十年以上経っているから、確信はなかった。けれど、丸い眼鏡をかけ、無愛想に新聞を読んでいる姿は、記憶の中の店主に似ていた。


 悠斗は棚を見て回った。


 昔好きだった作家の名前を探す。


 あった。


 一冊だけ、文庫本が棚の隅に差し込まれていた。背表紙は少し焼けている。悠斗はそれを抜き取った。


 ページを開くと、鉛筆で薄く線が引かれていた。


 誰かが、ここを読んだ。


 誰かが、この一文に立ち止まった。


 そう思うと、本というものが急に生き物のように感じられた。


 悠斗はその本を持ってレジに向かった。


「二百円」


 店主が短く言った。


 昔と同じ、ぶっきらぼうな言い方だった。


 悠斗は財布から小銭を出した。


「ありがとうございます」


 自然にそう言うと、店主は少しだけ顔を上げた。


「前にも来たことある?」


 悠斗は驚いた。


「え?」


「いや、なんとなく。昔、学生の頃によく来てた兄ちゃんに似てるなと思って」


 悠斗の胸が、どくんと鳴った。


「たぶん……僕です。十年以上前ですけど、よく来てました」


「そうか」


 店主は本を紙袋に入れながら言った。


「あの頃、よくノート持ってたな」


 悠斗は言葉を失った。


 覚えていたのか。


 自分では、ただの客だと思っていた。誰にも見られていないと思っていた。夢を抱えてこの店に通っていたことなんて、世界のどこにも残っていないと思っていた。


 でも、覚えている人がいた。


「小説、書いてたんです」


 悠斗は、気づけばそう言っていた。


 店主は手を止めなかった。


「そうか」


「でも、やめました」


「そうか」


 店主は、それ以上聞かなかった。


 慰めもしない。


 励ましもしない。


 ただ本を袋に入れ、悠斗に差し出した。


「また書けばいい」


 その一言だけだった。


 悠斗は、紙袋を受け取る手に力が入った。


 また書けばいい。


 それだけのことなのかもしれない。


 夢を諦めたとか、才能がないとか、もう遅いとか、今さら恥ずかしいとか。


 そういう言葉を何重にも巻きつけて、悠斗は書くことを遠ざけてきた。


 でも、店主にとってはただ一言だった。


 また書けばいい。


「……ありがとうございます」


 悠斗は頭を下げた。


 店を出ると、夕方の空は少し暗くなっていた。


 手の中の紙袋が温かく感じた。


 古本屋の隣にあった喫茶店は、まだ営業していた。


 店名も変わっていない。


『珈琲 みずの木』


 木製の扉。少し曇った窓ガラス。入口の横に置かれた小さな黒板には、手書きで「本日のケーキ チーズケーキ」と書かれていた。


 悠斗は扉の前で立ち止まった。


 ここだ。


 夢を諦めた駅。


 正確には、この喫茶店で書いて、この駅のホームで諦めた。


 大学四年の春。


 就職先が決まり、周囲が少しずつ社会人になる準備を始めた頃。悠斗はこの喫茶店で、最後に小説を書こうとしていた。


 だが、一行も書けなかった。


 父の言葉が頭に残っていた。


「夢なんかで飯が食えると思うな」


 母の心配そうな声もあった。


「安定した仕事に就いてくれた方が安心」


 友人たちは卒業旅行や新生活の話をしていた。


 自分だけが、現実を見ていない子供のように思えた。


 その日、悠斗はノートを閉じた。


 駅のホームで、もう書くのはやめようと決めた。


 小説家になりたいなんて、なかったことにしようと決めた。


 そして十年以上、本当に書かなかった。


 悠斗は深く息を吸い、喫茶店の扉を開けた。


 ベルが鳴った。


 店内は昔より少し明るくなっていた。壁紙が貼り替えられ、カウンターの椅子も新しくなっている。けれど、窓際の二人席は残っていた。


 悠斗がいつも座っていた席。


「お好きなお席へどうぞ」


 店員に言われ、悠斗は迷わず窓際へ向かった。


 椅子に座る。


 窓の外には、古本屋の看板が見える。


 昔と同じ景色。


 けれど、そこに座っている自分はもう学生ではない。


 三十五歳。


 会社員。


 独身。


 夢を諦めた男。


 いや。


 夢を諦めたと思い込んでいた男。


 悠斗はコーヒーを注文し、鞄からノートを出した。


 福神弥助から始まった宿題ノート。


 負けたこと。


 受け取ってきたもの。


 会いたくない人。


 負けた話。


 ページをめくるたび、自分が少しずつ裸にされていくようだった。


 コーヒーが運ばれてきた。


 湯気が立ち上る。


 悠斗はカップを両手で包み、ひと口飲んだ。


 苦い。


 でも、懐かしい味だった。


 店の奥では、静かなジャズが流れている。隣の席では、若い女性が参考書を開いて勉強していた。カウンターでは、年配の男性が新聞を読んでいる。


 誰も悠斗を見ていない。


 誰も、悠斗がここで人生の何かと向き合っていることを知らない。


 そのことが、少しだけありがたかった。


 悠斗はペンを握った。


 白いページを見つめる。


 何を書けばいいのかわからない。


 昔は、書きたいことがたくさんあった。


 物語の始まり。


 登場人物の名前。


 世界の秘密。


 主人公の願い。


 今は、何も浮かばない。


 ただ、胸の奥にある言葉にならない塊だけが、重く沈んでいる。


 弥助は言った。


 書きたくなったら書け。


 泣きたくなったら泣け。


 何も感じないなら、何も感じない自分を見ていろ。


 悠斗は何も書けない自分を見つめた。


 怖いのだ。


 書けないことが怖い。


 書いたものがつまらないことが怖い。


 昔の自分より下手になっていることが怖い。


 もう本当に何も残っていないと知るのが怖い。


 夢を諦めたのではなく、夢に見放されたのだとわかるのが怖い。


 悠斗はペンを置きそうになった。


 その時、古本屋の店主の言葉を思い出した。


 また書けばいい。


 ただ、それだけ。


 上手く書く必要はない。


 誰かに読ませる必要もない。


 賞に送る必要もない。


 人生を変える必要もない。


 ただ、また書けばいい。


 悠斗はペンを握り直した。


 そして、ゆっくりと書き始めた。


『駅のホームに降り立った瞬間、男は、自分が十年前に置いてきた夢の匂いを思い出した。』


 書いた。


 一文。


 たった一文。


 それだけなのに、悠斗の胸に熱いものが込み上げた。


 下手かもしれない。


 ありきたりかもしれない。


 誰かに読まれたら笑われるかもしれない。


 でも、書いた。


 十年以上逃げていた場所で、もう一度、一文を書いた。


 悠斗はペン先を見つめた。


 手が少し震えている。


 続けて、もう一文。


『夢は死んだと思っていた。けれど本当は、埃をかぶったまま、ずっと同じ場所で男を待っていた。』


 視界が滲んだ。


 悠斗は慌てて瞬きをした。


 泣くほどのことではない。


 ただ一文、二文書いただけだ。


 誰に褒められたわけでもない。


 何かを成し遂げたわけでもない。


 それなのに、涙がこぼれそうになった。


 昔の自分が、遠くからこちらを見ている気がした。


 大学ノートを抱えて、何者でもないくせに未来を信じていた自分。


 その自分に、悠斗はずっと謝りたかったのかもしれない。


 置いていってごめん。


 恥ずかしいものにしてごめん。


 なかったことにしてごめん。


 悠斗はノートの端に、小さく書いた。


『ごめん。まだ、ここにいたんだな。』


 その言葉を書いた瞬間、涙が一粒、ノートに落ちた。


 にじんだ文字を見て、悠斗は静かに笑った。


 泣いてしまった。


 三十五歳の男が、喫茶店の窓際で、ノートに向かって泣いている。


 昔の自分なら、恥ずかしくてたまらなかっただろう。


 でも今は、少しだけ思った。


 泣けるなら、まだ終わっていない。


 コーヒーは冷めていた。


 それでも悠斗は、ゆっくり飲み干した。


 時計を見ると、喫茶店に入ってから一時間以上が過ぎていた。


 宿題は終わった。


 いや、終わったというより、始まったのかもしれない。


 店を出ると、街は夜になっていた。


 古本屋はまだ開いていたが、店先のワゴンは片付けられ始めていた。悠斗は紙袋を抱え、駅へ向かった。


 改札を通り、ホームに立つ。


 ここで、昔の自分は夢を諦めた。


 悠斗はホームの端へ歩いた。


 あの日と同じ場所かどうかはわからない。


 でも、ここでいいと思った。


 電車が来るまで、あと六分。


 悠斗は鞄からノートを出し、さっき書いたページを開いた。


『駅のホームに降り立った瞬間、男は、自分が十年前に置いてきた夢の匂いを思い出した。』


 自分の書いた文章を読むのは、少し照れくさかった。


 けれど、嫌ではなかった。


 悠斗はページの下に、もう一文書いた。


『遠回りした道は、夢から遠ざかるための道ではなく、夢にもう一度会いに行くための道だったのかもしれない。』


 書き終えた時、電車のライトが見えた。


 ホームに風が吹く。


 電車が近づいてくる音。


 昔、夢を諦めた時と同じ音。


 けれど今度は、その音が終わりの合図には聞こえなかった。


 始まりの合図に聞こえた。


 最寄り駅に戻ると、夜は深くなっていた。


 バス停へ行くと、福神弥助がベンチで缶コーヒーを飲んでいた。


「お、帰ってきたか」


 弥助は悠斗を見るなり、にやりと笑った。


「どうやった? 夢の墓参りは」


「墓参りって言い方、やめてください」


「ほな、夢の同窓会」


「それも微妙です」


 悠斗はベンチに座った。


 弥助は悠斗の顔をじっと見た。


「泣いたな」


「……顔に書いてありますか」


「目に書いてある」


「便利ですね」


「便利やで」


 悠斗は少し笑った。


 そして、鞄からノートを取り出した。


「書きました」


 弥助の表情が、少しだけ変わった。


「ほう」


「一文だけのつもりだったんですけど、少しだけ」


「見せんでええ」


「え?」


「それは兄ちゃんのもんや」


 弥助は缶コーヒーを飲み干し、ベンチの下に置いた。


「でも、どんな気持ちやったかは話せ」


 悠斗はノートを閉じた。


 言葉を探す。


「怖かったです」


「うん」


「書けなかったらどうしようって思いました。何も残ってなかったらどうしようって」


「うん」


「でも、一文書いたら……」


 悠斗は胸の奥を押さえるように息を吸った。


「昔の自分が、まだそこにいた気がしました」


 弥助は黙って聞いていた。


「夢って、叶えるか諦めるかのどっちかだと思ってました。でも、そうじゃないのかもしれません」


「ほう」


「夢は、形が変わっても残るんですね。小説家になれるかどうかはわからない。たぶん、今から目指しても簡単じゃない。でも、書くことが好きだった自分まで消さなくてもよかったんだって、少し思いました」


 弥助は満足そうに頷いた。


「ええことに気づいたやん」


「弥助さん」


「なんや」


「夢って、叶わなかったら失敗ですか」


 弥助はすぐには答えなかった。


 夜の商店街を、ひとりの自転車が通り過ぎていく。コンビニの灯りが、雨のない道路に白く伸びていた。


「夢には二種類ある」


 弥助は言った。


「二種類?」


「叶える夢と、支えてくれる夢や」


 悠斗は黙って弥助を見た。


「叶える夢は、結果がある。小説家になる。本を出す。賞を取る。仕事にする。そういう夢やな」


「はい」


「でも、支えてくれる夢は違う。叶ったかどうかより、その夢を持ってたことで自分が生きられたかどうかや」


 弥助の声は、いつもより少しだけ優しかった。


「兄ちゃんは、小説家になれなかったかもしれん。でも、書きたいと思ってた時間は、兄ちゃんを支えてたんちゃうか?」


 悠斗は、古い喫茶店の窓際を思い出した。


 ノートに向かっていた時間。


 誰にも褒められなかったけれど、確かに自分が自分でいられた時間。


「支えてくれてました」


「ほな、その夢は失敗やない」


 悠斗の胸が、静かに震えた。


「夢を叶えられへんかった人間が、全員不幸になるわけやない。でも、夢を持ってた自分を馬鹿にした人間は、ちょっとずつ心が痩せる」


「心が痩せる……」


「せや。昔好きやったものを、恥ずかしいものにするな。昔頑張った自分を、黒歴史にするな。そいつは、その時の自分を一生懸命生かしてくれたもんや」


 悠斗は何も言えなかった。


 昔の自分を、ずっと恥ずかしいと思っていた。


 小説家になりたいなんて言っていた自分。


 夢を語っていた自分。


 いつか何者かになれると信じていた自分。


 青臭い。


 現実を知らない。


 甘い。


 そうやって切り捨ててきた。


 でも本当は、その自分がいたから、今の自分もどこかで生き延びていたのかもしれない。


「次の宿題や」


 弥助が言った。


「またですか」


「またや」


「今日は結構きつかったんですけど」


「人生は筋トレや。心も負荷かけな育たん」


「ブラック神様ですね」


「福の神も成果主義や」


 弥助は笑った。


「第五の宿題。コンビニ店員の名前を覚えろ」


 悠斗は拍子抜けした。


「……え?」


「コンビニ店員の名前を覚えろ」


「それ、前に少しやりましたよ。山口さんって」


「ほな、山口さんに一言、名前を呼んでありがとうと言え」


「それ、恥ずかしくないですか」


「恥ずかしいで」


「なんでそんな宿題ばっかり」


「恥ずかしいことの向こう側に、人間関係はあるからや」


 悠斗は顔をしかめた。


「重い話の次は、コンビニですか」


「人生を変えるのは、大きな決断だけやない。いつものコンビニ、いつもの道、いつもの挨拶。そういう日常を雑に扱う人間は、幸せにも雑になる」


 弥助は空き缶を持って立ち上がった。


「夢を迎えに行ったら、次は日常に戻る。夢だけ見てても飯は食えへん。でも、飯だけ食って夢を捨てても心が痩せる。両方大事や」


 悠斗はその言葉に、小さく頷いた。


 夢と日常。


 昔の悠斗は、どちらか一つを選ばなければいけないと思っていた。


 夢を追うなら現実を捨てる。


 現実を生きるなら夢を諦める。


 でも、本当にそうだったのだろうか。


 今の自分は会社員だ。


 明日も仕事がある。


 資料を作り、電話を受け、上司に怒られ、後輩に助けられる。


 その日常の中で、それでも一文を書くことはできるのかもしれない。


 小説家になれるかどうかではなく、書くことを自分から奪わない生き方はできるのかもしれない。


「明日、山口さんに言ってみます」


 悠斗は言った。


「ええ顔や」


「犬っぽさは?」


「今日は人間寄りやな」


「よかったです」


 弥助は大げさに頷き、空き缶をゴミ箱に捨てた。


「ほな、帰って一文書け」


「え?」


「今日書いたんやろ? 明日も一文書け」


「毎日ですか?」


「毎日一文」


「宿題増えてません?」


「夢はな、迎えに行っただけじゃあかん。連れて帰って、飯食わせて、寝床作ってやらなあかん」


 悠斗は笑った。


「夢ってペットなんですか」


「似たようなもんや。放置したら弱る。でも、毎日ちょっと世話したら、また懐く」


 妙な例えだった。


 けれど、少しわかる気がした。


 悠斗は家に帰ると、まず机の上を少し片付けた。


 ノートを置く場所を作るためだった。


 ペットボトルを捨て、古いレシートをまとめ、読みかけの本を端に寄せる。小さなスペースができた。


 そこに、今日古本屋で買った文庫本を置いた。


 その隣に、宿題ノートを置いた。


 それだけで、部屋の中に小さな場所が生まれた気がした。


 夢の居場所。


 そう思うと、少し照れくさかった。


 悠斗はノートを開き、今日書いた文章の続きを考えた。


 うまく書こうとすると、手が止まる。


 だから、ただ思ったことを書いた。


『男は、置いてきた夢を抱えて家に帰った。

 夢は軽いと思っていたのに、意外と重かった。

 けれどその重さは、不思議と嫌ではなかった。』


 たった三行。


 でも、昨日までの自分なら書けなかった三行だった。


 悠斗はペンを置き、深く息を吐いた。


 スマートフォンが震えた。


 恒一からだった。


『今週土曜、ラーメン行ける?』


 悠斗は返信した。


『行ける。久しぶりに負けた話しよう。』


 すぐに返事が来た。


『俺も山ほどあるわ。覚悟しとけ。』


 悠斗は笑った。


 恒一にも山ほどあるのか。


 勝っているように見える人にも、負けた話はある。


 その当たり前の事実が、悠斗を少し安心させた。


 翌朝。


 悠斗は目覚ましより五分早く目が覚めた。


 天井の染みは相変わらずそこにあった。


 でも今日は、起き上がる前に一つだけ思った。


 今日も一文書けるだろうか。


 それは小さな問いだった。


 会社に行きたくない気持ちはある。


 将来への不安もある。


 父にも美月にも、まだ連絡できていない。


 それでも、昨日書いた一文が、胸のどこかで小さく灯っていた。


 悠斗は起き上がり、カーテンを開けた。


 空は晴れていた。


 駅へ向かう途中、いつものコンビニに寄った。


 レジには山口さんがいた。


「いらっしゃいませ」


 悠斗はお茶とおにぎりを買った。


 会計をしながら、胸が少し緊張した。


 名前を呼んでありがとうと言う。


 ただそれだけなのに、妙に恥ずかしい。


 レシートを受け取る。


 山口さんが言った。


「ありがとうございました」


 悠斗は一瞬だけ迷った。


 でも、言った。


「山口さん、いつもありがとうございます」


 山口さんは驚いたように目を丸くした。


 そして、少し照れたように笑った。


「こちらこそ、いつもありがとうございます」


 店を出た悠斗の顔は、少し熱かった。


 恥ずかしい。


 でも、嫌な恥ずかしさではなかった。


 自分の世界に、また一人、人が増えたような気がした。


 会社に着くと、西野が声をかけてきた。


「朝倉さん、今日ちょっと顔明るいですね」


「そう?」


「はい。何かいいことありました?」


 悠斗は少し考えた。


 小説を書いた。


 昔の駅へ行った。


 コンビニ店員の名前を呼んだ。


 どれを言えばいいかわからなかった。


 だから、こう言った。


「昨日、昔の忘れ物を取りに行った」


 西野は首を傾げた。


「なんですか、それ」


「自分でもよくわからない」


 悠斗は笑った。


 西野も笑った。


 その日、仕事は相変わらず忙しかった。


 でも悠斗は、昼休みにノートを開き、一文だけ書いた。


『遠回りは、遅れている証拠じゃなくて、拾い忘れたものを拾いに行く時間なのかもしれない。』


 その一文を書いた時、悠斗はふと思った。


 人生はまだ、終わったわけではない。


 むしろ、自分はようやく、自分の人生に戻ってきたのかもしれない。


 夜、バス停に行くと、弥助はいなかった。


 代わりに、ベンチの上に紙切れが置かれていた。


 悠斗はそれを拾った。


『第六の宿題。他人の成功を祝ってみろ。心がざわついてもええから、祝え。』


 悠斗は紙切れを見つめた。


 すぐに、恒一の顔が浮かんだ。


 第二子が生まれた友人。


 幸せそうな写真を見て、素直に喜べなかった相手。


 今度会う時、自分はちゃんと「おめでとう」と言えるだろうか。


 心がざわついてもいい。


 それでも祝え。


 悠斗は紙切れをノートに挟んだ。


 夢を拾った次に待っていたのは、他人の幸せと向き合う宿題だった。


 遠回りの道は、まだまだ続いていく。


 けれど今の悠斗は、その道の先を少しだけ見てみたいと思っていた。

第4話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「夢を諦めた場所へ戻る」でした。


夢は、叶うか叶わないかだけで価値が決まるものではありません。

その夢を持っていた時間が、自分を支えてくれていたこともあります。


悠斗は、かつて小説家になる夢を置いてきた駅へ戻り、もう一度たった一文を書きました。


大きな成功ではなくても、失くした自分を迎えに行くこと。

それも人生を取り戻す大切な一歩なのかもしれません。


次回は、第5話「コンビニ店員の名前を覚えろ」から続く流れとして、日常の中の小さな人間関係と、他人の成功を祝う宿題へ進んでいきます。

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