第3話 「負けた話」をしろ
第2話では、悠斗が「ありがとうを一回多く言う」という宿題を通して、自分が受け取ってきた優しさに少しずつ気づき始めました。
今回の第3話では、福神弥助から出された新しい宿題「一番会いたくない人の名前を書け」、そして「負けた話をしろ」に向き合います。
人は、勝った話よりも、負けた話をするときに本当の自分が見えるのかもしれません。
『第三の宿題。明日、一番会いたくない人の名前を書け。』
その紙切れを握ったまま、朝倉悠斗はバス停の前でしばらく立ち尽くしていた。
雨上がりの商店街は、濡れたアスファルトが街灯をぼんやりと映していた。居酒屋の灯り、コンビニの白い光、遠くを走る車のヘッドライト。それら全部が、薄い膜の向こう側にあるみたいに滲んで見えた。
一番会いたくない人。
悠斗の頭に最初に浮かんだのは、父だった。
朝倉誠司。
厳しく、無口で、弱音を嫌う人。
悠斗が子供の頃から、父はいつも正しさの側に立っていた。学校の成績が悪ければ努力が足りないと言い、部活で補欠になれば根性が足りないと言い、就職活動で落ち込めば甘えていると言った。
父の言葉は、いつも短く、硬かった。
そして、痛かった。
けれど二番目に浮かんだ顔の方が、悠斗の胸を強く締めつけた。
高瀬美月。
かつて、結婚を考えた人。
別れた日、美月は泣かなかった。責めもしなかった。ただ、静かに言った。
「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」
その言葉は今でも、悠斗の中に棘のように残っている。
悠斗は紙切れを鞄にしまい、歩き出した。
会いたくない。
父にも、美月にも。
父に会えば、また昔の自分に戻ってしまいそうだった。何も言い返せず、ただ黙って、胸の中だけで悔しさを膨らませる自分に。
美月に会えば、自分が失ったものの大きさを思い知らされる気がした。美月がもし幸せそうにしていたら、それを祝えない自分にまた失望するかもしれない。もし不幸そうにしていたら、自分のせいだと思ってしまうかもしれない。
どちらにしても、怖かった。
その夜、悠斗はノートを開いた。
机の上には、昨日書いたページがある。
『負けたこと』
『それでも受け取ってきたもの』
その下に、新しいページを開く。
ペンを持つ手が止まった。
一番会いたくない人。
父か。
美月か。
しばらく迷った末に、悠斗はまず父の名前を書いた。
『朝倉誠司』
文字にしただけで、胸の奥が重くなった。
続けて、美月の名前も書いた。
『高瀬美月』
書いた瞬間、息が浅くなった。
会いたくない人が二人いる場合はどうすればいいのだろう。
弥助ならきっと、嬉しそうに笑ってこう言うだろう。
「お得やな。宿題二倍や」
想像して、悠斗は少しだけ苦笑した。
しかし、すぐにその笑いは消えた。
会いたくない人の名前を書く。
ただそれだけなのに、昔閉じ込めた感情が蓋をこじ開けてくるようだった。
父に認めてほしかった。
美月に嫌われたくなかった。
けれど、どちらにも本音を言えなかった。
悠斗はペンを置き、椅子の背にもたれた。
天井の染みが見える。
第1話の朝と同じ染み。
けれど、今はその染みを眺めながら逃げるだけではいられなかった。
翌日、会社では朝から小さなトラブルが起きていた。
先方に送った見積書の金額に、細かい入力ミスがあったのだ。致命的なものではなかったが、確認不足には違いない。村瀬はいつものように眉間にしわを寄せ、悠斗のデスクの前に立った。
「朝倉、これ確認したのか」
「はい。確認したつもりでした」
「つもりじゃ困るんだよ」
「申し訳ありません」
また、すみません。
昨日、西野に言われた言葉が頭をよぎった。
『朝倉さん、いつも謝ってばっかりだから』
悠斗は唇を噛んだ。
謝ることは悪くない。
ミスをしたなら謝るべきだ。
でも、自分は謝ることで、その場をやり過ごす癖がついていたのかもしれない。謝れば終わる。頭を下げれば、これ以上自分の中身を見られずに済む。
村瀬はため息をついた。
「修正版、午前中に送れ」
「はい」
村瀬が去ったあと、西野が小声で言った。
「朝倉さん、大丈夫ですか」
悠斗は反射的に「大丈夫」と言いかけた。
でも、言葉を飲み込んだ。
「大丈夫……ではないけど、やるよ」
西野は少し驚いた顔をした。
悠斗自身も驚いた。
大丈夫ではない。
そんなことを会社で言ったのは、いつ以来だろう。
「手伝えることあります?」
「数字の再確認だけ、一緒に見てもらえると助かる」
「もちろんです」
「ありがとう」
西野は嬉しそうに笑った。
「任せてください」
二人で見積書を確認し直し、修正版を送ったのは午前十一時半だった。大きな問題にはならず、先方からも了承の返信が来た。
悠斗は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
失敗した。
でも、助けてもらった。
謝った。
でも、ありがとうも言えた。
それはほんの小さな違いだったが、悠斗にとっては大きな変化だった。
昼休み、悠斗はスマートフォンを開いた。
連絡先の一覧をスクロールする。
父の名前。
高瀬美月の名前。
どちらも、消さずに残っていた。
父とは、もう半年以上まともに話していない。正月に形式的な挨拶をしただけだ。美月とは、別れてから三年近く連絡を取っていない。
悠斗の指は、美月の名前の上で止まった。
今さら連絡してどうする。
謝りたいのか。
会いたいのか。
それとも、ただ自分が楽になりたいだけなのか。
わからなかった。
わからないまま連絡するのは、卑怯な気がした。
次に父の名前を見る。
こちらはもっと重かった。
父に会いたいわけではない。
でも、ずっと避けてきた。
いつか話さなければならないと思いながら、ずっと先延ばしにしてきた。
悠斗はスマートフォンを閉じた。
まだ無理だ。
そう思った。
けれど、昨日までの「無理」とは少し違った。
昨日までの無理は、永遠の無理だった。
今日の無理は、今はまだ無理、だった。
夜、悠斗はバス停へ向かった。
福神弥助は、いつものベンチに座っていた。
今日は新品のビニール傘を横に置いている。昨日、悠斗が買った傘だ。ボロボロのスーツに新品の傘という組み合わせは、相変わらず妙だった。
「来たか、負け犬二日目」
「その呼び方、やめてもらえませんか」
「ほな、成長途中の負け犬」
「悪化してます」
弥助は楽しそうに笑った。
悠斗はベンチに座り、鞄からノートを取り出した。
「書いてきました」
「会いたくない人の名前か」
「はい」
「誰や」
悠斗は少し迷ってから言った。
「父と、昔の恋人です」
「二人か。豪華やな」
「豪華ではないです」
「で、どっちがほんまに会いたくない?」
悠斗は黙った。
父。
美月。
どちらも会いたくない。
でも、その理由は違う。
父には、怒りを見られたくない。
美月には、情けなさを見られたくない。
「……父です」
悠斗は言った。
自分でも、その答えに少し驚いた。
美月の方が胸は痛い。
けれど、根っこの部分でずっと引っかかっているのは父だった。
弥助は頷いた。
「ほな、今日の宿題は決まりや」
「会いに行け、ですか」
「まだ早い」
悠斗は少しほっとした。
その反応を見て、弥助がにやりとした。
「なんや、安心した顔しよって」
「いや、別に」
「会いに行くのはそのうちや。今日はまず、負けた話をしろ」
「負けた話?」
「せや。誰かに、自分の負けた話を一つする」
悠斗は顔をしかめた。
「それ、何の意味があるんですか」
「勝った話ばっかりする人間は信用ならん」
「そういう話ですか」
「ちゃう。人間はな、負けた話を隠すほど孤独になるんや」
弥助の声が、少しだけ真面目になった。
「みんな負けてる。みんな失敗してる。みんな恥ずかしいこと抱えて生きてる。せやのに、自分だけ負けてると思い込む。なぜか。誰も負けた話をせえへんからや」
悠斗は、言葉を失った。
確かにそうだった。
SNSには、勝った話ばかりが並んでいる。
結婚しました。
子供が生まれました。
昇進しました。
家を買いました。
夢が叶いました。
もちろん、その裏側には苦労もあるのだろう。だが画面に流れてくるのは、整えられた幸せばかりだ。それを見るたび、悠斗は自分だけが失敗しているような気持ちになっていた。
「誰に話せばいいんですか」
「誰でもええ」
「誰でもって……」
「ただし、嘘はつくな。軽く笑い話にして逃げるな。ちゃんと、自分が痛かったこととして話せ」
悠斗は黙り込んだ。
そんなこと、できるだろうか。
会社の人には無理だ。
父にはもっと無理だ。
美月には、まだ連絡できない。
友人。
そう考えた時、一人の名前が浮かんだ。
森下恒一。
高校時代からの友人。結婚して、子供がいて、家も買った。悠斗が最近SNSで見た、第二子誕生の投稿をしていた相手だ。
あの投稿を見て、悠斗は落ち込んだ。
祝うべきなのに、心から祝えなかった。
恒一とは昔から仲が良かった。けれど、ここ数年はほとんど会っていない。誘われても、仕事が忙しいと言って断ってきた。本当は、幸せそうな恒一に会うのが苦しかった。
「友人に、話してみます」
悠斗が言うと、弥助は満足そうに頷いた。
「ええやん」
「でも、何を話せばいいかわかりません」
「負けた話や」
「だから、それが」
「ほな、こう言え」
弥助は悠斗の方を向き、少し芝居がかった声で言った。
「お前の幸せを見て、ちゃんと喜べへんかった。自分が情けなくて、距離を置いてた。すまん。ほんで、子供生まれておめでとう」
悠斗は胸を突かれたようになった。
「……そんなこと、言えませんよ」
「なんでや」
「重いです」
「重いもん抱えてたんやから、重くて当然やろ」
「相手も困ると思います」
「困らせたらええやん」
「え?」
「本音聞かされて、ちょっと困る。それくらいの関係でええんや。誰にも困らせんように生きてたら、誰にも助けてもらわれへん」
悠斗は何も言えなかった。
誰にも困らせないように。
それは、悠斗がずっと守ってきたルールだった。
弱音を吐かない。
迷惑をかけない。
嫉妬を見せない。
不安を隠す。
傷ついた顔をしない。
そうやって生きてきた結果、誰にも本当の自分を見せられなくなっていた。
「でも、急にそんなこと言われても、向こうも迷惑じゃないですか」
「迷惑かどうかは向こうが決めることや」
弥助は言った。
「兄ちゃんは、相手の反応まで勝手に決めすぎや。どうせ嫌われる。どうせ困る。どうせわかってもらえへん。そうやって先回りして、結局何も言わへん」
図星だった。
「負けた話をするっていうのはな、相手を信じる練習でもある」
「相手を信じる……」
「こいつなら、自分の情けない話を聞いても、すぐに見捨てたりせえへんかもしれん。そう思う練習や」
悠斗は、森下恒一の顔を思い浮かべた。
高校時代、放課後にラーメンを食べながら夢を語り合った友人。
悠斗が小説家になりたいと言った時、恒一は笑わなかった。
「お前の本が出たら、俺が一番に買うわ」
そう言ってくれた。
いつから、あいつに会うのが怖くなったのだろう。
恒一が変わったのではない。
自分が、勝手に距離を置いたのだ。
「わかりました」
悠斗は小さく言った。
「連絡してみます」
「今しろ」
「今?」
「明日にしたら逃げるやろ」
「逃げません」
「逃げる顔しとる」
「また顔ですか」
「顔は嘘つかん」
弥助に促され、悠斗はスマートフォンを取り出した。
連絡先から森下恒一の名前を探す。
指が震えた。
最後にやり取りしたのは、半年以上前だった。
『また飲もうぜ』
恒一からのメッセージ。
悠斗はそれに対して、
『仕事落ち着いたら』
と返していた。
仕事が落ち着くことなんてなかった。
いや、落ち着いても会わなかっただろう。
悠斗はメッセージ欄を開いた。
何を書けばいい。
弥助の言葉をそのまま送るのは重すぎる。
でも、軽く済ませたらまた逃げることになる。
悠斗は何度も入力しては消した。
『久しぶり。子供生まれたんだね。おめでとう。』
ここまでは普通だ。
問題はその後だ。
悠斗は深く息を吸った。
『本当は投稿見てた。でも、自分がうまくいってないのが情けなくて、すぐにおめでとうって言えなかった。ごめん。今さらだけど、本当におめでとう。』
送信ボタンの上で、指が止まる。
怖い。
重いと思われるかもしれない。
面倒くさいと思われるかもしれない。
今さら何だよ、と笑われるかもしれない。
「押せ」
弥助が言った。
「急かさないでください」
「人生はな、押すべき時に押さんと、ずっと下書きのままや」
悠斗は目を閉じ、送信した。
メッセージは、あっけなく送られた。
それだけのことなのに、心臓が激しく鳴っていた。
「送りました」
「えらい」
弥助が言った。
その言い方があまりにも普通で、悠斗は少し泣きそうになった。
大人になると、誰かに「えらい」と言われることはほとんどない。
結果を出せば当然。
失敗すれば怒られる。
頑張っても、できなければ意味がない。
そんな世界で生きていると、ただ一歩踏み出しただけの自分を褒める感覚を忘れてしまう。
スマートフォンが震えたのは、それから三分後だった。
悠斗は息を止めた。
恒一からだった。
『久しぶり。ありがとう。正直、連絡くれてめちゃくちゃ嬉しい。』
それだけで、悠斗の胸が熱くなった。
続けて、メッセージが届いた。
『お前、最近どうしてるかなってずっと気になってた。忙しいんだろうと思ってたけど、ちょっと距離置かれてるのかなとも思ってた。』
悠斗は画面を見つめた。
自分が避けていたことは、やはり伝わっていた。
『うまくいってない時に、人の幸せ見るのしんどいの、わかるよ。俺もそういう時あった。』
悠斗は目を見開いた。
恒一にも、そんな時があったのか。
幸せそうに見える恒一にも。
『今度、軽く飯でも行こう。勝った話じゃなくて、負けた話しようぜ。』
その一文を読んだ瞬間、悠斗は声を出せなくなった。
弥助が横から画面を覗き込もうとした。
「なんて?」
「見ないでください」
「ケチやな」
悠斗はスマートフォンを胸元に引き寄せた。
そして、小さく笑った。
「飯、行こうって」
「ほらな」
「ほらなって」
「人間、思ってるより見捨てへんもんや」
悠斗は画面に返信した。
『ありがとう。行きたい。負けた話、聞いてほしい。』
送ったあと、悠斗はしばらくスマートフォンを見つめていた。
胸の奥に、ずっと固まっていた何かが少し溶けた気がした。
「弥助さん」
「なんや」
「俺、恒一のこと、羨ましかったんです」
「うん」
「結婚して、子供がいて、ちゃんと大人になってて。俺だけ何も変わってない気がして」
「うん」
「でも、あいつも何か抱えてるのかもしれないって、今初めて思いました」
「せやな」
「俺、勝手にあいつを『成功してる側の人間』にしてたのかもしれません」
弥助は頷いた。
「人はな、他人を雑にラベル貼りするんや。成功者、幸せな人、強い人、恵まれた人。そうやって名前をつけると、その人の痛みを見んで済む」
悠斗は黙って聞いていた。
「でもほんまは、みんな途中や。勝ってるように見える人間も、どっかで負けとる。幸せそうに見える人間も、夜中に不安で目が覚めることがある」
雨は降っていなかった。
けれど、バス停の屋根からは昨日の名残のように水滴がぽたりと落ちていた。
「負けた話をすると、負けが終わるんですか」
悠斗は聞いた。
「終わらん」
弥助は即答した。
「終わらないんですか」
「終わらんよ。でも、ひとりで持たんでよくなる」
その言葉は、静かに悠斗の中へ入ってきた。
ひとりで持たなくていい。
それだけで、どれほど救われるのだろう。
「次の宿題や」
弥助が言った。
「もうですか」
「人生は宿題だらけや」
「ブラック企業みたいですね」
「神様業界も大変なんや」
「自分で神様って言うんですね」
「福の神やからな」
弥助は胸を張った。
「第四の宿題。夢を諦めた駅へ戻れ」
悠斗の体が固まった。
「夢を諦めた駅……」
「あるやろ」
あった。
すぐに浮かんだ。
大学時代、悠斗がよく通っていた駅。
小さな古本屋と、深夜まで開いている喫茶店があった街。
そこで悠斗は、よく小説を書いていた。
そして就職が決まった春、その駅のホームで、ノートを鞄の奥にしまい込んだ。
もう夢を見るのはやめよう。
そう決めた場所だった。
「行って、何をすればいいんですか」
「そこで一時間過ごせ」
「それだけ?」
「それだけや」
「書くんですか?」
「書きたくなったら書け。泣きたくなったら泣け。何も感じへんなら、何も感じへん自分を見とけ」
悠斗は深く息を吐いた。
また、痛いところを突いてくる。
でも、不思議と逃げたいだけではなかった。
怖い。
でも、少しだけ行ってみたい。
あの頃の自分がいた場所へ。
夢を諦めた場所へ。
「わかりました」
悠斗は言った。
「明日、行ってみます」
「ええ顔になってきたやん」
「負け犬感、減りました?」
「まだ犬やけど、尻尾は上がってきたな」
「犬から離れてください」
弥助は笑った。
その夜、悠斗は家に帰ると、ノートを開いた。
今日のページに、こう書いた。
『負けた話をした。
恒一の幸せを見て、素直に喜べなかったことを伝えた。
嫌われると思った。面倒くさいと思われると思った。
でも、恒一は「嬉しい」と言ってくれた。
人は、思っているより見捨てないのかもしれない。』
そこまで書いて、悠斗は手を止めた。
さらに続ける。
『負けた話は恥ずかしい。
でも、話した瞬間、負けが少しだけ自分一人のものではなくなった。
誰かに聞いてもらえる負けは、もしかしたら、次に進むための荷物になるのかもしれない。』
書き終えると、悠斗はスマートフォンを見た。
恒一から、店の候補が送られてきていた。
『駅前の昔行ってたラーメン屋、まだあるっぽい。今度そこ行かない?』
悠斗は懐かしくなった。
高校時代、部活帰りによく行った店だ。
安くて、量が多くて、店主が無愛想で、それでも二人にとっては特別な場所だった。
『行こう』
悠斗は返信した。
それから、連絡先の一覧を開いた。
父の名前。
美月の名前。
まだ押せなかった。
でも、昨日より少しだけ距離が近くなった気がした。
翌朝、悠斗は会社へ行く前に、部屋のカーテンを開けた。
空は晴れていた。
久しぶりに、朝の光が部屋の奥まで入ってきた。
散らかったワンルームは、明るくなると余計に散らかって見えた。洗濯物、空のペットボトル、積まれた本、放置した書類。
悠斗は少し迷ってから、空のペットボトルを三本だけ袋に入れた。
三本だけ。
それでも昨日より、部屋がほんの少しだけ片付いた。
会社へ向かう途中、悠斗は思った。
人生を変えるというのは、巨大な決意をすることではないのかもしれない。
ノートに負けを書く。
ありがとうを言う。
友人に本音を送る。
ペットボトルを三本捨てる。
誰かから見れば、どうでもいい小さなこと。
でも、自分の人生を取り戻す時、人はたぶん、そのくらい小さな一歩から始めるのだ。
その日の仕事は、相変わらず忙しかった。
村瀬は厳しく、西野はよく働き、悠斗は何度も焦った。
けれど、何かが少し違っていた。
ミスをしたら謝る。
助けられたらありがとうと言う。
わからないことは、わからないと言う。
それだけで、仕事の重さが少し変わった。
夕方、村瀬に呼ばれた。
「朝倉」
「はい」
「最近、少し変わったな」
悠斗は身構えた。
「悪い意味ですか?」
「いや」
村瀬は書類をめくりながら言った。
「前より、報告が早くなった。抱え込むのが減った」
「……そうですか」
「抱え込まれると、こっちも困る。ミスは早く出せ。弱いところも早く出せ。その方がチームは助かる」
悠斗は意外だった。
村瀬の口から、そんな言葉が出ると思わなかった。
「はい」
「それだけだ」
村瀬はそれ以上何も言わなかった。
でも悠斗には、その言葉が不思議と残った。
弱いところも早く出せ。
弱さは隠すものだと思っていた。
でも仕事でも、人間関係でも、隠し続けた弱さは、いつか大きな歪みになるのかもしれない。
夜、悠斗は電車に乗った。
今日はバス停ではなく、夢を諦めた駅へ行く日だった。
大学時代によく通った街。
電車に揺られながら、悠斗は少し緊張していた。
あの街は変わっているだろうか。
古本屋はまだあるだろうか。
喫茶店は残っているだろうか。
何より、そこへ行った時、自分は何を感じるのだろうか。
電車の窓に、自分の顔が映っていた。
まだ疲れている。
まだ不安そうだ。
でも、第1話の朝に見た顔とは少し違っていた。
何も解決していない。
でも、逃げることだけは少しずつやめ始めている顔だった。
目的の駅に着いた。
ドアが開く。
悠斗はホームに降り立った。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
懐かしい駅の匂い。
階段の位置。
ホームに流れる発車メロディ。
すべてが、記憶の奥に眠っていた自分を揺り起こした。
ここで、夢を諦めた。
ここで、自分に嘘をついた。
ここで、大人になるふりをした。
悠斗はホームの端に立ち、ゆっくり息を吸った。
遠回りの道は、過去へ戻る道でもあるのかもしれない。
ただし、過去に戻ってやり直すためではない。
置いてきた自分を、迎えに行くために。
悠斗は改札へ向かって歩き出した。
次の宿題が、静かに始まっていた。
第3話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「負けた話をしろ」でした。
人は、勝った話よりも負けた話を隠したくなります。
でも、負けた話を誰かに話せた時、その痛みは少しだけ一人きりのものではなくなります。
悠斗は友人・恒一に、自分の嫉妬や情けなさを打ち明けました。
すると、思っていたよりも人は簡単に見捨てないのだと知ります。
次回は、第4話「夢を諦めた駅へ戻れ」です。
悠斗は、かつて小説家になる夢を置いてきた場所へ向かいます。




