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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第29話 ありがとうを伝えろ

第28話では、悠斗がこれまで歩いてきた場所をめぐりました。


夢を諦めた駅。

雨のバス停。

名前を呼び合えるコンビニ。

泣いても戻れた場所。

父がコーヒーを淹れた台所。


遠回りした道には、痛みだけではなく、たくさんの灯りが残っていました。


今回の第29話では、悠斗がその灯りをくれた人たちへ「ありがとう」を伝えていきます。

朝倉悠斗は、朝の机でノートを開いた。


 透明なコップに挿した白い花は、昨日より少しだけ開いていた。


 カーテンの隙間から入る朝の光が、花びらの端をやわらかく照らしている。


 机の上には、いつものものが並んでいた。


 古本屋で買った文庫本。

 福神弥助からもらった歩の駒。

 宿題ノート。

 小説ノート。

 黒いペン。

 そして白い花。


 以前の悠斗の部屋は、ただ帰って寝るだけの場所だった。


 散らかった服。

 読みかけのまま放置された本。

 冷めたコンビニ弁当の容器。

 疲れた身体を投げ出すだけの布団。


 そこには、自分の人生を大切に扱う気配がなかった。


 けれど今は、少し違う。


 完璧に整っているわけではない。


 まだ床の端には雑誌が積まれているし、クローゼットの中も決して綺麗とは言えない。


 それでも、机の上だけは息をしている。


 花の水を替えること。

 毎朝、一文を書くこと。

 歩の駒を少し前へ押すこと。


 それらは、悠斗が自分の人生に戻ってきた証のようだった。


 ノートのページには、弥助からの宿題が書かれている。


『第二十九の宿題。ありがとうを伝えろ。』


 ありがとう。


 簡単な言葉だ。


 けれど、悠斗は長い間、その言葉をちゃんと使えていなかった気がする。


 すみません、はよく言っていた。


 申し訳ありません、もたくさん言った。


 大丈夫です、も嘘のように繰り返した。


 でも、ありがとうは少なかった。


 受け取るのが下手だったからだ。


 誰かの優しさをもらうたびに、申し訳なさが先に立った。


 助けてもらうと、自分が弱い人間になった気がした。


 褒められると、そんな価値はないと心の中で打ち消した。


 だから、ありがとうと言う前に、すみませんと言ってしまう。


 ありがとうは、受け取った人間の言葉だ。


 それに気づいたのは、ずいぶん遠回りをした後だった。


 悠斗はノートに書いた。


『ありがとうは、受け取る覚悟の言葉だ。

 僕は、たくさん受け取ってきた。

 だから、ちゃんと返しに行く。』


 まず誰に伝えるか。


 悠斗は少し考え、スマートフォンを手に取った。


 最初は、父だった。


 メッセージではなく、電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、父が出た。


「もしもし」


「父さん?」


「ああ。どうした」


「朝からごめん。少しだけ話したくて」


「何だ」


 父の声は、いつものように短い。


 でも、もうその短さを冷たさとは思わなかった。


「この前のコーヒー、ありがとう」


 電話の向こうで、少し沈黙があった。


「急に何だ」


「いや、ちゃんと言ってなかった気がして」


「まずかっただろう」


「まずくなかったよ」


「嘘をつけ」


 悠斗は笑った。


「少し苦かった。でも、おいしかった」


 父は何も言わなかった。


 悠斗は続けた。


「父さんが、コーヒーを淹れてくれたことが嬉しかった。昔の夢を、形を変えて始めようとしてるところを見られて、俺も勇気をもらった」


 電話の向こうで、父が小さく息を吐いた。


「大げさだ」


「大げさでもいいよ」


「……そうか」


「あと、小説を読んでくれてありがとう。途中でやめる文章じゃないって言ってくれたこと、忘れないと思う」


 父は黙っていた。


 でも、電話を切らなかった。


「父さん」


「何だ」


「俺、最後まで書くよ」


「そうしろ」


 短い返事。


 それで十分だった。


 電話を切る前、父がぽつりと言った。


「今度、もう少しましなコーヒーを淹れる」


 悠斗は笑った。


「楽しみにしてる」


 電話を切ったあと、胸の奥がじんわり温かかった。


 ありがとうを言うことは、過去を綺麗にすることではない。


 傷ついたことが消えるわけではない。


 でも、今受け取ったものを、今の言葉で返すことはできる。


 次に、悠斗は美月へメッセージを送った。


 何度か書き直した。


 重くなりすぎないように。


 でも軽くなりすぎないように。


『美月へ。

 今さらかもしれないけど、ありがとうを伝えたくなりました。

 昔、僕が小説の話をしていた時の顔を覚えていてくれたこと。

 自分を嫌いすぎていると教えてくれたこと。

 そして、また書き始めた僕の文章を読んでくれたこと。

 本当にありがとう。

 美月がくれた言葉は、今も僕の中で生きています。』


 送信。


 少し胸が震えた。


 美月との関係は、元に戻るわけではない。


 戻したいという気持ちがまったくないと言えば嘘になるのかもしれない。


 でも今の悠斗は、昔の恋を取り戻したいのではなく、受け取ったものに感謝したかった。


 そのまま仕事へ向かう。


 いつものコンビニに寄る。


 山口さんがレジにいた。


「おはようございます、朝倉さん」


「おはようございます、山口さん」


 悠斗はお茶とパンを買った。


 レシートを受け取る時、いつものように言われる前に、悠斗は言った。


「山口さん」


「はい」


「いつも、いってらっしゃいって言ってくれてありがとうございます」


 山口さんは少し驚いた顔をした。


「え?」


「たぶん、山口さんには普通の挨拶かもしれないんですけど、俺にはけっこう大きかったです」


 山口さんは黙って聞いていた。


「朝、名前を呼んでもらえること。いってらっしゃいって言ってもらえること。それだけで、自分がちゃんと今日に出ていく人間なんだって思えた日がありました」


 言いながら、少し照れくさくなった。


 でも、言えてよかった。


 山口さんの目が少し潤んだ。


「こちらこそ、ありがとうございます」


「え?」


「朝倉さんが名前を呼んでくれるようになって、私も自分がただレジにいる人じゃなくて、ちゃんとここにいる人間なんだって思えた日がありました」


 悠斗は胸が熱くなった。


 名前を呼ぶことは、一方通行ではなかった。


 自分が救われていたように、山口さんにも届いていたのだ。


「いってらっしゃい、朝倉さん」


 山口さんが、いつものように言った。


 けれど今日のその言葉は、いつもより少し温かかった。


「いってきます」


 悠斗は深く頷いて、店を出た。


 会社に着くと、佐原がすでに席にいた。


 机には、五分復習のメモがある。


 昨日よりも少し背筋が自然に見える。


「おはよう、佐原」


「おはようございます、朝倉さん」


 佐原は笑った。


 最初の頃の硬い笑顔ではない。


 まだ少し不安はある。


 でも、自分を全部責めるような顔ではなくなっていた。


 悠斗は席に座る前に言った。


「佐原」


「はい」


「いつも、一緒に考えてくれてありがとう」


 佐原は驚いた。


「え、僕がですか?」


「うん」


「僕、教わってばかりですけど」


「でも、佐原と一緒に仕事を整理していると、俺も自分が昔つまずいた場所を見直せる」


「……」


「佐原が少しずつ変わっていくのを見ると、俺も遠回りしたことを全部失敗にしなくていいんだって思える。だから、ありがとう」


 佐原は目を伏せた。


 少しだけ涙をこらえるような顔をした。


「朝倉さん」


「うん」


「僕も、朝倉さんが教育担当でよかったです」


 悠斗は少し笑った。


「まだまだ頼りないけどな」


「頼りないって言えるところが、頼れるんです」


 その言葉に、悠斗は胸を打たれた。


 頼りないと言えるところが、頼れる。


 完璧ではなくてもいい。


 未完成のまま、誰かと道を作っていける。


 佐原との関係は、そのことを何度も教えてくれた。


 昼過ぎ、村瀬に呼ばれた。


「朝倉、佐原の教育、悪くない」


 村瀬は資料を見ながら言った。


「ありがとうございます」


「お前は、自分が遠回りした分、つまずく場所に気づける。それを使え」


 悠斗は静かに頷いた。


「村瀬さん」


「何だ」


「村瀬さんにも、ありがとうを言いたかったです」


 村瀬の手が止まった。


「何の話だ」


「西野を帰らせた時も、佐原のことも、仕事の資料のことも。厳しいけど、ちゃんと見てくれていたんだと最近わかりました」


 村瀬は少し居心地悪そうに眉を寄せた。


「急に言うな」


「すみません」


「謝るな」


 悠斗は少し笑った。


「ありがとうございます」


 村瀬は資料に目を戻した。


 しばらくして、小さく言った。


「お前が逃げなくなったから、言えることが増えただけだ」


 それは、村瀬なりのありがとうへの返事だった。


 午後、美月から返信が来た。


『ありがとう。

 私も、悠斗が言葉にしてくれたことで、あの頃のことを少し優しく思い出せるようになりました。

 小説、続けてね。

 悠斗がちゃんと自分の人生に戻っていく姿を見られて、私も嬉しいです。』


 悠斗はその文章を何度も読んだ。


 自分の人生に戻っていく姿。


 美月は、そう見てくれていた。


 悠斗は返信した。


『ありがとう。美月も幸せでいてください。』


 送ったあと、少し泣きそうになった。


 でも、それは悲しい涙ではなかった。


 感謝が胸に溜まりすぎて、少し溢れそうになっただけだった。


 仕事が終わったあと、悠斗は西野にメッセージを送った。


『新しい部署、どう?』


 少しして返事が来た。


『毎日迷ってます。でも、ひとりで正解になろうとしなくていいって言葉、机に貼ってます』


 悠斗は笑った。


『あれ、まだ貼ってるんだ』


『はい。朝倉さんの言葉、重いけど持ち歩ける重さなので』


 以前、西野が言った言葉を思い出す。


 持っていきたい重さ。


 悠斗は返信した。


『西野がいてくれたから、俺は誰かに頼る練習ができた。ありがとう。新しい場所でも、迷いながら道を作ってください』


 西野から返事が来た。


『ありがとうございます。朝倉さんも、書き続けてください。いつか読みたいです』


 悠斗は胸が温かくなった。


『いつか読んでもらう』


 そう返した。


 夜、恒一から電話が来た。


「どうした?」


 悠斗が出ると、恒一が言った。


「陽菜がさ、またお前の絵本読んでって言ってる」


「俺の絵本じゃないけどな」


「おはなしのおじちゃん認定だから」


 電話の向こうで、陽菜の声がした。


「おじちゃーん、またおはなし!」


 悠斗は笑った。


「また読むよ」


 恒一が電話に戻る。


「で、どうした? 声がいつもより軽いぞ」


「今日、ありがとうを伝える日だった」


「何それ」


「弥助さんの宿題」


「ああ、変なおっさんか」


 恒一は笑った。


「じゃあ、俺にもある?」


「ある」


 悠斗は少し照れた。


「恒一、ありがとう」


「お、おう」


「お前に負けた話をできたから、俺は少し変われた。陽菜ちゃんにお話を聞いてもらえたことも、本当に嬉しかった。昔から、何だかんだ俺を見捨てずに友達でいてくれてありがとう」


 電話の向こうで、恒一が黙った。


 少しして、鼻をすする音がした。


「お前、急にそういうのやめろよ」


「泣いてる?」


「泣いてない」


「絶対泣いてる」


「うるさい」


 悠斗は笑った。


 恒一も笑った。


「俺も、ありがとうな」


 恒一が言った。


「お前が変わっていくの見てると、俺も父親として途中でいいんだなって思える。あと、小説、楽しみにしてる」


「うん」


「最後まで書けよ」


「書く」


 電話を切ると、夜の部屋が少し静かになった。


 でも、その静けさは寂しくなかった。


 たくさんの「ありがとう」が、部屋の中に残っていた。


 最後に、悠斗はいつものバス停へ向かった。


 福神弥助は、ベンチに座っていた。


 今日は珍しく、本当に何も食べていなかった。


「今日は食べ物なしですか」


「ありがとうの日は、腹いっぱいや」


「うまいこと言いますね」


 悠斗は隣に座った。


「伝えたか?」


「はい。父さん、美月、山口さん、佐原、村瀬さん、西野、恒一」


「ようけ伝えたな」


「まだ母さんと陽菜ちゃんには直接じゃないですけど、伝えます」


「ええ」


 弥助は夜の商店街を見つめていた。


「で、わしには?」


 悠斗は少し笑った。


「言おうと思ってました」


「ほう」


 悠斗は、弥助の横顔を見た。


 初めて会った時、ただ怪しいおっさんだと思った。


 雨のバス停で、たい焼きを食べながら人生に割り込んできた男。


 次々に無茶な宿題を出し、悠斗を逃げていた場所へ連れていった。


 負けた話。


 夢を諦めた駅。


 コンビニ店員の名前。


 父。


 美月。


 西野。


 佐原。


 小さな習慣。


 幸せ。


 遠回りした景色。


 すべて、弥助がいなければ向き合えなかったかもしれない。


「弥助さん」


「うん」


「ありがとうございました」


 言った瞬間、胸が熱くなった。


「俺、弥助さんに会わなかったら、たぶんまだずっと人生に置いていかれた顔をしてました」


 弥助は黙って聞いていた。


「変な宿題ばっかりだったけど、そのおかげで、父さんと話せた。美月に謝れた。恒一に負けた話ができた。山口さんの名前を呼べた。西野を送り出せた。佐原の涙の横に立てた。小説も、また書けた」


 悠斗は言葉を続けた。


「俺、まだ何者にもなれてないです。でも、前よりちゃんと自分の人生にいる気がします」


 弥助は、少しだけ目を細めた。


「ええ顔になったな」


「そうですか?」


「あの日の兄ちゃんとは、だいぶ違う」


「あの日?」


「雨のバス停で、人生全部に負けたような顔をしとった日や」


 悠斗は笑った。


「ひどい顔でしたね」


「ひどかった」


 二人は笑った。


 しばらく沈黙が流れた。


 夜風が商店街の旗を揺らす。


 弥助はポケットから紙切れを取り出した。


「最後の宿題や」


 悠斗の胸が鳴った。


 紙には、こう書かれていた。


『最終話。遠回りしたぶん、幸せになれる。』


 悠斗は紙を見つめた。


 ついに、そこまで来た。


 この物語のタイトル。


 この道の答え。


「弥助さん」


「うん」


「遠回りしたぶん、本当に幸せになれますか」


 弥助はすぐには答えなかった。


 商店街の灯りを見つめ、ゆっくり言った。


「幸せになれるかどうかは、遠回りしただけでは決まらん」


 悠斗は黙って聞いた。


「遠回りして、何も見んかったら、ただ迷っただけや。けど、遠回りした道で拾ったもんを大事にできるなら、人は幸せに近づける」


「拾ったもの……」


「負けた話。ありがとう。名前。涙。夢。優しさ。習慣。そういうもんや」


 弥助は悠斗を見た。


「兄ちゃんは、拾ったやろ」


 悠斗は、静かに頷いた。


「はい」


「ほな、次は書け」


「小説を?」


「せや。兄ちゃんの遠回りを、誰かの灯りに変えろ」


 弥助は立ち上がった。


「最終話は、兄ちゃんが自分で書く番や」


 その言葉を残して、弥助は商店街の奥へ歩いていった。


 悠斗はその背中を見送った。


 何度も見送ってきた背中。


 でも今日は、なぜか少し遠く見えた。


 家に帰ると、悠斗は机に向かった。


 花の水を替える。


 歩の駒を一つ前へ押す。


 ノートを開く。


『ありがとうを伝えた。

 父さん。

 美月。

 山口さん。

 佐原。

 村瀬さん。

 西野。

 恒一。

 弥助さん。

 僕は一人ではなかった。

 ずっと一人だと思っていたけれど、遠回りした道には、たくさんの人がいた。』


 続けて書く。


『ありがとうは、受け取ったものを認める言葉だ。

 僕は、たくさん受け取っていた。

 傷だけではなかった。

 後悔だけではなかった。

 遠回りした道には、ちゃんと灯りがあった。』


 悠斗は小説ノートを開いた。


 最終話のページ。


 まだ何も書かれていない。


 白いページが広がっている。


 怖くはなかった。


 少し緊張はある。


 でも、逃げたいとは思わなかった。


 悠斗はペンを握る。


 そして、最初の一文を書いた。


『男は、ようやく気づいた。遠回りした道は、ひとりで迷った道ではなく、たくさんの人に出会うための道だった。』


 書き終えると、悠斗は深く息を吐いた。


 次が、最終話。


 遠回りしたぶん、幸せになれる。


 その言葉の意味を、自分の言葉で書く時が来ていた。

第29話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「ありがとうを伝えろ」でした。


ありがとうは、受け取ったものを認める言葉。


悠斗は、父、美月、山口さん、佐原、村瀬、西野、恒一、そして弥助へ感謝を伝えました。


遠回りした道は、ひとりで迷った道ではありませんでした。

そこには、たくさんの人の言葉と灯りがありました。


次回はいよいよ最終話「遠回りしたぶん、幸せになれる」へ続きます。

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