第28話 遠回りした景色
第27話では、悠斗が「幸せは勝ち負けじゃない」と気づき始めました。
幸せは、誰かに勝った証ではない。
誰かより早く進んだ景品でもない。
今回の第28話では、悠斗がこれまで歩いてきた場所をもう一度めぐります。
負けた場所。
逃げた場所。
泣けなかった場所。
そして、少しずつ自分を取り戻した場所。
遠回りしたからこそ見えた景色を、悠斗は静かに見つめ直します。
朝倉悠斗は、朝の机で白い花の水を替えた。
透明なコップの中で、花は静かに揺れた。
その姿を見るたびに、悠斗は思う。
花は、昨日とまったく同じではない。
少し開き、少し傾き、少し弱り、それでも今日の形で咲いている。
人も同じなのかもしれない。
昨日と同じ自分ではない。
けれど、劇的に別人になるわけでもない。
少しだけ言葉を覚え、少しだけ誰かに頼り、少しだけ自分を許し、少しだけ笑えるようになる。
そうやって、日々の中で形を変えていく。
悠斗はノートを開いた。
福神弥助からの宿題。
『第二十八の宿題。遠回りした景色を見ろ。』
遠回りした景色。
その言葉を見た時、悠斗はすぐにいくつかの場所を思い浮かべた。
夢を諦めた駅。
雨の日のバス停。
父と向き合った実家。
美月へ言葉を送った公園。
山口さんのいるコンビニ。
佐原が泣いたビル裏。
西野を送り出した居酒屋の前。
恒一の家の近くの公園。
自分が変わったのは、頭の中だけではなかった。
場所があった。
道があった。
ベンチがあった。
改札があった。
誰かの声があった。
悠斗は、今日一日を使ってそれらの場所をめぐってみようと思った。
まず向かったのは、夢を諦めた駅だった。
第4話で戻った場所。
昔、小説家になりたいという夢を胸の奥にしまい込み、「もう現実を見なければ」と自分に言い聞かせた場所。
改札を出ると、駅前の景色はそれほど変わっていなかった。
古い本屋は閉店し、代わりに小さなドラッグストアができていた。
けれど、駅前の時計台と、雨に濡れると少し滑りやすくなるタイルの道は、昔のままだった。
悠斗は、かつて自分が立ち尽くした場所に立った。
あの日の自分は、夢を諦めることを“大人になること”だと思っていた。
書けなかった。
怖かった。
父に否定された痛みもあった。
生活の不安もあった。
周りが就職していく中で、自分だけ夢を追う勇気もなかった。
だから、夢を置いていった。
でも、今の悠斗は思う。
あの日の自分は、夢を捨てたのではなく、持っていく力がなかっただけだったのかもしれない。
弱かった。
でも、悪かったわけではない。
悠斗はノートを開き、駅前のベンチで書いた。
『ここで、僕は夢を置いていった。
でも、夢は消えていなかった。
十年以上、胸の奥で息をしていた。
今の僕は、その夢を拾い直している。
遠回りしたぶん、昔の僕を責めずに迎えに来られた。』
書き終えると、胸の奥が少し温かくなった。
次に向かったのは、雨の日のバス停だった。
福神弥助と初めて会った場所。
あの日、悠斗は人生に置いていかれたような顔で、濡れたベンチに座っていた。
仕事もうまくいかず、友人の幸せも祝えず、自分の人生をどこから立て直せばいいのかわからなかった。
そこへ、変なおっさんが現れた。
福神弥助。
自称、福の神。
たい焼きを腹から食べ、肉まんを半分こし、煎餅を噛みしめながら人生を語る、妙な存在。
最初は怪しいだけだった。
けれど、その怪しさの奥に、不思議な温かさがあった。
バス停に着くと、今日は晴れていた。
ベンチは乾いている。
道の向こうでは、子供が自転車に乗る練習をしていた。
悠斗はベンチに座った。
弥助はいない。
それでも、そこに座ると、いくつもの言葉が聞こえてくる気がした。
「負けた話をしろ」
「夢を諦めた駅へ戻れ」
「普通って誰が決めたんや」
「人生は取り返さなくていい」
「もう遅いは嘘や」
宿題はいつも無茶だった。
けれど、その無茶な宿題が、悠斗を少しずつ動かしてくれた。
悠斗はノートに書いた。
『このバス停で、僕は人生を変える大きな奇跡をもらったわけじゃない。
もらったのは、宿題だった。
小さな行動だった。
逃げていた場所へ戻る勇気だった。
ここは、僕がもう一度歩き始めた場所だ。』
昼前、悠斗はいつものコンビニへ向かった。
山口さんはレジにいた。
「こんにちは、朝倉さん」
「こんにちは、山口さん」
「今日はお休みですか?」
「はい。少し、今まで歩いた場所をめぐっていて」
「いいですね」
「ここにも来たかったんです」
山口さんは少し驚いた顔をした。
「ここに?」
「はい。俺にとって、ここは大事な場所なので」
最初に弥助から出された小さな宿題の一つ。
コンビニ店員の名前を覚えろ。
あの時は意味がわからなかった。
けれど、山口さんの名前を覚えたことで、世界に少し色が戻った。
ただの店員ではなく、山口さん。
ただの客ではなく、朝倉さん。
名前を呼び合うだけで、世界は少しだけ冷たくなくなる。
「山口さん」
「はい」
「いつも、いってらっしゃいって言ってくれてありがとうございます」
山口さんは、少し照れたように笑った。
「こちらこそ、いつも名前を呼んでくれてありがとうございます」
「名前って、不思議ですね」
「はい」
「呼ぶだけで、そこに人がいるって思えます」
山口さんは静かに頷いた。
「朝倉さん、変わりましたね」
「よく言われます」
「でも、いい変わり方だと思います」
悠斗は少し笑った。
「ありがとうございます」
店を出る時、山口さんはいつものように言った。
「いってらっしゃい」
悠斗は、今日は少しだけ深く頭を下げた。
「いってきます」
午後、悠斗は会社の近くへ行った。
休日のオフィス街は静かだった。
平日の騒がしさが嘘のように、ビルのガラスが空を映している。
佐原が泣いたビル裏に立つ。
自販機の横。
缶コーヒーを二本買った場所。
佐原が「泣いても、明日来ていいですか」と聞いた場所。
悠斗は、あの時の佐原の顔を思い出した。
あの問いは、自分の中の古い傷にも触れていた。
泣いたら終わり。
弱さを見せたら終わり。
そう思っていた自分に、今の悠斗は言えた。
泣いていい。
明日来ていい。
今日の午後も戻ろう。
それは、佐原に言った言葉であり、昔の自分に言ってあげたかった言葉でもあった。
悠斗は自販機で缶コーヒーを一本買った。
温かい缶を手に持ちながら、ノートに書く。
『ここで、佐原は泣いた。
そして、泣いても終わらなかった。
僕は昔の自分に言えなかった言葉を、佐原に言った。
遠回りしたから、誰かの涙の横に立てた。
あの遠回りは、全部無駄ではなかった。』
次に向かったのは、父の実家だった。
玄関を開けると、コーヒーの匂いがした。
母が笑って言った。
「お父さん、練習してるのよ」
台所では、父が真剣な顔で湯を注いでいた。
小さなドリッパー。
紙フィルター。
挽いた豆。
父の手元は少しぎこちない。
けれど、その姿はとても真剣だった。
「来たか」
「うん。いい匂いだね」
「まだ安定しない」
父は少し不満そうに言った。
悠斗は笑った。
「一杯もらえる?」
「まずくても知らんぞ」
「まずい前提で言わないでよ」
父は無言でカップを出した。
コーヒーは少し苦かった。
少し薄いような、濃いような、不思議な味だった。
でも、悠斗にはそれがとてもおいしく感じた。
「どうだ」
父が聞いた。
少し緊張しているように見えた。
悠斗は言った。
「おいしいよ」
「本当か」
「うん。まだ途中の味がする」
父は眉をひそめた。
「褒めてるのか」
「褒めてる」
母が横で笑った。
父も、ほんの少しだけ笑った。
悠斗は思った。
父は今、若い頃の夢を取り戻しているのではない。
取り返しているわけでもない。
今の年齢で、今の手で、今の形の夢を始めているのだ。
それはとても静かで、とても美しい景色だった。
悠斗は父に言った。
「父さん」
「何だ」
「小説、少し進んだ」
「そうか」
「まだ途中だけど、最後まで書く」
父はコーヒーの器具を片付けながら言った。
「途中なら、途中なりに続けろ」
「うん」
「俺も、コーヒーはしばらく続けてみる」
その言葉に、悠斗は胸が熱くなった。
父も、続ける。
悠斗も、続ける。
親子で、まったく違う夢を、まったく違う形で、今から始めている。
実家を出たあと、悠斗は美月に短いメッセージを送った。
『今日、遠回りした場所をめぐっています。美月と話せたことも、その中の大事な景色です。ありがとう。』
返信はすぐには来なかった。
でも、それでよかった。
もう、返事を急がなくなった。
言葉は、すぐに返ってこなくても、届いていればいい。
夕方、悠斗は恒一の家の近くの公園へ行った。
陽菜の誕生日会の帰り道、恒一と話した場所。
幸せは勝ち負けじゃない。
恒一の家族を見て、羨ましさを抱えながら、それでも祝えた場所。
公園では、子供たちが遊んでいた。
夕焼けが滑り台を赤く染めている。
悠斗はベンチに座った。
かつて、他人の幸せは自分の負けを突きつけるものだった。
でも今は違う。
他人の幸せは、他人のもの。
自分の幸せは、自分のもの。
比べる必要はない。
羨ましいと思ってもいい。
それは、自分にも温かさがほしいという願いだから。
悠斗はノートに書いた。
『ここで、僕は恒一の幸せを見た。
羨ましかった。
でも、その羨ましさは、もう僕を傷つけるだけのものではなかった。
僕にも幸せがほしい。
そう思えることは、まだ心が諦めていない証拠だった。』
日が暮れる頃、悠斗はいつものバス停へ戻った。
福神弥助は、そこにいた。
今日は何も食べていなかった。
それが少し不思議だった。
「今日は何も食べてないんですか」
「たまには腹より心を満たす日や」
「弥助さんらしくないですね」
「失礼やな」
悠斗は隣に座った。
「遠回りした景色、見てきました」
「どこへ行った?」
「夢を諦めた駅。ここ。コンビニ。会社の裏。実家。恒一の家の近くの公園」
「たくさん歩いたな」
「はい」
「どうやった」
悠斗はしばらく考えた。
「全部、昔は痛い場所でした」
「うん」
「夢を諦めた駅も、父のいる実家も、誰かの幸せが見える場所も。昔の俺には、見るのが苦しい場所でした」
「今は?」
「今も少し痛いです。でも、痛いだけじゃなかった」
悠斗は空を見上げた。
夜が近づいている。
「夢を諦めた駅は、夢を拾い直した場所になっていました。バス停は、もう一度歩き始めた場所でした。コンビニは、名前を呼び合える場所になっていました。会社の裏は、泣いても戻れる場所になっていました。実家は、父さんがコーヒーを始める場所になっていました」
弥助は静かに聞いていた。
「場所の意味って、変わるんですね」
「変わるで」
「出来事は変わらない。でも、意味は変わる」
第16話で弥助が言った言葉を、今度は悠斗が口にした。
弥助は少し笑った。
「ちゃんと覚えとるやん」
「忘れられません」
「遠回りした景色は、どう見えた?」
悠斗は、胸の奥を探るように言った。
「思っていたより、悪くなかったです」
「ほう」
「いや、苦しかったです。遠回りなんてしないで済むなら、その方がよかったと思う場所もあります」
「うん」
「でも、その道でしか会えなかった人がいました。その道でしか言えなかった言葉がありました。その道でしか見えなかった景色がありました」
悠斗はゆっくり続けた。
「だから、全部を失敗とは呼びたくないです」
弥助は満足そうに頷いた。
「それが今日の答えやな」
「はい」
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
『第二十九の宿題。ありがとうを伝えろ。』
悠斗は紙を見つめた。
胸が静かに鳴った。
ありがとう。
次はきっと、これまで出会った人たちへ渡す言葉なのだ。
「最終話の前や」
弥助は言った。
「兄ちゃんがここまで来られたのは、一人やなかったからや」
「はい」
「父親、美月、恒一、西野、佐原、山口、村瀬、母親、陽菜。ちゃんと伝えろ」
「弥助さんにも?」
悠斗が聞くと、弥助は少し笑った。
「それは最後でええ」
「最後?」
「まあ、考えとけ」
その言い方が少しだけ寂しく聞こえた。
悠斗は何かを聞こうとしたが、弥助は立ち上がった。
「遠回りした景色、忘れるなよ」
「はい」
「景色はな、歩いた人間だけの宝物や」
そう言って、弥助は商店街の灯りの中へ歩いていった。
家に帰ると、悠斗は机に向かった。
花の水を替える。
歩の駒を一つ前へ押す。
ノートを開く。
『遠回りした景色。
夢を諦めた駅。
雨のバス停。
名前を覚えたコンビニ。
佐原が泣いたビル裏。
父がコーヒーを淹れた台所。
恒一の家の近くの公園。
どの場所も、昔は痛かった。
でも今は、痛みだけではない。
そこには、僕が少しずつ変わってきた証が残っている。』
続けて書く。
『遠回りしないで済むなら、その方がよかったこともある。
でも、遠回りしたから出会えた言葉がある。
遠回りしたから気づけた涙がある。
遠回りしたから渡せた優しさがある。
僕はもう、自分の道を全部失敗とは呼びたくない。』
小説ノートを開く。
今日の一文を書く。
『男は、遠回りした道を振り返った。
そこには痛みだけでなく、名前を呼んでくれた人、泣いても戻れた場所、もう一度始まった夢の匂いが残っていた。』
悠斗はペンを置いた。
最終話が近づいている。
そんな気がした。
物語の終わりではない。
人生の終わりでもない。
でも、この長い遠回りに、一つの区切りが近づいている。
次は、ありがとうを伝える番だ。
悠斗はスマートフォンを手に取った。
まず、誰に伝えるべきだろう。
父。
美月。
恒一。
山口さん。
西野。
佐原。
村瀬。
母。
陽菜。
そして、弥助。
たくさんの顔が浮かんだ。
一人ではなかった。
ずっと一人だと思っていた。
でも、遠回りした道を振り返ると、そこにはいつも誰かがいた。
悠斗は、ノートの最後に小さく書いた。
『ありがとうを伝える準備をする。』
そして、机のライトを消した。
夜の部屋に、白い花が静かに浮かんでいる。
遠回りした景色は、もう暗闇ではなかった。
そこには、小さな灯りがいくつも灯っていた。
第28話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「遠回りした景色」でした。
夢を諦めた駅。
雨のバス停。
名前を呼び合えるコンビニ。
泣いても戻れた場所。
父がコーヒーを淹れた台所。
悠斗は、これまで歩いてきた場所をめぐり、痛みだけではない景色がそこに残っていることに気づきます。
次回は、第29話「ありがとうを伝えろ」へ続きます。




