第27話 幸せは勝ち負けじゃない
第26話では、悠斗が「人生を変える小さな習慣」と向き合いました。
花の水を替えること。
毎朝、名前を呼んで挨拶すること。
毎日、一文だけ書くこと。
今回の第27話では、悠斗がずっと苦しんできた「比べる癖」と向き合います。
幸せは、誰かに勝つことではない。
誰かより早く進むことでもない。
自分の手の中にある小さな温かさに気づくことなのかもしれません。
朝倉悠斗は、朝起きてすぐ、机の上の花の水を替えた。
透明なコップの中で、白い花が静かに揺れる。
たったそれだけのことなのに、今日という一日が少しだけ整って始まる気がした。
以前の悠斗なら、朝はいつも何かに追われていた。
時間に追われ、仕事に追われ、年齢に追われ、周りとの差に追われていた。
けれど最近は、ほんの五分だけ、自分のために朝を使えるようになった。
カーテンを開ける。
花の水を替える。
ノートに一文を書く。
今日は、こう書いた。
『幸せは勝ち負けじゃない。』
福神弥助から出された新しい宿題だった。
簡単な言葉に見える。
けれど、悠斗にはとても難しかった。
なぜなら悠斗は、ずっと幸せを勝ち負けで見てきたからだ。
結婚している人は勝ち。
独身の自分は負け。
子供がいる友人は勝ち。
未来を作れなかった自分は負け。
仕事で評価される人は勝ち。
後輩に追い抜かれた自分は負け。
夢を叶えた人は勝ち。
夢を置いてきた自分は負け。
そんなふうに、誰にも頼まれていない採点表を心の中に作り、自分に低い点数をつけ続けてきた。
でも、本当にそうなのだろうか。
恒一は結婚して子供もいる。
けれど、父親として毎日迷っている。
父は家族を養ってきた。
けれど、喫茶店の夢をずっと胸の奥にしまっていた。
西野は新しい部署へ進んだ。
けれど、新しい場所でまた迷いながら歩いている。
佐原はまだ新人で、毎日小さな不安と戦っている。
でも、昨日より少しだけ「すみません」の代わりに「確認したいです」と言えるようになった。
みんな、それぞれの道を歩いているだけだった。
勝ち負けではない。
そう頭では思う。
けれど、心はすぐに比べたがる。
悠斗はノートに書いた。
『僕は、人の幸せを見るたびに、自分の不足を数えてきた。
でも、人の幸せは、僕の不幸の証明ではない。』
その一文を書いた時、胸が少し痛んだ。
痛いということは、まだそこに古い癖が残っているということだった。
朝、いつものコンビニへ寄ると、山口さんがレジにいた。
「おはようございます、朝倉さん」
「おはようございます、山口さん」
自然に名前を呼べるようになったことが、今でも少し嬉しい。
会計のあと、山口さんが言った。
「今日、少し考え事の顔ですね」
「また出てます?」
「はい。でも、悪い顔ではないです」
悠斗は少し笑った。
「幸せは勝ち負けじゃないって考えていて」
山口さんは、少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「いいテーマですね」
「でも、難しいです」
「わかります」
「山口さんも、比べたりしますか?」
「しますよ」
山口さんはあっさり言った。
「同じ年くらいの人が、もっとちゃんと働いていたり、結婚していたり、旅行に行っていたりすると、私は何してるんだろうって思う時あります」
悠斗は少し驚いた。
山口さんは、いつも穏やかで、足元がしっかりしている人に見えていた。
でも、山口さんも比べるのだ。
「でも最近、少しだけ思うんです」
「何をですか?」
「誰かの幸せを見て苦しくなる日は、自分が幸せになりたくないんじゃなくて、自分にも幸せがほしい日なんだって」
その言葉に、悠斗は胸を打たれた。
自分にも幸せがほしい日。
誰かの幸せを見て苦しくなるのは、性格が悪いからではない。
自分も幸せを求めているからだ。
「それ、すごくいい言葉ですね」
「母の受け売りです」
山口さんは照れたように笑った。
「母はよく、“羨ましいって、まだ心が諦めてない証拠だよ”って言ってました」
悠斗は、その言葉を胸にしまった。
羨ましいは、諦めていない証拠。
以前の自分なら、羨ましさを汚い感情だと思っていた。
恒一の幸せを見て苦しくなった自分を責めた。
西野の若さに嫉妬した自分を情けないと思った。
でも、その奥には「自分も幸せになりたい」という願いがあったのかもしれない。
会社に着くと、佐原が資料を確認していた。
机には例の紙が貼ってある。
『すぐ謝る前に、まず確認する。』
その横に、また新しいメモが増えていた。
『五分だけ復習する。』
悠斗は少し笑った。
「おはよう、佐原」
「おはようございます」
「メモ、増えたね」
「はい。小さな習慣です」
佐原は少し照れくさそうに言った。
「昨日、五分だけ復習したら、今朝ちょっと不安が減ってました」
「いいね」
「まだ全然できないことだらけですけど」
「それでいいと思う」
「朝倉さん」
「ん?」
「僕、前の会社の同期と比べるの、まだやめられません」
佐原は資料を見つめながら言った。
「その人はまだ前の会社で頑張ってて、評価もされてるみたいで。自分は逃げて、転職して、ここでも新人扱いで」
「うん」
「でも昨日、少し思ったんです。比べても、その人の人生を生きられるわけじゃないんだなって」
悠斗は黙って聞いていた。
「僕は、その人にはなれない。だったら、自分が今日できることを一つ増やすしかないのかなって」
その言葉は、第26話の小さな習慣から自然につながっていた。
悠斗は頷いた。
「それが、たぶん一番強いと思う」
「強いですか?」
「うん。比べるより、今日の自分を少し進める方が強い」
佐原は少しだけ笑った。
「じゃあ、今日も五分復習します」
「十分やろうとしないの?」
「五分でいいです。十分快調子に乗ると続かなそうなので」
悠斗は笑った。
「賢い」
昼休み、恒一からメッセージが来た。
『今度の日曜、陽菜の誕生日会するんだけど、来る?』
悠斗は少し手を止めた。
誕生日会。
家族。
子供。
友人たち。
そこには、かつての悠斗が一番苦手としていた景色がある。
自分にはないものが、たくさん並ぶ場所。
行きたい気持ちと、怖い気持ちが同時に湧いた。
以前なら、仕事を理由に断ったかもしれない。
でも今は、少し違う。
怖い場所ほど、そこに何か残っている。
悠斗は返信した。
『行く。何か持っていくものある?』
恒一からすぐに返事が来た。
『手ぶらでいい。陽菜は“おはなしのおじちゃん来る?”って言ってた』
悠斗は思わず笑った。
おはなしのおじちゃん。
少し前の自分なら、そんな呼ばれ方を恥ずかしく思ったかもしれない。
でも今は、少し嬉しかった。
自分の言葉が、小さな女の子の中に残っている。
それは、勝ち負けとは違う幸せだった。
日曜日、悠斗は恒一の家へ向かった。
小さなプレゼントを買った。
絵本だった。
迷子の子猫が、自分の家を探す話。
陽菜には少し簡単かもしれない。
でも、悠斗はその絵本を見た瞬間、どうしても渡したくなった。
恒一の家に着くと、玄関から賑やかな声が聞こえた。
陽菜の友達。
その親たち。
恒一の妻。
下の子の泣き声。
台所から聞こえる皿の音。
そこには、家族の生活があった。
悠斗は胸の奥が少しざわつくのを感じた。
羨ましい。
正直にそう思った。
自分にも、こんな未来があったかもしれない。
美月と別れなければ。
もっと早く自分を許せていたら。
普通の幸せを怖がらずに受け取れていたら。
そんな思いが、一瞬胸を横切った。
けれど、悠斗はその感情を否定しなかった。
羨ましいは、諦めていない証拠。
山口さんの言葉を思い出す。
羨ましさがあるからといって、恒一の幸せを壊したいわけではない。
ただ、自分にも温かい場所がほしいだけだ。
そう思うと、胸のざわつきが少しやわらいだ。
「悠斗!」
恒一が玄関に出てきた。
「来てくれてありがとな」
「おめでとう」
「陽菜ー! おはなしのおじちゃん来たぞ!」
その呼び方はどうなんだと思ったが、陽菜は満面の笑みで走ってきた。
「おじちゃん!」
「誕生日おめでとう」
悠斗は絵本を渡した。
「これ、よかったら」
陽菜は両手で受け取った。
「おはなし?」
「うん。迷子の子猫の話」
「読む!」
陽菜は嬉しそうに絵本を抱えた。
その姿を見て、悠斗は胸が温かくなった。
誕生日会は賑やかだった。
子供たちは走り回り、大人たちは料理を取り分け、誰かがジュースをこぼし、恒一が慌てて布巾を取りに行く。
悠斗は最初、少し居場所がなかった。
周囲の大人たちは、子供の話、保育園の話、家のローンの話をしている。
悠斗にはわからない話も多かった。
また少し、比べる癖が顔を出す。
自分だけ違う。
自分だけ何も持っていない。
でも、その時、陽菜が絵本を持って悠斗の隣に座った。
「読んで」
「今?」
「うん」
悠斗は少し笑い、絵本を開いた。
陽菜が隣にぴったり座る。
他の子供たちも少しずつ集まってきた。
悠斗は静かに読み始めた。
迷子の子猫が、知らない道を歩く。
途中で怖くなる。
でも、小さな灯りを見つける。
誰かの声を聞く。
そして少しずつ、自分の帰る場所を探していく。
読みながら、悠斗は自分の物語を重ねていた。
自分も、ずっと迷子だった。
でも今は、少しずつ道を見つけている。
読み終えると、陽菜が言った。
「ねこ、よかったね」
「うん。よかったね」
「おじちゃんのおはなしの人も、見つかった?」
悠斗は少し驚いた。
陽菜は覚えていたのだ。
迷子になった男が、大事なものを探しに行く話。
悠斗は少し考えてから言った。
「まだ全部は見つかってない。でも、少しずつ見つけてる」
陽菜は真剣に頷いた。
「じゃあ、だいじょうぶ」
その言葉に、悠斗は泣きそうになった。
じゃあ、大丈夫。
子供の言葉は、時々まっすぐすぎる。
恒一が少し離れた場所から、その様子を見ていた。
誕生日会の帰り道、恒一が外まで見送ってくれた。
「ありがとうな。陽菜、すごい喜んでた」
「こちらこそ。呼んでくれてありがとう」
「どうだった?」
恒一は少し気遣うように聞いた。
悠斗は正直に答えた。
「羨ましかった」
恒一は黙った。
「でも、嫌な羨ましさじゃなかった。ああ、俺もこういう温かさがほしかったんだなって思った」
恒一は静かに頷いた。
「そっか」
「前なら、苦しくなって帰ってたと思う。でも今日は、ちゃんと祝えた気がする」
「うん」
「恒一、幸せそうだった」
「まあ、幸せだよ」
恒一は少し笑った。
「でも、勝ってるわけじゃない」
悠斗は顔を上げた。
「毎日ぐちゃぐちゃだし、怒るし、疲れるし、財布は軽いし、家は散らかるし」
「それでも幸せ?」
「うん。それでも幸せ」
恒一は、少し照れくさそうに言った。
「幸せって、整ってることじゃないのかもな」
悠斗はその言葉を胸に置いた。
幸せは、整っていることではない。
勝っていることでもない。
全部が揃っていることでもない。
ぐちゃぐちゃでも、疲れていても、それでも大事にしたいものがあること。
それが幸せなのかもしれない。
夜、悠斗はいつものバス停へ向かった。
福神弥助は、ベンチでどら焼きを食べていた。
「今日はどら焼きですか」
「幸せはあんこみたいなもんや」
「どういう意味ですか」
「外から見えへんけど、中にある」
悠斗は少し笑った。
「今日はけっこう好きです、その例え」
弥助は得意げに頷いた。
「幸せは勝ち負けじゃない、見えたか?」
「少し」
「どこで?」
「恒一の家に行きました。陽菜ちゃんの誕生日会で」
「ほう」
「羨ましかったです」
「うん」
「でも、前みたいに苦しいだけじゃなかった。羨ましいって、自分も幸せがほしいってことなんだと思えました」
弥助は静かに頷いた。
「それで?」
「恒一は幸せそうでした。でも、勝ってる人には見えませんでした」
「どう見えた?」
「ぐちゃぐちゃで、疲れてて、でも大事なものを抱えてる人」
「それや」
弥助はどら焼きを半分に割った。
「幸せは、勝った人がもらえる景品やない」
悠斗はその言葉に息を止めた。
「幸せは景品じゃない……」
「せや。人生のレースに勝ったらもらえるもんやと思うから、苦しくなる。結婚したら勝ち、出世したら勝ち、夢を叶えたら勝ち。そんなもん、誰が決めたんや」
第12話の宿題が蘇る。
「普通」って誰が決めたんや。
同じだった。
普通も、勝ち負けも、誰かが作った物差しだ。
それで自分を測り続けるから、幸せが遠くなる。
「幸せはな」
弥助は言った。
「誰かに勝った瞬間じゃなくて、自分の手の中にあるもんに気づいた瞬間に生まれる」
悠斗は黙って聞いていた。
「兄ちゃんの手の中には、今何がある?」
悠斗は少し考えた。
花の水を替える朝。
山口さんとの挨拶。
佐原が少しずつ変わっていく姿。
父が始めたコーヒー。
恒一と陽菜の笑い声。
美月に言えたありがとう。
毎晩書く一文。
歩の駒。
弥助の宿題。
「小さいものばかりです」
「小さいものを言うてみ」
「朝の花。コンビニの挨拶。夜の一文。父さんのコーヒー。佐原の五分復習。陽菜ちゃんの“だいじょうぶ”。」
弥助は笑った。
「十分やん」
「十分ですか?」
「十分すぎる」
悠斗は胸が温かくなった。
自分はまだ何も持っていないと思っていた。
でも、手の中を見ていなかっただけなのかもしれない。
勝てば幸せになれると思って、遠くばかり見ていた。
でも、幸せはもっと近くにあった。
勝ち負けの外側に。
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
『第二十八の宿題。遠回りした景色を見ろ。』
悠斗は紙を見つめた。
「遠回りした景色……」
「もうすぐ終わりに近づいとる」
弥助は静かに言った。
「兄ちゃんが歩いてきた道を、そろそろ振り返る時や」
家に帰ると、悠斗は花の水を替えた。
小さな習慣。
今日も守れた。
机に座り、ノートを開く。
『幸せは勝ち負けじゃない。
人の幸せを見て苦しくなるのは、自分も幸せになりたいから。
羨ましいは、まだ諦めていない証拠。
恒一は幸せそうだった。
でも、勝っている人ではなかった。
疲れて、迷って、ぐちゃぐちゃで、それでも大事なものを抱えている人だった。』
続ける。
『幸せは、誰かに勝った時にもらえる景品じゃない。
自分の手の中にあるものに気づいた時、静かに生まれるものだ。
僕の手の中にも、少しずつ増えている。
朝の花。
山口さんの挨拶。
佐原の小さな成長。
父のコーヒー。
陽菜ちゃんの言葉。
夜の一文。
それらを、もう負けた人生の言い訳にはしたくない。
それらは、今の僕の幸せだ。』
悠斗はペンを置いた。
心が静かだった。
大きな成功はまだない。
小説家になれたわけでもない。
恋人がいるわけでもない。
人生が完璧に整ったわけでもない。
でも、今日、陽菜に絵本を読んだ。
恒一の幸せを羨ましさごと祝えた。
父のコーヒーを楽しみにできた。
佐原の成長を嬉しいと思えた。
それだけで、今日という日は確かに温かかった。
小説ノートを開く。
今日の一文を書く。
『男は、幸せを勝った者だけが受け取れる賞品だと思っていた。
けれど本当は、負けたと思っていた手の中にも、小さな温かさはずっと残っていた。』
悠斗は、その一文を見つめた。
そして、机の上の歩の駒を少しだけ前に押した。
一歩。
また一歩。
勝つためではなく、生きるための一歩。
遠回りした道の先で、悠斗はようやく、誰かと比べない幸せの輪郭を見つけ始めていた。
第27話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「幸せは勝ち負けじゃない」でした。
幸せは、誰かに勝った人だけがもらえる景品ではありません。
誰かより早く進んだ証でもありません。
羨ましいと思うのは、自分も幸せになりたいという願いがまだ残っているから。
悠斗は、恒一の家族、陽菜の言葉、父のコーヒー、佐原の小さな成長を通して、勝ち負けの外側にある幸せに気づき始めました。
次回は、第28話「遠回りした景色」へ続きます。




