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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第1話 人生に置いていかれた日

人生に置いていかれたような気がした日。


それは、特別に大きな事件が起きた日ではなく、ただいつも通りの朝から始まった。


誰かと比べて落ち込んだり、自分だけがうまく生きられていないように感じたり、そんな夜を過ごしたことがある人へ。


この物語は、遠回りばかりしてきた一人の男が、少しずつ自分の人生を取り戻していくお話です。

朝倉悠斗は、三十五歳になった朝、自分の人生がどこで間違ったのかを考えていた。


 スマートフォンのアラームは、いつも通り午前六時半に鳴った。聞き慣れた電子音が、狭いワンルームの部屋に薄っぺらく響く。カーテンの隙間から差し込む朝日は、やけに冷たく、昨日脱ぎ捨てたスーツの上に白い線を落としていた。


 悠斗は布団の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。


 起きなければならない。


 会社に行かなければならない。


 顔を洗い、歯を磨き、昨日と同じネクタイを締め、満員電車に押し込まれ、何もかも平気な顔をして働かなければならない。


 そう思っているのに、体がまるで誰かのものみたいに重かった。


 天井には、小さな染みがある。入居した時からそこにあった染みだった。最初は気になって仕方なかったのに、いつの間にか見慣れてしまった。悠斗はその染みを眺めながら、ふと、自分の人生も同じだと思った。


 最初は嫌だったものも、時間が経つと慣れてしまう。


 諦めることにも、我慢することにも、自分を責めることにも、人は案外、慣れてしまう。


 スマートフォンが二度目のアラームを鳴らした。


 悠斗はようやく腕を伸ばし、画面を叩いた。通知欄には、いくつかのメッセージが並んでいた。会社のグループチャット、広告メール、ニュースアプリの見出し、そして高校時代の友人たちが使っているSNSの通知。


 何気なく開いたその画面に、悠斗は朝から心を削られた。


『第二子が生まれました! 家族四人、これからもよろしくお願いします!』


 投稿していたのは、高校の同級生だった。写真には、病室で笑う妻と、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた友人が写っている。コメント欄には「おめでとう!」「幸せそう!」「理想の家族!」といった言葉が並んでいた。


 悠斗は、画面を閉じた。


 別に、友人の幸せが憎いわけではなかった。祝うべきことだとわかっている。むしろ、心のどこかでは本当に「よかったな」と思っている。


 けれど、それと同時に、自分の胸の奥に黒いものが沈んでいくのも止められなかった。


 三十五歳。


 独身。


 恋人なし。


 貯金は、家賃を払えばほとんど残らない。


 仕事は営業職。十年以上働いてきたのに、誇れる実績はない。後輩に追い抜かれ、同期は管理職になり、悠斗だけがいつまでも同じ場所で足踏みしている。


 何者にもなれないまま、年齢だけが増えていく。


 その感覚は、毎朝少しずつ悠斗の中に積もっていた。


 洗面所に立つと、鏡の中に疲れた男がいた。目の下には薄い隈があり、髪は寝癖で跳ねている。昔はもう少し表情があった気がする。学生の頃の写真を見ると、確かに自分は笑っていた。くだらないことで笑い、根拠もなく未来を信じていた。


 小説家になりたい。


 そう口にしていた時期があった。


 今思えば、ひどく恥ずかしい夢だった。原稿用紙もろくに埋められないくせに、何かを書けば人生が変わると信じていた。大学ノートに物語の設定を書き、夜中までパソコンに向かい、いつか自分の本が書店に並ぶところを想像していた。


 けれど、現実はそんなに甘くなかった。


 就職活動が始まり、父に「夢なんかで飯が食えると思うな」と言われ、母に「安定した仕事に就いてくれた方が安心」と言われ、悠斗は少しずつ夢を口にしなくなった。


 就職してからは、毎日に追われた。


 最初は「働きながら書けばいい」と思っていた。けれど帰宅すると疲れ切っていて、パソコンを開いても一行も進まなかった。休日は眠るだけで終わった。そうしているうちに、書きたいものがわからなくなった。


 夢は、突然消えるわけではない。


 忙しさや不安や言い訳に、少しずつ薄められていく。


 気づいた時には、自分でも本当に欲しかったのかどうかわからなくなっている。


 悠斗は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。顔を上げると、鏡の中の男がこちらを見ていた。


「大丈夫」


 声に出してみた。


 けれど、その言葉は驚くほど頼りなかった。


 大丈夫じゃない。


 本当は、ずっと前から大丈夫じゃなかった。


 会社に着くと、空気はいつも通りだった。コピー機の音、キーボードを叩く音、誰かの笑い声、電話の呼び出し音。何も変わらない日常が、悠斗を待っていた。


「朝倉さん、昨日の見積もりって確認終わってます?」


 後輩の西野が、コーヒーを片手に悠斗のデスクへ来た。二十六歳。入社四年目。仕事が早く、愛想もいい。最近では、上司からの信頼も厚い。


「あ、うん。今朝送る」


「助かります。今日の午後、先方と打ち合わせなんで」


「わかった」


 悠斗はパソコンを立ち上げた。画面の青白い光が目に刺さる。メールボックスには未読が四十件以上溜まっていた。そのうちのいくつかには、赤い重要マークがついている。


 午前中は、いつものように過ぎていった。


 資料を直し、電話を受け、謝罪メールを書き、上司からの指摘に頭を下げる。自分が何をしているのか、時々わからなくなる。誰かのために働いているのか、会社のためなのか、生活のためなのか、それともただ惰性で椅子に座っているだけなのか。


 昼休み、悠斗はコンビニで買ったおにぎりを公園のベンチで食べた。


 会社の近くにある小さな公園だった。昼時になると、サラリーマンやOLがぽつぽつと集まる。悠斗は人の少ない端のベンチに座り、ツナマヨのおにぎりの包装を剥がした。


 その時、隣のベンチに座っていた若い母親が、幼い男の子に笑いかけているのが見えた。


「ゆっくり食べなさい。こぼすよ」


 男の子は頬に米粒をつけたまま、嬉しそうにおにぎりを頬張っていた。


 悠斗は、自分でも驚くほど長くその光景を見つめてしまった。


 家族。


 温かい昼休み。


 誰かに名前を呼ばれること。


 それは、悠斗がいつの間にか遠くに置いてきたものだった。


 昔、結婚を考えた相手がいた。


 高瀬美月。


 同じ会社ではなかったが、友人の紹介で知り合い、三年ほど付き合った。美月はよく笑う人だった。悠斗がくだらない冗談を言うと、少し大げさに笑ってくれた。料理が好きで、休みの日にはよく狭い悠斗の部屋で二人分の夕飯を作ってくれた。


 あの頃の悠斗は、今より少しだけ未来を信じていた。


 けれど、結婚の話が出るようになった頃から、悠斗は怖くなった。


 自分に家庭を持つ資格があるのか。


 誰かを幸せにできるのか。


 このままの自分で、夫になれるのか。


 不安をうまく言葉にできず、悠斗は仕事を理由に美月を遠ざけた。連絡を返すのが遅くなり、会う回数が減り、会っても心ここにあらずだった。


 最後の日、美月は泣かなかった。


 ただ静かに言った。


「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」


 その言葉は、今でも胸に残っている。


 優しいけど、自分を嫌いすぎる。


 あの時の悠斗は、反論できなかった。美月を失った悲しみより、自分がやっぱり駄目な人間だったと証明されたような気持ちの方が大きかった。


 悠斗はおにぎりを食べ終えると、包装を丸めて立ち上がった。


 午後の会議では、上司の村瀬に詰められた。


「朝倉、お前さ、この案件、本気で取る気ある?」


 会議室の空気が一瞬で重くなった。


 プロジェクターには悠斗が作った提案資料が映されている。見た目は整っている。だが、内容に決定打がない。それは悠斗自身もわかっていた。


「申し訳ありません。もう少し先方の課題を深掘りして——」


「もう少し、じゃ遅いんだよ」


 村瀬は資料を机に投げた。


「お前、何年目だ? 新人じゃないんだぞ。西野の方がよっぽど考えてる」


 会議室の隅で、西野が気まずそうに目を伏せた。


 悠斗は頭を下げた。


「すみません」


 それ以外の言葉が出なかった。


 悔しいと思う気持ちはあった。けれど、その悔しさはすぐに自分への嫌悪に変わった。どうしてもっとできないんだ。どうしていつも肝心なところで踏ん張れないんだ。どうして自分は、何をやっても中途半端なんだ。


 会議が終わると、村瀬に呼び止められた。


「朝倉」


「はい」


「お前、最近ずっとそんな感じだな」


「……すみません」


「謝れって言ってるんじゃない。やる気がないなら、チームにも迷惑なんだよ」


 やる気がないわけではない。


 そう言いたかった。


 でも、言えなかった。


 やる気があるのに結果が出ない方が、もっと惨めな気がしたからだ。


「少し、考えます」


 悠斗はそう答えた。


 その言葉が、自分でも何を意味しているのかわからなかった。


 午後六時を過ぎても、仕事は終わらなかった。デスクには修正が必要な資料が積み上がり、メールはさらに増えていた。周囲の社員たちは一人、また一人と帰っていく。


「朝倉さん、お先です」


 西野が声をかけてきた。


「ああ、お疲れ」


「例の資料、手伝いましょうか?」


「大丈夫。ありがとう」


 本当は、大丈夫ではなかった。


 だが、後輩に手伝われるのが情けなかった。情けないと思ってしまう自分も、さらに情けなかった。


 午後九時半。


 悠斗はようやく会社を出た。


 外は雨だった。朝の天気予報では曇りと言っていたはずなのに、細かい雨が街灯の光に照らされて降っていた。傘は持っていなかった。


 駅まで走る気力もなく、悠斗は濡れながら歩いた。


 スーツの肩に雨が染み込む。革靴の中が湿って気持ち悪い。通り過ぎる人たちは、皆それぞれの目的地へ向かっている。家に帰る人、誰かに会いに行く人、飲み会へ向かう人。


 自分だけが、どこへ向かえばいいのかわからなかった。


 駅前の交差点で、信号が赤になった。


 悠斗は立ち止まり、傘の群れをぼんやりと見た。赤、黒、透明、紺色。傘の下には、それぞれの人生がある。誰かの家族、誰かの恋人、誰かの夢、誰かの悩み。


 悠斗はふと、自分が透明な存在になったような気がした。


 いなくなっても、誰も困らない。


 明日会社に行かなかったら、最初は少し騒ぎになるかもしれない。でも、すぐに誰かが代わりをする。自分がいない穴なんて、きっとすぐに埋まる。


 その考えが浮かんだ瞬間、悠斗は怖くなった。


 死にたいわけではない。


 けれど、生きている理由もよくわからない。


 その中間のような場所に、自分はずっと立っている。


 信号が青になった。


 人々が一斉に歩き出す。


 悠斗も流されるように足を動かした。


 電車に乗り、最寄り駅に着いた頃には、雨は少し強くなっていた。家まで歩いて十五分。駅前のコンビニで傘を買うこともできたが、なぜか店に入る気になれなかった。


 濡れたまま、悠斗は歩いた。


 商店街の灯りは半分ほど消えていた。昔ながらの八百屋、シャッターの閉まったクリーニング店、居酒屋から漏れる笑い声。雨の匂いと、揚げ物の匂いと、濡れたアスファルトの匂いが混ざっていた。


 その時だった。


「兄ちゃん、顔が終わっとるな」


 突然、声がした。


 悠斗は足を止めた。


 商店街の端、古いバス停のベンチに、一人の老人が座っていた。


 ボロボロのスーツを着ている。ネクタイは曲がり、靴は片方だけ泥だらけ。髪は白く、無造作に跳ねている。年齢は七十代くらいだろうか。だが目だけは妙に鋭く、雨の夜の中でぎらりと光っていた。


 老人は、ビニール傘を差していた。


 ただし、その傘には大きな穴が空いていて、ほとんど役に立っていなかった。


 悠斗は周囲を見た。


 自分に話しかけたのだろうか。


「えっと……僕ですか?」


「他に顔が終わっとる兄ちゃんおるか?」


 老人は平然と言った。


 失礼な人だと思った。


 けれど、腹は立たなかった。自分でも顔が終わっている自覚があったからだ。


「すみません。急いでるので」


「嘘つけ。急いでる人間の歩き方やない」


 悠斗は返す言葉を失った。


 老人はベンチの隣をぽんぽんと叩いた。


「座り」


「いや、本当に——」


「ええから座り。雨に濡れた負け犬は、まず座るところからや」


「負け犬って……」


 さすがに少し腹が立った。


 しかし老人は悪びれる様子もなく、悠斗を見上げていた。その表情には、からかいと、どこか不思議な優しさが混ざっているように見えた。


 悠斗はなぜか、その場を離れられなかった。


 疲れていたからかもしれない。


 誰でもいいから、自分を見つけてほしかったのかもしれない。


 悠斗はため息をつき、老人から少し距離を空けてベンチに座った。


 雨はバス停の屋根を叩き、一定のリズムを刻んでいる。


「兄ちゃん、名前は?」


「……朝倉です」


「下の名前」


「悠斗です」


「悠斗か。ええ名前やな。悠々と斗う、か」


「そんな意味でつけられたわけじゃないと思いますけど」


「名前の意味なんてもんは、あとから自分で決めたらええ」


 老人はそう言って笑った。


 悠斗は少しだけ眉をひそめた。


「あなたは?」


「わしか?」


「はい」


「福神弥助」


「ふくがみ……?」


「福の神の福神や。縁起ええやろ」


 老人は胸を張った。


 どう見ても縁起のいい姿ではなかった。


 穴の空いた傘、濡れたスーツ、泥だらけの靴。むしろ不運そのものが人の形をして座っているように見える。


「本名ですか?」


「さあな」


「さあなって」


「名前なんてもんは、呼ばれたら返事すればええんや」


 意味がわからない。


 悠斗は立ち上がろうとした。


「すみません、やっぱり帰ります」


「会社、辞めたいんやろ」


 その一言で、悠斗の体が止まった。


 雨音が一瞬、遠くなったような気がした。


 老人は正面を向いたまま、続けた。


「仕事も嫌。自分も嫌。周りはどんどん先に行く。結婚、出世、子供、家、夢。みんな何かを手に入れてるように見える。せやのに自分だけ、空っぽの袋ぶら下げて歩いてる気がする」


 悠斗は何も言えなかった。


「ほんで思っとる。どこで間違えたんやろ、って」


 胸の奥を、指で押されたような感覚があった。


「……誰なんですか」


「福神弥助や言うたやろ」


「どうして、そんなこと」


「顔に書いてある」


「書いてません」


「書いとる。でかでかと。『人生失敗しました』って」


 悠斗は思わず拳を握った。


「あなたに何がわかるんですか」


「わからんよ」


 老人はあっさり言った。


「わからんのかい」


「人の苦しみなんて、本人にしかわからん。せやけど、苦しんどる顔はわかる」


 老人の声は、急に静かになった。


「兄ちゃん、今、自分の人生を採点しとるやろ」


「採点?」


「三十五歳でこれができてない。結婚してない。出世してない。夢を叶えてない。貯金もない。親孝行もできてない。友達にも会ってない。昔の恋人にも顔向けできない。はい、赤点。人生落第」


 悠斗は唇を噛んだ。


 まさに、その通りだった。


「でもな、人生はテストとちゃう」


 老人は言った。


「答え合わせが早すぎんねん」


 悠斗は老人を見た。


 老人は穴の空いた傘を閉じ、ベンチの横に置いた。どうせ濡れるなら同じだと思ったのかもしれない。


「遠回りした人間ほど、最後にええ景色見れるんやで」


 その言葉は、雨の中で不思議なくらいはっきり聞こえた。


 悠斗は笑いそうになった。


 綺麗事だと思った。


 ドラマや本の中なら感動的かもしれない。けれど現実では、遠回りした人間は疲れるだけだ。近道を知っている人間が先に行き、要領のいい人間が得をする。遠回りした分だけ、遅れる。失う。置いていかれる。


「そんなの、慰めですよ」


「慰めやと思うか?」


「はい」


「ほな聞くけど、兄ちゃんは近道してきたんか?」


「……」


「ずっと遠回りしてきたんやろ。せやのに、まだ最後の景色を見てへん。途中で自分の道を失敗やと決めつけとるだけや」


 悠斗は言い返せなかった。


 老人は続けた。


「兄ちゃん、小説家になりたかったやろ」


 今度こそ、悠斗は息を呑んだ。


「どうして……」


「だから顔に書いてある」


「そんなわけないでしょう」


「書いとる書いとる。『昔は夢がありました。でも今は恥ずかしくて言えません』って顔や」


 悠斗は視線を落とした。


 雨に濡れた革靴が、街灯の光を鈍く反射している。


「もう、昔の話です」


「昔の話にしたいだけやろ」


「違います」


「ほな今でも書けるか?」


 悠斗は黙った。


 書けるわけがない。


 もう十年以上、まともに書いていない。頭の中に物語は浮かばない。文章も出てこない。昔のように熱くなれる気もしない。


「無理です」


「なんで?」


「才能がないからです」


「出た」


 老人は大げさに顔をしかめた。


「才能。便利な言葉やなあ。やらん理由にも、諦めた言い訳にも、自分を守る盾にもなる」


「本当にないんです」


「ほな、才能がないって証明できるほど書いたんか?」


 悠斗は答えられなかった。


 老人はにやりと笑った。


「書いてへんやろ」


「……仕事が忙しかったんです」


「忙しい人間は夢を持ったらあかんのか?」


「そういうことじゃなくて」


「傷つくのが怖かったんやろ」


 その言葉は、ひどく痛かった。


 悠斗は思わず顔を上げた。


 老人はもう笑っていなかった。


「本気でやって失敗するのが怖い。夢を笑われるのが怖い。まだ何もしてへん状態なら、『本当はできたかもしれない』って思っていられる。せやから、忙しさのせいにして夢を押し入れにしまった」


 悠斗の胸に、古い記憶が蘇った。


 深夜の机。


 ノートに書いた物語の断片。


 父の声。


「夢なんかで飯が食えると思うな」


 母の心配そうな顔。


「安定した仕事に就いてくれた方が安心」


 美月の声。


「悠斗は、自分の好きなものを話してる時が一番楽しそうだよ」


 あの頃の自分は、まだ何かを信じていた。


 いつから、自分の夢を恥ずかしいものだと思うようになったのだろう。


 悠斗は小さく息を吐いた。


「今さら、どうしろって言うんですか」


「今さら、でええやん」


「え?」


「人間、だいたい全部今さらや。謝るのも今さら。夢を見るのも今さら。親に本音言うのも今さら。好きやった人に感謝するのも今さら。せやけどな、今さらやから意味がないって誰が決めたんや」


 悠斗は、何も言えなかった。


 雨は少し弱くなっていた。


 商店街の灯りが、濡れた道にぼんやりと映っている。


「兄ちゃんに宿題出したるわ」


 老人が急に言った。


「宿題?」


「そうや。人生をやり直すための宿題や」


「いや、結構です」


「第一の宿題」


「聞いてません」


「今日、家に帰ったら紙に書け」


「何をですか」


「自分の負けたこと」


 悠斗は眉をひそめた。


「負けたこと?」


「せや。仕事で負けたこと。恋愛で負けたこと。夢から逃げたこと。人と比べて悔しかったこと。情けなかったこと。恥ずかしかったこと。全部書け」


「そんなことして何になるんですか」


「まず、自分がどこで倒れたのか知らな、起き上がられへんやろ」


 老人は、まっすぐ悠斗を見た。


「人間はな、負けをなかったことにすると、ずっと同じ場所で転び続けるんや」


 悠斗は胸の奥がざわつくのを感じた。


 負けたこと。


 そんなもの、数えきれないほどある。


 就活で第一志望に落ちたこと。


 同期に先を越されたこと。


 美月と別れたこと。


 父に夢を否定され、言い返せなかったこと。


 小説を書かなくなったこと。


 自分で自分の人生を諦めたこと。


「書いたら、どうなるんですか」


「知らん」


「知らないんですか」


「書いた人間にしかわからん」


 老人はまた笑った。


「でもな、兄ちゃん。負けたことを書ける人間は、まだ終わってへん」


「どうしてですか」


「終わった人間は、自分が負けたことにも気づかへん。何も感じへん。悔しいと思えるうちは、まだ心が生きとる証拠や」


 悠斗は、その言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。


 悔しいと思えるうちは、まだ心が生きている。


 そう考えたことはなかった。


 悔しさは、弱さの証拠だと思っていた。


 嫉妬は、醜さの証拠だと思っていた。


 後悔は、失敗の証拠だと思っていた。


 けれど、それがまだ心が生きている証拠だとしたら。


 自分はまだ、完全には終わっていないのだろうか。


「明日もここに来い」


 老人が言った。


「え?」


「宿題書いたら、明日見せに来い」


「なんでですか」


「暇やから」


「暇って」


「あと、兄ちゃんの顔がもうちょいマシになるか見たい」


 失礼な言い方だった。


 けれど、悠斗は少しだけ笑ってしまった。


 本当に少しだけ。


 笑った自分に、自分で驚いた。


「笑えるやん」


 老人が言った。


「別に」


「今の顔、さっきよりだいぶマシや」


 悠斗は立ち上がった。


「……帰ります」


「おう。転ぶなよ」


「子供じゃないんで」


「心が転びっぱなしの大人は、子供より危ないんや」


 悠斗は返事をしなかった。


 商店街を歩き出す。


 雨はまだ降っている。スーツは濡れて重い。靴の中も冷たい。明日になれば、また会社に行かなければならない。何かが劇的に変わったわけではない。


 けれど、悠斗の胸の中には、さっきまでとは違う小さな違和感があった。


 それは希望と呼ぶには、あまりにも弱々しいものだった。


 でも、完全な絶望とも違った。


 家に着くと、部屋は朝と同じように散らかっていた。


 脱ぎ捨てた服、溜まった洗濯物、シンクの中のマグカップ、読みかけのビジネス書。何も変わっていない部屋の中で、悠斗は濡れたスーツを脱ぎ、タオルで髪を拭いた。


 風呂に入る気力もなく、床に座り込む。


 しばらくして、悠斗は引き出しを開けた。


 奥から、古いノートが出てきた。


 大学時代に使っていたノートだった。表紙の端が折れ、紙は少し黄ばんでいる。開くと、そこには昔の自分が書いた物語の設定が残っていた。


『主人公は、何度失敗しても旅を続ける男。最後に、自分が探していた宝物は、旅の途中で出会った人たちとの時間だったと気づく』


 悠斗は、その一文を見て、胸が詰まった。


 昔の自分は、こんなことを書いていたのか。


 青臭い。


 拙い。


 けれど、どこか今の自分に向けて書かれているような気がした。


 悠斗はノートの空白ページを開いた。


 ペンを握る。


 最初の一文字を書くまでに、ずいぶん時間がかかった。


 負けたこと。


 何を書けばいいかわからない。


 いや、本当はわかっていた。


 書きたくなかっただけだ。


 悠斗は深く息を吸い、ゆっくりと文字を書いた。


『一、夢から逃げた』


 書いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 でも、手は止まらなかった。


『二、美月を傷つけた』


『三、父に本音を言えなかった』


『四、会社で後輩に嫉妬した』


『五、友人の幸せを素直に祝えなかった』


『六、自分の人生を失敗だと決めつけた』


 文字にすると、どれも情けなかった。


 情けなくて、苦しくて、ページを破り捨てたくなった。


 けれど、不思議なことに、書けば書くほど、胸の中に溜まっていた重いものが少しずつ形を持っていく気がした。


 正体のわからない不安は、名前をつけると少しだけ扱いやすくなる。


 悠斗はペンを置き、ノートを見つめた。


 負けたことが、そこに並んでいる。


 それは、自分の人生の汚点のようにも見えた。


 けれど同時に、地図のようにも見えた。


 自分がどこで立ち止まり、どこで逃げ、どこで傷ついたのか。


 それを初めて、ちゃんと見た気がした。


 スマートフォンが震えた。


 会社のグループチャットだった。


『明日の朝イチで資料確認します。各自準備お願いします』


 村瀬からのメッセージ。


 悠斗は画面を見つめた。


 いつもなら、胃の奥が冷たくなる。明日のことを考えて憂鬱になり、眠れなくなる。


 今日も憂鬱であることに変わりはない。


 けれど、悠斗はふと、返信欄を開いた。


『承知しました。朝までに修正して共有します』


 送信。


 それだけのことだった。


 でも、ほんの少しだけ、自分が自分の人生に戻ってきたような気がした。


 深夜一時。


 悠斗はノートを閉じた。


 窓の外では、雨がまだ降っている。街灯の光が窓ガラスに滲んでいた。部屋は寒く、明日もきっと簡単には変わらない。


 それでも、悠斗は布団に入りながら、老人の言葉を思い出していた。


 遠回りした人間ほど、最後にええ景色見れるんやで。


 信じたわけではない。


 信じられるほど、悠斗は素直ではなかった。


 けれど、完全に否定することもできなかった。


 もし本当に、遠回りした道の先にしか見えない景色があるのなら。


 もし自分の失敗や後悔や情けなさにも、いつか意味が生まれるのなら。


 その景色を、一度くらい見てみたい。


 そう思った。


 翌朝、悠斗はいつもより少し早く目を覚ました。


 天井の染みは、相変わらずそこにあった。


 部屋も散らかっている。


 仕事も不安だ。


 人生が一晩で変わるはずもない。


 それでも悠斗は、枕元のノートを見た。


 負けたことが書かれたページ。


 それは、昨夜までの自分なら絶対に開きたくないものだった。


 けれど今朝は、少し違った。


 悠斗はノートを鞄に入れた。


 駅へ向かう道で、雨上がりの匂いがした。


 空はまだ曇っていたが、雲の隙間から薄い光が差している。


 会社に行く前、悠斗は昨日のバス停の前を通った。


 ベンチには誰もいなかった。


 あの老人が本当にいたのか、一瞬わからなくなるほど、そこは普通のバス停だった。


 けれど、ベンチの上に小さな紙切れが置いてあった。


 悠斗は近づいて、それを拾った。


 紙には、太い字でこう書かれていた。


『第二の宿題。今日、誰かに「ありがとう」を一回多く言え。』


 悠斗は紙切れを見つめた。


 そして、思わず笑った。


「なんなんだよ、あの人」


 けれどその笑いは、昨日までの乾いた笑いとは違っていた。


 少し呆れて、少し悔しくて、少しだけ温かい。


 遠回りの一日目が、始まろうとしていた。

第1話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「負けた自分をなかったことにしない」でした。


人生がうまくいかない時、人はつい、自分の失敗や後悔から目を背けたくなります。


でも、どこで傷ついたのか、どこで立ち止まったのかを知ることは、もう一度歩き出すための最初の一歩なのかもしれません。


次回は、悠斗が福神弥助から出された第二の宿題「ありがとうを一回多く言え」に向き合っていきます。


小さな感謝が、止まっていた人生を少しずつ動かし始めます。

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