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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第2話 雨のバス停の変なおっさん

第1話では、人生に置いていかれたように感じていた悠斗が、雨のバス停で謎の老人・福神弥助と出会いました。


今回の第2話では、弥助が出した新しい宿題「ありがとうを一回多く言え」に、悠斗が戸惑いながら向き合っていきます。


たった一言の感謝が、止まっていた心を少しだけ動かしていくお話です。

朝倉悠斗は、バス停のベンチに置かれていた紙切れを、しばらく見つめていた。


『第二の宿題。今日、誰かに「ありがとう」を一回多く言え。』


 太い黒ペンで書かれた文字は、雨に濡れたせいで少し滲んでいた。それなのに、不思議とその言葉だけは妙にはっきり読めた。


 ありがとうを一回多く言え。


 たったそれだけ。


 けれど悠斗には、それがひどく難しいことのように思えた。


 ありがとうなんて、普段から言っているつもりだった。コンビニでレシートを受け取る時。会社で誰かに書類を渡してもらった時。エレベーターで扉を押さえてもらった時。


 でも、それは本当に感謝だったのだろうか。


 口癖のように、反射で出していただけではなかったか。


 紙切れを鞄にしまいながら、悠斗は小さくため息をついた。


「何やってんだ、俺……」


 昨日、雨の中で出会った老人の言葉を信じたわけではない。福神弥助。自分でそう名乗った、ボロボロのスーツを着た変なおっさん。どう考えても怪しい。あんな人間の宿題に付き合う必要なんてない。


 そう思っているのに、悠斗は紙切れを捨てられなかった。


 駅へ向かう人々の流れに混ざりながら、悠斗は昨日書いたノートの重みを鞄の中に感じていた。


 負けたことを書いたノート。


 夢から逃げたこと。


 美月を傷つけたこと。


 父に本音を言えなかったこと。


 会社で後輩に嫉妬したこと。


 友人の幸せを素直に祝えなかったこと。


 そして、自分の人生を失敗だと決めつけたこと。


 書いてしまった以上、もう見なかったことにはできなかった。


 電車はいつも通り混んでいた。


 悠斗は吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔を見た。眠そうで、疲れていて、どこか不機嫌そうな顔。昨日と同じ顔のはずなのに、ほんの少しだけ違って見えた。


 理由はわからなかった。


 たぶん、昨日の夜に自分の負けを紙に書いたせいだ。


 心の中でぐちゃぐちゃに絡まっていたものが、少しだけ言葉になった。言葉になったことで、痛みは増した。でも同時に、その痛みがどこにあるのかも見えた。


 電車が揺れる。


 隣の会社員の鞄が悠斗の腕にぶつかった。


「あ、すみません」


 相手が小さく頭を下げた。


「いえ」


 悠斗はいつものように返した。


 その直後、鞄の中の紙切れを思い出した。


 ありがとうを一回多く言え。


 今か?


 いや、違うだろう。これは謝られただけだ。ありがとうではない。


 悠斗は妙に意識してしまい、そこから会社に着くまで、周りの人の動きが気になって仕方なかった。


 改札を出る時、前を歩く女性が落としたハンカチを、別の男性が拾って渡していた。


「ありがとうございます」


 女性は自然に笑っていた。


 その一言は、悠斗が普段使う「どうも」とは少し違って聞こえた。ちゃんと相手に届いている言葉だった。


 会社に着くと、デスクには昨日の仕事がそのまま残っていた。


 メールを開く前から、胃の奥が重くなる。今日もまた、山のような修正と確認と謝罪が待っている。何も変わっていない。昨日、変なおっさんと会ったからといって、仕事が楽になるわけではない。


「朝倉さん、おはようございます」


 後輩の西野が声をかけてきた。


「ああ、おはよう」


「昨日、遅くまで残ってましたよね。大丈夫ですか?」


「大丈夫」


 いつもの返事が口から出た。


 本当は大丈夫ではない。


 けれど、大人は簡単に「大丈夫じゃない」と言えない。言った瞬間、自分の弱さが周りに広がってしまうような気がする。


 西野は少し心配そうに悠斗を見た。


「今日の朝イチ確認、資料見ておきました。二ページ目の数字だけ、こっちで最新に直してあります」


「え?」


「先方から昨日の夜に新しいデータ来てたので。朝倉さん、手いっぱいかなと思って」


 悠斗は一瞬、言葉に詰まった。


 助かった。


 本当に助かった。


 昨日の自分なら、「後輩に助けられた」と思って、情けなさが先に立っていたかもしれない。ありがとうより先に、自分は駄目だという気持ちが出てきたかもしれない。


 でも、今朝の悠斗の頭には、あの紙切れの文字が浮かんだ。


 ありがとうを一回多く言え。


「……ありがとう」


 悠斗は言った。


 西野が少し目を丸くした。


「え、いえ。全然です」


「いや、本当に助かった。ありがとう」


 二回目のありがとうは、一回目より少しだけ自分の言葉になった気がした。


 西野は照れたように笑った。


「朝倉さんにそう言われると、なんか嬉しいですね」


「そう?」


「はい。朝倉さん、いつも謝ってばっかりだから」


 悠斗は苦笑した。


「そうかな」


「そうですよ。『すみません』は多いですけど、『ありがとう』は少ないです」


 西野は何気なく言ったのだろう。


 けれどその言葉は、悠斗の胸に小さく刺さった。


 すみませんは多い。


 ありがとうは少ない。


 確かにそうかもしれなかった。


 誰かに助けられた時も、迷惑をかけたと感じて、最初に出るのは「すみません」だった。誰かが親切にしてくれても、自分のせいで手間をかけさせたと思い、感謝より申し訳なさが勝った。


 それは謙虚さではなく、自分を責める癖だったのかもしれない。


 朝の会議では、昨日より少しだけ空気が違った。


 資料の修正は間に合っていた。西野が直してくれた数字のおかげで、大きな指摘もなかった。村瀬は相変わらず厳しい顔をしていたが、昨日のように資料を投げることはなかった。


「この方向で進めろ。午後、先方に送っておいて」


「はい」


 悠斗は頭を下げた。


 会議が終わり、席に戻ろうとした時、村瀬が言った。


「朝倉」


「はい」


「昨日よりはマシだった」


 褒め言葉なのかどうか、わからなかった。


 けれど、悠斗は一瞬迷ってから言った。


「ありがとうございます」


 村瀬は少しだけ眉を動かした。


「……おう」


 それだけだった。


 でも悠斗には、その短いやり取りが妙に残った。


 ありがとう。


 たった五文字。


 それなのに、言うたびに胸のどこかが少しだけ緩む気がした。


 昼休み、悠斗はいつものコンビニへ行った。


 おにぎりとペットボトルのお茶を持ってレジに並ぶ。店員は、いつもいる若い女性だった。名前は知らない。いや、正確には名札を見ればわかるはずなのに、これまで気にしたことがなかった。


 レジ台に商品を置く。


「いらっしゃいませ」


 店員は慣れた手つきでバーコードを読み取った。


「三百八十六円です」


 悠斗は財布から小銭を出した。


 店員はレシートを渡しながら、いつものように言った。


「ありがとうございました」


 悠斗はいつもなら、軽く会釈して終わる。


 けれど今日は、名札が目に入った。


 山口。


 山口さん。


 名前を知った瞬間、目の前の店員が「コンビニの人」ではなく、ひとりの人間に見えた。


 毎日何百人もの客を相手にして、同じ言葉を繰り返し、時には無愛想な客にも頭を下げる。自分が何気なく受け取っていたおにぎりの向こう側にも、誰かの仕事がある。


「あの」


 悠斗は思わず声を出していた。


 店員が顔を上げる。


「はい?」


「いつも、ありがとうございます」


 言った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。


 店員の山口さんは、一瞬きょとんとした後、ふわりと笑った。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 ただそれだけのやり取りだった。


 でも、コンビニを出た悠斗の足取りは、朝より少し軽かった。


 大げさかもしれない。


 ありがとうを言ったくらいで人生が変わるわけがない。仕事の悩みも、将来の不安も、孤独も、何ひとつ消えていない。


 それでも、自分の周りにいる人たちが、ただの背景ではなくなっていく感覚があった。


 会社の後輩。


 上司。


 コンビニの店員。


 電車で隣に立つ人。


 皆、それぞれの人生を抱えて生きている。


 自分だけが苦しいわけではない。


 そんな当たり前のことを、悠斗はずっと忘れていたのかもしれない。


 午後は忙しかった。


 先方への資料送付、見積もりの再計算、別案件の電話対応。気がつけば夕方になっていた。西野が外出先から戻り、疲れた顔で椅子に座った。


「お疲れ」


 悠斗が声をかけると、西野は肩を落とした。


「いやあ、だいぶ詰められました。先方、かなり厳しいですね」


「そうか」


「でも、朝倉さんの資料があったんで助かりました。話しやすかったです」


 悠斗は少し驚いた。


「俺の資料?」


「はい。課題の整理、わかりやすかったですよ」


 そんなふうに言われると思っていなかった。


 悠斗は自分の資料を、ずっと中途半端だと思っていた。村瀬に怒られたことばかりが頭に残り、自分の仕事に価値があるとは思えなかった。


 けれど、誰かの役に立っていた。


 少なくとも西野にとっては。


「……ありがとう」


「いや、こっちが言うことですよ」


「でも、言ってくれて助かった」


 西野は少し笑った。


「今日の朝倉さん、なんか素直ですね」


「そうかな」


「はい。いいと思います」


 いいと思います。


 その言葉が、思った以上に嬉しかった。


 夕方、悠斗は少しだけ早く会社を出た。


 早いと言っても、午後七時半だった。以前なら十分遅い時間なのに、最近の悠斗にとっては早い方だった。


 外に出ると、空はどんよりと曇っていた。


 また雨が降りそうだった。


 悠斗は駅へ向かいながら、昨日のバス停のことを考えていた。


 福神弥助はいるだろうか。


 正直、会いたいのか会いたくないのか、自分でもわからなかった。あの老人と話すと、心の隠していた場所を雑に引っかき回される。腹も立つ。疲れる。なのに、なぜか少し楽にもなる。


 最寄り駅に着いた頃には、やはり雨が降り始めていた。


 昨日よりは弱い雨だった。


 悠斗はコンビニで傘を買おうか迷ったが、結局買わなかった。足は自然と、商店街の端にある古いバス停へ向かっていた。


 ベンチには、福神弥助が座っていた。


 昨日と同じボロボロのスーツ。


 昨日と同じ穴の空いたビニール傘。


 そして昨日と同じように、妙に偉そうな顔。


「遅いやないか」


 弥助は悠斗を見るなり言った。


「約束した覚えはありません」


「男が昨日と同じ時間に同じ場所へ来たら、それはもう約束や」


「勝手すぎませんか」


「人生なんてだいたい勝手なもんや」


 悠斗はため息をつき、ベンチの端に座った。


「宿題は?」


 弥助が手を出した。


「持ってきましたけど、見せるんですか?」


「見せんでええ」


「え?」


「負けたことを書いたノートは、自分で持っとけ。人に見せるもんやない」


「じゃあ、なんで聞いたんですか」


「書いたかどうか、顔見たらわかるからな」


 弥助は悠斗の顔をじっと見た。


「うん。昨日よりちょっとだけ負け犬感が薄れた」


「褒めてます?」


「だいぶ褒めとる」


 悠斗は呆れながらも、少し笑ってしまった。


「第二の宿題はやったんか?」


「ありがとうを一回多く言え、ですよね」


「せや」


「言いました」


「誰に?」


「後輩と、上司と、コンビニの店員さんに」


「ほう。三回も言うたんか。やるやないか」


「別に、ただ言っただけです」


「ただ言うだけのことができへん大人、山ほどおるで」


 弥助は足を組み替えた。


「で、どうやった?」


「どうって……」


「何か変わったか?」


 悠斗は少し考えた。


 劇的なことは何もない。


 給料が上がったわけでもない。


 人生が突然好転したわけでもない。


 ただ、いつもの一日が、ほんの少しだけ違って見えた。


「人が、ちゃんと人に見えました」


 悠斗は自分でも意外なことを言った。


 弥助は黙って聞いていた。


「いつもは、会社の人も、コンビニの店員さんも、街ですれ違う人も、ただの背景みたいに見えてた気がします。でも、ありがとうって言おうとすると、相手をちゃんと見なきゃいけなくなる」


「ええやん」


「そうしたら、自分だけが大変なわけじゃないんだなって、少し思いました」


 弥助は満足そうに頷いた。


「それや」


「それ?」


「感謝っちゅうのはな、相手に渡す言葉やと思われがちやけど、ほんまは自分の目を開ける言葉でもあるんや」


 悠斗は黙っていた。


「ありがとうを言うには、まず受け取らなあかん。誰かの親切、誰かの仕事、誰かの気遣い。自分は何も持ってへん、何も与えられてへんと思っとる人間は、ありがとうが言えへん」


「……」


「兄ちゃんはずっと、自分にないものばっかり数えとったんやろ。結婚してない。出世してない。夢を叶えてない。金がない。自信がない。未来がない」


 その通りだった。


「でもな、ないものを数え続けると、あるものが見えんようになる」


 弥助は、雨の向こうに目をやった。


「今日、後輩が資料を直してくれた。コンビニの店員が飯を売ってくれた。上司が一応、お前の仕事を見てくれた。誰かが電車を動かしてくれた。誰かが道を照らしてくれた。兄ちゃんは、何もない一日やと思ってたかもしれんけど、ほんまは誰かの働きで生かされとる」


 悠斗は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。


 生かされている。


 普段なら大げさだと思ったかもしれない。


 でも今日は、少しだけわかる気がした。


「感謝したら、幸せになれるんですか」


 悠斗が聞くと、弥助は鼻で笑った。


「そんな簡単やったら、世の中みんな幸せや」


「じゃあ、何のために」


「幸せになるためやなくて、不幸ぶるのをやめるためや」


 悠斗は顔を上げた。


「不幸ぶる?」


「ほんまにしんどい時はある。泣いてええ。怒ってええ。逃げてもええ。でもな、ずっと『自分だけが不幸です』って顔してると、差し出された手にも気づかへん」


 悠斗は、胸の奥が少し痛くなった。


 思い当たることがありすぎた。


 西野の手伝いも、美月の優しさも、母の心配も、友人の誘いも。


 自分はずっと、受け取る前に拒んでいたのかもしれない。


 どうせ自分なんて。


 どうせ誰もわかってくれない。


 そう思うことで、自分を守っていた。


 でもそのせいで、受け取れるはずだったものまで遠ざけていたのかもしれない。


「兄ちゃん、昨日ノートに負けたこと書いたやろ」


「はい」


「今日は、その横に書け」


「何をですか」


「それでも受け取ってきたもの」


 悠斗は眉をひそめた。


「受け取ってきたもの?」


「せや。負けたことの横に、それでも誰かからもらったものを書け」


「例えば?」


「夢から逃げた。でも、夢を持てた時間があった。美月を傷つけた。でも、美月に愛された時間があった。父に本音を言えなかった。でも、父の言葉に傷つくくらい、本当は認めてほしかった」


 悠斗は何も言えなかった。


「負けだけ見たら人生は負けや。でも、負けの横には必ず何かある。悔しさの横には願いがある。後悔の横には大事にしたかったものがある。嫉妬の横には自分も欲しかった幸せがある」


 雨が、バス停の屋根を静かに叩いていた。


「第三の宿題や」


 弥助は言った。


「負けたことの横に、もらったものを書く」


「……難しいですね」


「難しいで」


「すぐ書ける気がしません」


「すぐ書けるもんは、宿題にならん」


 弥助は楽しそうに笑った。


「兄ちゃん、遠回りしたぶん幸せになりたいんやろ?」


「そんなこと、言ってません」


「顔に書いてある」


「またそれですか」


「書いてあるもんはしゃあない」


 悠斗は呆れながらも、否定できなかった。


 幸せになりたい。


 そんな言葉を口にするのは恥ずかしい。


 大人になればなるほど、幸せになりたいなんて真っ直ぐに言えなくなる。仕事を頑張るとか、生活を安定させるとか、将来に備えるとか、そういう言葉で包まないと、自分の願いを持つことすら恥ずかしくなる。


 でも本当は、幸せになりたかった。


 誰かと比べて勝ちたいわけではない。


 大金持ちになりたいわけでもない。


 ただ、朝起きた時に「今日も生きていていい」と思いたい。


 夜眠る前に「今日も悪くなかった」と思いたい。


 そんな小さな幸せが、悠斗にはずっと遠かった。


「弥助さん」


「なんや」


「あなたは、何者なんですか」


 弥助はにやりと笑った。


「福の神や」


「本気で言ってます?」


「本気か嘘かなんて、どっちでもええ。兄ちゃんが変わるきっかけになるなら、わしは神様でも変なおっさんでも何でもええんや」


「変なおっさんなのは認めるんですね」


「そこは否定できん」


 悠斗はまた少し笑った。


 雨の夜に、見知らぬ老人と並んで笑っている。


 昨日までの自分なら、想像もしなかった光景だった。


「明日も来い」


 弥助が言った。


「またですか」


「嫌なら来んでええ」


「来なかったら?」


「そのまま今まで通りの人生に戻るだけや」


 その言葉は、脅しではなかった。


 ただの事実のように聞こえた。


 今まで通りの人生。


 朝起きて、会社に行き、謝って、比べて、落ち込み、帰って眠る。休日は何もできずに終わり、SNSを見て焦り、自分の過去を悔やむ。そんな日々に戻るだけ。


 悠斗は、それが少し怖かった。


「……来ます」


「素直でよろしい」


「でも、毎回このバス停なんですか?」


「遠回りの始まりは、だいたい雨のバス停って相場が決まっとる」


「聞いたことないです」


「今決めた」


 弥助は立ち上がった。


 その時、悠斗は気づいた。


 弥助の靴が、昨日よりもさらに濡れている。スーツの袖も擦り切れていた。ふざけたことばかり言っているが、この老人は本当にどこで寝泊まりしているのだろう。


「あの」


「なんや」


「傘、買いましょうか」


 弥助は目を細めた。


「同情か?」


「違います」


「ほな何や」


 悠斗は少し考えた。


 昨日の自分なら、ここで黙っていたかもしれない。


 余計なことを言って拒絶されるのが怖かった。


 でも今日は、言ってみようと思った。


「ありがとうの、お返しです」


 弥助はしばらく悠斗を見つめた。


 そして、ぷっと吹き出した。


「兄ちゃん、ええこと言うたつもりやろ」


「少しだけ」


「まだまだやな」


「なんでですか」


「でもまあ、傘は買ってもらう」


「買ってもらうんですね」


「福の神も雨には濡れるんや」


 二人は商店街のコンビニへ向かった。


 悠斗がビニール傘を一本買うと、レジには昼間とは違う男性店員がいた。


「ありがとうございました」


 店員が言った。


 悠斗は傘を受け取りながら、自然に言った。


「ありがとうございます」


 その言葉は、朝よりずっと楽に出た。


 コンビニの外で、悠斗は傘を弥助に渡した。


「どうぞ」


「おう。ありがとな」


 弥助が言った。


 その「ありがとな」は、意外なほど普通で、温かかった。


 悠斗は少し照れくさくなった。


 弥助は新しい傘を開き、満足そうに頷いた。


「新品の傘っちゅうのはええな。まだ誰の雨も知らん顔しとる」


「変な表現ですね」


「詩的と言え」


「詩的ですね」


「心がこもってへん」


 弥助は笑いながら、雨の中へ歩き出した。


「ほな、また明日や。ノート忘れんなよ」


「はい」


 悠斗はその背中を見送った。


 ボロボロのスーツに新品のビニール傘。


 その組み合わせはやはり妙で、少しおかしかった。


 けれど昨日よりも、弥助の背中は寂しく見えなかった。


 家に帰ると、悠斗はすぐにノートを開いた。


 昨日書いた「負けたこと」の横に、新しい欄を作る。


『それでも受け取ってきたもの』


 一つ目。


『夢から逃げた』


 その横に、悠斗はしばらく何も書けなかった。


 夢から逃げた。


 これは、悠斗にとって一番痛い負けだった。


 逃げた自分を許せなかった。今さら小説を書きたいなんて言う資格はないと思っていた。


 けれど弥助は言った。


 負けの横には必ず何かある。


 悠斗はペンを動かした。


『でも、夢を持てた時間は楽しかった』


 書いた瞬間、胸の奥が少し震えた。


 大学時代、夜中まで物語を考えていた時間。


 誰に読ませるわけでもないのに、登場人物の名前を考えて、設定を書いて、ひとりでわくわくしていた時間。


 あれは、無駄だったのだろうか。


 違う。


 少なくとも、あの時間の自分は生きていた。


 二つ目。


『美月を傷つけた』


 悠斗は目を閉じた。


 美月の笑顔。


 最後の日の静かな声。


「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」


 悠斗はゆっくり書いた。


『でも、美月に愛された時間があった』


 その文字を見た瞬間、目の奥が熱くなった。


 ずっと、別れたことばかり見ていた。


 傷つけたことばかり責めていた。


 でも、その前には確かに、愛された時間があった。


 誰かが自分を好きになってくれた時間。


 自分の笑顔を見て笑ってくれた時間。


 それまでなかったことにしてしまうのは、美月にも、あの頃の自分にも失礼なのかもしれない。


 三つ目。


『父に本音を言えなかった』


 悠斗は長く手を止めた。


 父のことは、簡単に書けなかった。


 厳しい人だった。


 仕事一筋で、弱音を嫌い、夢や感情を語ることをどこか馬鹿にしていた。悠斗が小説家になりたいと言った時、父は眉をひそめて言った。


「現実を見ろ」


 その一言で、悠斗の中の何かが折れた。


 ずっと父を責めていた。


 父のせいで夢を諦めたのだと思っていた。


 でも本当は、父に認めてほしかった。


 自分の夢を笑わずに聞いてほしかった。


 悠斗はペンを握り直した。


『でも、本当は父に認めてほしかった』


 書いた瞬間、胸が苦しくなった。


 受け取ってきたものとは少し違うかもしれない。


 でも、そこには願いがあった。


 傷ついたのは、大事だったからだ。


 どうでもいい相手なら、何を言われてもここまで引きずらなかった。


 悠斗はノートに向かい続けた。


『会社で後輩に嫉妬した。でも、西野は今日、自分を助けてくれた』


『友人の幸せを素直に祝えなかった。でも、自分も誰かと幸せになりたいと思っていた』


『自分の人生を失敗だと決めつけた。でも、まだ悔しいと思えている』


 書き終えた時、時計は深夜十二時を過ぎていた。


 疲れていた。


 けれど昨日の疲れとは違った。


 心の奥に積もった埃を、少しだけ払ったような疲れだった。


 悠斗はノートを閉じようとして、ふと思い立った。


 新しいページを開く。


 そこに、短い文章を書いた。


『今日、ありがとうと言った。

 言われた人より、言った自分の方が少し救われた気がした。

 ありがとうは、相手に渡す言葉だと思っていた。

 でも本当は、自分が受け取ったものに気づくための言葉なのかもしれない。』


 それは、小説ではなかった。


 日記のようなものだった。


 でも、久しぶりに自分の言葉を書いた気がした。


 悠斗はペンを置いた。


 部屋は相変わらず狭く、散らかっていて、人生は何ひとつ解決していない。


 それでも、今日という一日は昨日より少しだけ濃かった。


 誰かにありがとうを言った。


 誰かからありがとうをもらった。


 負けたことの横に、受け取ってきたものを書いた。


 それだけで、人生が急に明るくなるわけではない。


 けれど、真っ暗だと思っていた道に、小さな街灯が一つ点いたような気がした。


 翌朝、悠斗はいつもより少しだけ早く起きた。


 そして、出勤前に部屋のゴミを一袋だけまとめた。


 本当に一袋だけ。


 散らかった部屋は、まだほとんど変わらない。


 でも、玄関に置いたそのゴミ袋を見て、悠斗は思った。


 人生を変える一歩なんて、もしかしたらこのくらい小さいものなのかもしれない。


 会社へ向かう途中、昨日のコンビニに寄った。


 レジには山口さんがいた。


「いらっしゃいませ」


 悠斗はお茶を一本買った。


 会計を済ませる時、山口さんがふと笑った。


「昨日も、ありがとうございました」


 悠斗は少し驚いた。


 覚えていてくれたのだ。


 たった一言を。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 悠斗はそう返した。


 外に出ると、空はまだ曇っていた。


 けれど、昨日より少しだけ雲が薄い気がした。


 その日の夜、バス停に行くと、弥助はいなかった。


 ベンチの上に、また紙切れだけが置かれていた。


 悠斗はそれを拾う。


 そこには、太い文字でこう書かれていた。


『第三の宿題。明日、一番会いたくない人の名前を書け。』


 悠斗の手が止まった。


 一番会いたくない人。


 頭に浮かんだのは、父の顔だった。


 そしてもう一人。


 美月の顔だった。


 雨上がりの風が、紙切れを小さく揺らした。


 悠斗はそれを握りしめ、しばらく動けなかった。


 遠回りの道は、思ったよりも容赦がない。


 けれど、もう引き返したいとは思わなかった。

第2話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「ありがとうを一回多く言う」でした。


感謝の言葉は、相手のためだけではなく、自分が受け取ってきた優しさに気づくための言葉でもあります。


悠斗はまだ何も大きく変わっていません。

仕事も不安なまま、過去の後悔も消えていません。


けれど、誰かに感謝を伝えることで、少しだけ周りの世界が違って見え始めました。


次回は、第3話「『負けた話』をしろ」へ続きます。

悠斗は、自分が一番向き合いたくなかった人の名前を書くことになります。

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