第2話 雨のバス停の変なおっさん
第1話では、人生に置いていかれたように感じていた悠斗が、雨のバス停で謎の老人・福神弥助と出会いました。
今回の第2話では、弥助が出した新しい宿題「ありがとうを一回多く言え」に、悠斗が戸惑いながら向き合っていきます。
たった一言の感謝が、止まっていた心を少しだけ動かしていくお話です。
朝倉悠斗は、バス停のベンチに置かれていた紙切れを、しばらく見つめていた。
『第二の宿題。今日、誰かに「ありがとう」を一回多く言え。』
太い黒ペンで書かれた文字は、雨に濡れたせいで少し滲んでいた。それなのに、不思議とその言葉だけは妙にはっきり読めた。
ありがとうを一回多く言え。
たったそれだけ。
けれど悠斗には、それがひどく難しいことのように思えた。
ありがとうなんて、普段から言っているつもりだった。コンビニでレシートを受け取る時。会社で誰かに書類を渡してもらった時。エレベーターで扉を押さえてもらった時。
でも、それは本当に感謝だったのだろうか。
口癖のように、反射で出していただけではなかったか。
紙切れを鞄にしまいながら、悠斗は小さくため息をついた。
「何やってんだ、俺……」
昨日、雨の中で出会った老人の言葉を信じたわけではない。福神弥助。自分でそう名乗った、ボロボロのスーツを着た変なおっさん。どう考えても怪しい。あんな人間の宿題に付き合う必要なんてない。
そう思っているのに、悠斗は紙切れを捨てられなかった。
駅へ向かう人々の流れに混ざりながら、悠斗は昨日書いたノートの重みを鞄の中に感じていた。
負けたことを書いたノート。
夢から逃げたこと。
美月を傷つけたこと。
父に本音を言えなかったこと。
会社で後輩に嫉妬したこと。
友人の幸せを素直に祝えなかったこと。
そして、自分の人生を失敗だと決めつけたこと。
書いてしまった以上、もう見なかったことにはできなかった。
電車はいつも通り混んでいた。
悠斗は吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔を見た。眠そうで、疲れていて、どこか不機嫌そうな顔。昨日と同じ顔のはずなのに、ほんの少しだけ違って見えた。
理由はわからなかった。
たぶん、昨日の夜に自分の負けを紙に書いたせいだ。
心の中でぐちゃぐちゃに絡まっていたものが、少しだけ言葉になった。言葉になったことで、痛みは増した。でも同時に、その痛みがどこにあるのかも見えた。
電車が揺れる。
隣の会社員の鞄が悠斗の腕にぶつかった。
「あ、すみません」
相手が小さく頭を下げた。
「いえ」
悠斗はいつものように返した。
その直後、鞄の中の紙切れを思い出した。
ありがとうを一回多く言え。
今か?
いや、違うだろう。これは謝られただけだ。ありがとうではない。
悠斗は妙に意識してしまい、そこから会社に着くまで、周りの人の動きが気になって仕方なかった。
改札を出る時、前を歩く女性が落としたハンカチを、別の男性が拾って渡していた。
「ありがとうございます」
女性は自然に笑っていた。
その一言は、悠斗が普段使う「どうも」とは少し違って聞こえた。ちゃんと相手に届いている言葉だった。
会社に着くと、デスクには昨日の仕事がそのまま残っていた。
メールを開く前から、胃の奥が重くなる。今日もまた、山のような修正と確認と謝罪が待っている。何も変わっていない。昨日、変なおっさんと会ったからといって、仕事が楽になるわけではない。
「朝倉さん、おはようございます」
後輩の西野が声をかけてきた。
「ああ、おはよう」
「昨日、遅くまで残ってましたよね。大丈夫ですか?」
「大丈夫」
いつもの返事が口から出た。
本当は大丈夫ではない。
けれど、大人は簡単に「大丈夫じゃない」と言えない。言った瞬間、自分の弱さが周りに広がってしまうような気がする。
西野は少し心配そうに悠斗を見た。
「今日の朝イチ確認、資料見ておきました。二ページ目の数字だけ、こっちで最新に直してあります」
「え?」
「先方から昨日の夜に新しいデータ来てたので。朝倉さん、手いっぱいかなと思って」
悠斗は一瞬、言葉に詰まった。
助かった。
本当に助かった。
昨日の自分なら、「後輩に助けられた」と思って、情けなさが先に立っていたかもしれない。ありがとうより先に、自分は駄目だという気持ちが出てきたかもしれない。
でも、今朝の悠斗の頭には、あの紙切れの文字が浮かんだ。
ありがとうを一回多く言え。
「……ありがとう」
悠斗は言った。
西野が少し目を丸くした。
「え、いえ。全然です」
「いや、本当に助かった。ありがとう」
二回目のありがとうは、一回目より少しだけ自分の言葉になった気がした。
西野は照れたように笑った。
「朝倉さんにそう言われると、なんか嬉しいですね」
「そう?」
「はい。朝倉さん、いつも謝ってばっかりだから」
悠斗は苦笑した。
「そうかな」
「そうですよ。『すみません』は多いですけど、『ありがとう』は少ないです」
西野は何気なく言ったのだろう。
けれどその言葉は、悠斗の胸に小さく刺さった。
すみませんは多い。
ありがとうは少ない。
確かにそうかもしれなかった。
誰かに助けられた時も、迷惑をかけたと感じて、最初に出るのは「すみません」だった。誰かが親切にしてくれても、自分のせいで手間をかけさせたと思い、感謝より申し訳なさが勝った。
それは謙虚さではなく、自分を責める癖だったのかもしれない。
朝の会議では、昨日より少しだけ空気が違った。
資料の修正は間に合っていた。西野が直してくれた数字のおかげで、大きな指摘もなかった。村瀬は相変わらず厳しい顔をしていたが、昨日のように資料を投げることはなかった。
「この方向で進めろ。午後、先方に送っておいて」
「はい」
悠斗は頭を下げた。
会議が終わり、席に戻ろうとした時、村瀬が言った。
「朝倉」
「はい」
「昨日よりはマシだった」
褒め言葉なのかどうか、わからなかった。
けれど、悠斗は一瞬迷ってから言った。
「ありがとうございます」
村瀬は少しだけ眉を動かした。
「……おう」
それだけだった。
でも悠斗には、その短いやり取りが妙に残った。
ありがとう。
たった五文字。
それなのに、言うたびに胸のどこかが少しだけ緩む気がした。
昼休み、悠斗はいつものコンビニへ行った。
おにぎりとペットボトルのお茶を持ってレジに並ぶ。店員は、いつもいる若い女性だった。名前は知らない。いや、正確には名札を見ればわかるはずなのに、これまで気にしたことがなかった。
レジ台に商品を置く。
「いらっしゃいませ」
店員は慣れた手つきでバーコードを読み取った。
「三百八十六円です」
悠斗は財布から小銭を出した。
店員はレシートを渡しながら、いつものように言った。
「ありがとうございました」
悠斗はいつもなら、軽く会釈して終わる。
けれど今日は、名札が目に入った。
山口。
山口さん。
名前を知った瞬間、目の前の店員が「コンビニの人」ではなく、ひとりの人間に見えた。
毎日何百人もの客を相手にして、同じ言葉を繰り返し、時には無愛想な客にも頭を下げる。自分が何気なく受け取っていたおにぎりの向こう側にも、誰かの仕事がある。
「あの」
悠斗は思わず声を出していた。
店員が顔を上げる。
「はい?」
「いつも、ありがとうございます」
言った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。
店員の山口さんは、一瞬きょとんとした後、ふわりと笑った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
ただそれだけのやり取りだった。
でも、コンビニを出た悠斗の足取りは、朝より少し軽かった。
大げさかもしれない。
ありがとうを言ったくらいで人生が変わるわけがない。仕事の悩みも、将来の不安も、孤独も、何ひとつ消えていない。
それでも、自分の周りにいる人たちが、ただの背景ではなくなっていく感覚があった。
会社の後輩。
上司。
コンビニの店員。
電車で隣に立つ人。
皆、それぞれの人生を抱えて生きている。
自分だけが苦しいわけではない。
そんな当たり前のことを、悠斗はずっと忘れていたのかもしれない。
午後は忙しかった。
先方への資料送付、見積もりの再計算、別案件の電話対応。気がつけば夕方になっていた。西野が外出先から戻り、疲れた顔で椅子に座った。
「お疲れ」
悠斗が声をかけると、西野は肩を落とした。
「いやあ、だいぶ詰められました。先方、かなり厳しいですね」
「そうか」
「でも、朝倉さんの資料があったんで助かりました。話しやすかったです」
悠斗は少し驚いた。
「俺の資料?」
「はい。課題の整理、わかりやすかったですよ」
そんなふうに言われると思っていなかった。
悠斗は自分の資料を、ずっと中途半端だと思っていた。村瀬に怒られたことばかりが頭に残り、自分の仕事に価値があるとは思えなかった。
けれど、誰かの役に立っていた。
少なくとも西野にとっては。
「……ありがとう」
「いや、こっちが言うことですよ」
「でも、言ってくれて助かった」
西野は少し笑った。
「今日の朝倉さん、なんか素直ですね」
「そうかな」
「はい。いいと思います」
いいと思います。
その言葉が、思った以上に嬉しかった。
夕方、悠斗は少しだけ早く会社を出た。
早いと言っても、午後七時半だった。以前なら十分遅い時間なのに、最近の悠斗にとっては早い方だった。
外に出ると、空はどんよりと曇っていた。
また雨が降りそうだった。
悠斗は駅へ向かいながら、昨日のバス停のことを考えていた。
福神弥助はいるだろうか。
正直、会いたいのか会いたくないのか、自分でもわからなかった。あの老人と話すと、心の隠していた場所を雑に引っかき回される。腹も立つ。疲れる。なのに、なぜか少し楽にもなる。
最寄り駅に着いた頃には、やはり雨が降り始めていた。
昨日よりは弱い雨だった。
悠斗はコンビニで傘を買おうか迷ったが、結局買わなかった。足は自然と、商店街の端にある古いバス停へ向かっていた。
ベンチには、福神弥助が座っていた。
昨日と同じボロボロのスーツ。
昨日と同じ穴の空いたビニール傘。
そして昨日と同じように、妙に偉そうな顔。
「遅いやないか」
弥助は悠斗を見るなり言った。
「約束した覚えはありません」
「男が昨日と同じ時間に同じ場所へ来たら、それはもう約束や」
「勝手すぎませんか」
「人生なんてだいたい勝手なもんや」
悠斗はため息をつき、ベンチの端に座った。
「宿題は?」
弥助が手を出した。
「持ってきましたけど、見せるんですか?」
「見せんでええ」
「え?」
「負けたことを書いたノートは、自分で持っとけ。人に見せるもんやない」
「じゃあ、なんで聞いたんですか」
「書いたかどうか、顔見たらわかるからな」
弥助は悠斗の顔をじっと見た。
「うん。昨日よりちょっとだけ負け犬感が薄れた」
「褒めてます?」
「だいぶ褒めとる」
悠斗は呆れながらも、少し笑ってしまった。
「第二の宿題はやったんか?」
「ありがとうを一回多く言え、ですよね」
「せや」
「言いました」
「誰に?」
「後輩と、上司と、コンビニの店員さんに」
「ほう。三回も言うたんか。やるやないか」
「別に、ただ言っただけです」
「ただ言うだけのことができへん大人、山ほどおるで」
弥助は足を組み替えた。
「で、どうやった?」
「どうって……」
「何か変わったか?」
悠斗は少し考えた。
劇的なことは何もない。
給料が上がったわけでもない。
人生が突然好転したわけでもない。
ただ、いつもの一日が、ほんの少しだけ違って見えた。
「人が、ちゃんと人に見えました」
悠斗は自分でも意外なことを言った。
弥助は黙って聞いていた。
「いつもは、会社の人も、コンビニの店員さんも、街ですれ違う人も、ただの背景みたいに見えてた気がします。でも、ありがとうって言おうとすると、相手をちゃんと見なきゃいけなくなる」
「ええやん」
「そうしたら、自分だけが大変なわけじゃないんだなって、少し思いました」
弥助は満足そうに頷いた。
「それや」
「それ?」
「感謝っちゅうのはな、相手に渡す言葉やと思われがちやけど、ほんまは自分の目を開ける言葉でもあるんや」
悠斗は黙っていた。
「ありがとうを言うには、まず受け取らなあかん。誰かの親切、誰かの仕事、誰かの気遣い。自分は何も持ってへん、何も与えられてへんと思っとる人間は、ありがとうが言えへん」
「……」
「兄ちゃんはずっと、自分にないものばっかり数えとったんやろ。結婚してない。出世してない。夢を叶えてない。金がない。自信がない。未来がない」
その通りだった。
「でもな、ないものを数え続けると、あるものが見えんようになる」
弥助は、雨の向こうに目をやった。
「今日、後輩が資料を直してくれた。コンビニの店員が飯を売ってくれた。上司が一応、お前の仕事を見てくれた。誰かが電車を動かしてくれた。誰かが道を照らしてくれた。兄ちゃんは、何もない一日やと思ってたかもしれんけど、ほんまは誰かの働きで生かされとる」
悠斗は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
生かされている。
普段なら大げさだと思ったかもしれない。
でも今日は、少しだけわかる気がした。
「感謝したら、幸せになれるんですか」
悠斗が聞くと、弥助は鼻で笑った。
「そんな簡単やったら、世の中みんな幸せや」
「じゃあ、何のために」
「幸せになるためやなくて、不幸ぶるのをやめるためや」
悠斗は顔を上げた。
「不幸ぶる?」
「ほんまにしんどい時はある。泣いてええ。怒ってええ。逃げてもええ。でもな、ずっと『自分だけが不幸です』って顔してると、差し出された手にも気づかへん」
悠斗は、胸の奥が少し痛くなった。
思い当たることがありすぎた。
西野の手伝いも、美月の優しさも、母の心配も、友人の誘いも。
自分はずっと、受け取る前に拒んでいたのかもしれない。
どうせ自分なんて。
どうせ誰もわかってくれない。
そう思うことで、自分を守っていた。
でもそのせいで、受け取れるはずだったものまで遠ざけていたのかもしれない。
「兄ちゃん、昨日ノートに負けたこと書いたやろ」
「はい」
「今日は、その横に書け」
「何をですか」
「それでも受け取ってきたもの」
悠斗は眉をひそめた。
「受け取ってきたもの?」
「せや。負けたことの横に、それでも誰かからもらったものを書け」
「例えば?」
「夢から逃げた。でも、夢を持てた時間があった。美月を傷つけた。でも、美月に愛された時間があった。父に本音を言えなかった。でも、父の言葉に傷つくくらい、本当は認めてほしかった」
悠斗は何も言えなかった。
「負けだけ見たら人生は負けや。でも、負けの横には必ず何かある。悔しさの横には願いがある。後悔の横には大事にしたかったものがある。嫉妬の横には自分も欲しかった幸せがある」
雨が、バス停の屋根を静かに叩いていた。
「第三の宿題や」
弥助は言った。
「負けたことの横に、もらったものを書く」
「……難しいですね」
「難しいで」
「すぐ書ける気がしません」
「すぐ書けるもんは、宿題にならん」
弥助は楽しそうに笑った。
「兄ちゃん、遠回りしたぶん幸せになりたいんやろ?」
「そんなこと、言ってません」
「顔に書いてある」
「またそれですか」
「書いてあるもんはしゃあない」
悠斗は呆れながらも、否定できなかった。
幸せになりたい。
そんな言葉を口にするのは恥ずかしい。
大人になればなるほど、幸せになりたいなんて真っ直ぐに言えなくなる。仕事を頑張るとか、生活を安定させるとか、将来に備えるとか、そういう言葉で包まないと、自分の願いを持つことすら恥ずかしくなる。
でも本当は、幸せになりたかった。
誰かと比べて勝ちたいわけではない。
大金持ちになりたいわけでもない。
ただ、朝起きた時に「今日も生きていていい」と思いたい。
夜眠る前に「今日も悪くなかった」と思いたい。
そんな小さな幸せが、悠斗にはずっと遠かった。
「弥助さん」
「なんや」
「あなたは、何者なんですか」
弥助はにやりと笑った。
「福の神や」
「本気で言ってます?」
「本気か嘘かなんて、どっちでもええ。兄ちゃんが変わるきっかけになるなら、わしは神様でも変なおっさんでも何でもええんや」
「変なおっさんなのは認めるんですね」
「そこは否定できん」
悠斗はまた少し笑った。
雨の夜に、見知らぬ老人と並んで笑っている。
昨日までの自分なら、想像もしなかった光景だった。
「明日も来い」
弥助が言った。
「またですか」
「嫌なら来んでええ」
「来なかったら?」
「そのまま今まで通りの人生に戻るだけや」
その言葉は、脅しではなかった。
ただの事実のように聞こえた。
今まで通りの人生。
朝起きて、会社に行き、謝って、比べて、落ち込み、帰って眠る。休日は何もできずに終わり、SNSを見て焦り、自分の過去を悔やむ。そんな日々に戻るだけ。
悠斗は、それが少し怖かった。
「……来ます」
「素直でよろしい」
「でも、毎回このバス停なんですか?」
「遠回りの始まりは、だいたい雨のバス停って相場が決まっとる」
「聞いたことないです」
「今決めた」
弥助は立ち上がった。
その時、悠斗は気づいた。
弥助の靴が、昨日よりもさらに濡れている。スーツの袖も擦り切れていた。ふざけたことばかり言っているが、この老人は本当にどこで寝泊まりしているのだろう。
「あの」
「なんや」
「傘、買いましょうか」
弥助は目を細めた。
「同情か?」
「違います」
「ほな何や」
悠斗は少し考えた。
昨日の自分なら、ここで黙っていたかもしれない。
余計なことを言って拒絶されるのが怖かった。
でも今日は、言ってみようと思った。
「ありがとうの、お返しです」
弥助はしばらく悠斗を見つめた。
そして、ぷっと吹き出した。
「兄ちゃん、ええこと言うたつもりやろ」
「少しだけ」
「まだまだやな」
「なんでですか」
「でもまあ、傘は買ってもらう」
「買ってもらうんですね」
「福の神も雨には濡れるんや」
二人は商店街のコンビニへ向かった。
悠斗がビニール傘を一本買うと、レジには昼間とは違う男性店員がいた。
「ありがとうございました」
店員が言った。
悠斗は傘を受け取りながら、自然に言った。
「ありがとうございます」
その言葉は、朝よりずっと楽に出た。
コンビニの外で、悠斗は傘を弥助に渡した。
「どうぞ」
「おう。ありがとな」
弥助が言った。
その「ありがとな」は、意外なほど普通で、温かかった。
悠斗は少し照れくさくなった。
弥助は新しい傘を開き、満足そうに頷いた。
「新品の傘っちゅうのはええな。まだ誰の雨も知らん顔しとる」
「変な表現ですね」
「詩的と言え」
「詩的ですね」
「心がこもってへん」
弥助は笑いながら、雨の中へ歩き出した。
「ほな、また明日や。ノート忘れんなよ」
「はい」
悠斗はその背中を見送った。
ボロボロのスーツに新品のビニール傘。
その組み合わせはやはり妙で、少しおかしかった。
けれど昨日よりも、弥助の背中は寂しく見えなかった。
家に帰ると、悠斗はすぐにノートを開いた。
昨日書いた「負けたこと」の横に、新しい欄を作る。
『それでも受け取ってきたもの』
一つ目。
『夢から逃げた』
その横に、悠斗はしばらく何も書けなかった。
夢から逃げた。
これは、悠斗にとって一番痛い負けだった。
逃げた自分を許せなかった。今さら小説を書きたいなんて言う資格はないと思っていた。
けれど弥助は言った。
負けの横には必ず何かある。
悠斗はペンを動かした。
『でも、夢を持てた時間は楽しかった』
書いた瞬間、胸の奥が少し震えた。
大学時代、夜中まで物語を考えていた時間。
誰に読ませるわけでもないのに、登場人物の名前を考えて、設定を書いて、ひとりでわくわくしていた時間。
あれは、無駄だったのだろうか。
違う。
少なくとも、あの時間の自分は生きていた。
二つ目。
『美月を傷つけた』
悠斗は目を閉じた。
美月の笑顔。
最後の日の静かな声。
「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」
悠斗はゆっくり書いた。
『でも、美月に愛された時間があった』
その文字を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
ずっと、別れたことばかり見ていた。
傷つけたことばかり責めていた。
でも、その前には確かに、愛された時間があった。
誰かが自分を好きになってくれた時間。
自分の笑顔を見て笑ってくれた時間。
それまでなかったことにしてしまうのは、美月にも、あの頃の自分にも失礼なのかもしれない。
三つ目。
『父に本音を言えなかった』
悠斗は長く手を止めた。
父のことは、簡単に書けなかった。
厳しい人だった。
仕事一筋で、弱音を嫌い、夢や感情を語ることをどこか馬鹿にしていた。悠斗が小説家になりたいと言った時、父は眉をひそめて言った。
「現実を見ろ」
その一言で、悠斗の中の何かが折れた。
ずっと父を責めていた。
父のせいで夢を諦めたのだと思っていた。
でも本当は、父に認めてほしかった。
自分の夢を笑わずに聞いてほしかった。
悠斗はペンを握り直した。
『でも、本当は父に認めてほしかった』
書いた瞬間、胸が苦しくなった。
受け取ってきたものとは少し違うかもしれない。
でも、そこには願いがあった。
傷ついたのは、大事だったからだ。
どうでもいい相手なら、何を言われてもここまで引きずらなかった。
悠斗はノートに向かい続けた。
『会社で後輩に嫉妬した。でも、西野は今日、自分を助けてくれた』
『友人の幸せを素直に祝えなかった。でも、自分も誰かと幸せになりたいと思っていた』
『自分の人生を失敗だと決めつけた。でも、まだ悔しいと思えている』
書き終えた時、時計は深夜十二時を過ぎていた。
疲れていた。
けれど昨日の疲れとは違った。
心の奥に積もった埃を、少しだけ払ったような疲れだった。
悠斗はノートを閉じようとして、ふと思い立った。
新しいページを開く。
そこに、短い文章を書いた。
『今日、ありがとうと言った。
言われた人より、言った自分の方が少し救われた気がした。
ありがとうは、相手に渡す言葉だと思っていた。
でも本当は、自分が受け取ったものに気づくための言葉なのかもしれない。』
それは、小説ではなかった。
日記のようなものだった。
でも、久しぶりに自分の言葉を書いた気がした。
悠斗はペンを置いた。
部屋は相変わらず狭く、散らかっていて、人生は何ひとつ解決していない。
それでも、今日という一日は昨日より少しだけ濃かった。
誰かにありがとうを言った。
誰かからありがとうをもらった。
負けたことの横に、受け取ってきたものを書いた。
それだけで、人生が急に明るくなるわけではない。
けれど、真っ暗だと思っていた道に、小さな街灯が一つ点いたような気がした。
翌朝、悠斗はいつもより少しだけ早く起きた。
そして、出勤前に部屋のゴミを一袋だけまとめた。
本当に一袋だけ。
散らかった部屋は、まだほとんど変わらない。
でも、玄関に置いたそのゴミ袋を見て、悠斗は思った。
人生を変える一歩なんて、もしかしたらこのくらい小さいものなのかもしれない。
会社へ向かう途中、昨日のコンビニに寄った。
レジには山口さんがいた。
「いらっしゃいませ」
悠斗はお茶を一本買った。
会計を済ませる時、山口さんがふと笑った。
「昨日も、ありがとうございました」
悠斗は少し驚いた。
覚えていてくれたのだ。
たった一言を。
「こちらこそ、ありがとうございます」
悠斗はそう返した。
外に出ると、空はまだ曇っていた。
けれど、昨日より少しだけ雲が薄い気がした。
その日の夜、バス停に行くと、弥助はいなかった。
ベンチの上に、また紙切れだけが置かれていた。
悠斗はそれを拾う。
そこには、太い文字でこう書かれていた。
『第三の宿題。明日、一番会いたくない人の名前を書け。』
悠斗の手が止まった。
一番会いたくない人。
頭に浮かんだのは、父の顔だった。
そしてもう一人。
美月の顔だった。
雨上がりの風が、紙切れを小さく揺らした。
悠斗はそれを握りしめ、しばらく動けなかった。
遠回りの道は、思ったよりも容赦がない。
けれど、もう引き返したいとは思わなかった。
第2話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「ありがとうを一回多く言う」でした。
感謝の言葉は、相手のためだけではなく、自分が受け取ってきた優しさに気づくための言葉でもあります。
悠斗はまだ何も大きく変わっていません。
仕事も不安なまま、過去の後悔も消えていません。
けれど、誰かに感謝を伝えることで、少しだけ周りの世界が違って見え始めました。
次回は、第3話「『負けた話』をしろ」へ続きます。
悠斗は、自分が一番向き合いたくなかった人の名前を書くことになります。




