第23話 優しさは弱さじゃない
第22話では、悠斗が「孤独の正体」と向き合いました。
孤独とは、人がいないことだけではなく、本当のことを置ける場所がないこと。
新人の佐原に、昔の自分を重ねた悠斗は、誰かにとっての“戻れる場所”を作ろうとし始めます。
今回の第23話では、「優しさは弱さじゃない」という宿題に向き合います。
佐原陸が出社するようになってから、朝倉悠斗の朝は少し変わった。
以前なら、会社に着くとまず自分の席に座り、メールを開き、今日一日をどう乗り切るかだけを考えていた。
けれど今は、佐原の席を見る。
来ているか。
顔色はどうか。
肩に力が入りすぎていないか。
何度も「すみません」と言っていないか。
そういうことを、自然と気にするようになった。
自分でも不思議だった。
少し前までの悠斗は、人のことを見る余裕などなかった。
自分が置いていかれないようにするだけで精一杯だった。
でも遠回りしてきた時間は、悠斗に少しだけ人の痛みを見る目をくれた。
佐原は、今日も誰より早く来ていた。
パソコンの前に座り、昨日渡した資料を開いている。
背筋は伸びているが、指先が少し落ち着かない。
悠斗は席へ行き、声をかけた。
「おはよう、佐原」
「お、おはようございます」
「昨日のところ、少し見た?」
「はい。でも、やっぱりまだ理解が追いつかなくて……すみません」
また謝った。
悠斗は小さく首を振った。
「謝らなくていい。わからないところがわかったなら、それは進んでる」
「進んでる、ですか?」
「うん。わからない場所が見えない時が一番しんどいから」
佐原は少しだけ目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その顔を見て、悠斗は少しほっとした。
けれど、その日の午前中、問題が起きた。
佐原が作成した確認表に、数字の入力ミスがあった。
大きな損害につながるものではない。
しかし、先方へ送る前に村瀬が気づかなければ、少し面倒な訂正が必要になるところだった。
村瀬は資料を見ながら、低い声で言った。
「佐原、この数字はどこから取った?」
佐原の顔が一瞬で青ざめた。
「あ、えっと、昨日の資料から……」
「元資料の列が違う。こっちは前月分だ。今回見るべきなのは当月分だ」
「す、すみません」
佐原はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。自分が確認不足で」
村瀬は眉をひそめた。
「謝る前に、どこで間違えたか説明しろ」
「すみません」
「だから謝るな。説明しろ」
佐原の口が震えた。
悠斗はその様子を見て、胸がざわついた。
昔の自分を見ているようだった。
怒られた瞬間、頭が真っ白になる。
説明しなければいけないのに、謝罪の言葉しか出てこない。
自分の存在ごと駄目だと言われているような気がして、ミスの原因を見られなくなる。
悠斗は思わず口を挟みそうになった。
「村瀬さん、佐原はまだ新人なので」
そう言いかけて、止まった。
福神弥助の宿題が頭をよぎる。
『優しさは弱さじゃない、と証明しろ。』
ここで佐原を庇うことは、優しさだろうか。
それとも、佐原が自分のミスと向き合う機会を奪うことだろうか。
悠斗は深く息を吸った。
そして、佐原の隣に立った。
「佐原、一緒に確認しよう」
佐原は驚いた顔で悠斗を見た。
悠斗は続けた。
「まず、どの資料を開いた?」
「昨日共有いただいた、売上推移の資料です」
「うん。そこまでは合ってる。次に、どの列を見た?」
「えっと……この列です」
佐原が画面を指差した。
悠斗は頷いた。
「そこは前月分だね。今回必要なのは隣の当月分」
「……はい」
「じゃあ、原因は?」
佐原は少し沈黙した。
そして、小さく言った。
「列の見出しを確認せず、前回と同じ位置だと思い込んで入力しました」
村瀬が短く頷いた。
「そうだ。次からどうする?」
佐原は震える声で答えた。
「入力前に、列見出しと対象月を確認します。あと、作業後に元資料と照合します」
「それでいい」
村瀬は資料を閉じた。
「朝倉、修正版を一緒に確認しろ」
「はい」
村瀬はそれ以上叱らなかった。
佐原はしばらく固まっていたが、やがて深く息を吐いた。
「すみません……じゃなくて、ありがとうございます」
悠斗は小さく笑った。
「今のは、謝るより確認できた方がいい」
「はい」
佐原は目を伏せた。
「怖かったです」
「うん」
「でも、何を間違えたかは、少しわかりました」
「それなら大丈夫」
そう言いながら、悠斗自身も学んでいた。
優しさとは、何でも庇うことではない。
叱られないように守ることだけでもない。
相手がミスから目を背けずに済むよう、隣に立つこと。
責めるのではなく、原因を見る手伝いをすること。
それも優しさなのだ。
昼休み、悠斗は公園へ行った。
ベンチに座り、ノートを開く。
ページの一番上に書く。
『優しさは弱さじゃない。』
その下に、今日のことを書いた。
『佐原がミスをした。
僕は庇おうとした。
でも、ただ庇うだけでは、佐原が自分で原因を見る機会を奪っていたかもしれない。
優しさは、相手を傷から完全に遠ざけることではない。
傷つきすぎないように隣に立ちながら、一緒に現実を見ることなのかもしれない。』
書きながら、悠斗は美月のことを思い出した。
美月は、悠斗に優しかった。
でも、最後に言った。
「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」
あの時の悠斗は、その言葉を刃のように受け取った。
でも今ならわかる。
あれは、美月の優しさだった。
ただ慰めるだけではなく、悠斗が見ないふりをしていた場所を指差してくれた。
本当の優しさは、時に痛い。
でも、それは相手を壊すためではなく、相手が自分に戻るための痛みなのかもしれない。
悠斗はさらに書いた。
『優しさは、相手を甘やかすことではない。
正しさで殴ることでもない。
相手が自分を見失わないように、言葉を選んで現実を渡すことだ。』
その日の夕方、佐原が悠斗の席に来た。
「朝倉さん、少し相談してもいいですか」
「もちろん」
「今日のミスのことなんですけど」
佐原はノートを開いた。
「自分、ミスした時にすぐ謝ってしまって、原因を見られなくなるんです」
「うん」
「前の会社でも、そうでした。怒られるのが怖くて、とにかく謝って、その場を早く終わらせたくなって」
「わかるよ」
悠斗は本当にそう思った。
「でも、そうすると同じミスを繰り返すんだよな」
佐原は驚いた顔をした。
「はい。まさにそうです」
「俺もそうだった」
「朝倉さんもですか?」
「うん。謝罪で自分を守ってた」
「謝罪で守る……」
「原因を見るのが怖いから、とにかく自分が悪いですって言う。でも、本当はそれだと改善にならない」
佐原は真剣に聞いていた。
「じゃあ、どうすればいいですか」
「謝る前に、三つ言う」
「三つ?」
「何が起きたか。どこで間違えたか。次にどうするか」
悠斗は紙に書いた。
『一、何が起きたか。
二、どこで間違えたか。
三、次にどうするか。』
「これを先に言う。そのあと必要なら謝る」
佐原はその紙を見つめた。
「これ、もらってもいいですか」
「もちろん」
佐原は大事そうに紙をしまった。
「朝倉さんって、優しいですね」
悠斗は少し照れた。
「どうかな」
「でも、ただ優しいだけじゃない気がします」
「え?」
「逃がしてくれるんじゃなくて、戻してくれる感じです」
その言葉に、悠斗は胸が熱くなった。
逃がしてくれるんじゃなくて、戻してくれる。
それは、第22話で村瀬が言った「逃げ場所ではなく、戻れる場所を作れ」に繋がっていた。
自分は少しだけ、戻れる場所を作れているのかもしれない。
夜、いつものバス停へ行くと、福神弥助がベンチでみたらし団子を食べていた。
「今日は団子ですか」
「優しさは串みたいなもんや」
「どういう意味ですか」
「甘いだけやと崩れる。芯がいる」
悠斗は思わず笑った。
「今日の例えは、ちょっと上手いですね」
「いつも上手いやろ」
悠斗は隣に座った。
「優しさは弱さじゃないって、少しわかりました」
「聞かせてみ」
「佐原がミスをしました。最初、庇おうとしたんです。でも、それだと佐原が原因を見られなくなる気がして」
「うん」
「だから隣に立って、一緒に確認しました。責めるんじゃなくて、でも現実から逃がすんでもなく」
弥助は頷いた。
「それで?」
「優しさって、傷つかないように全部隠すことじゃないんですね」
「せや」
「相手が壊れないように支えながら、ちゃんと現実を見る手伝いをすることなのかもしれません」
弥助は満足そうに笑った。
「ええ答えや」
「あと、美月のことを思い出しました」
「ほう」
「自分を嫌いすぎるって言ってくれたのも、優しさだったんだなって」
「今なら受け取れるんやな」
「はい。あの時は痛かった。でも、必要な言葉でした」
弥助は団子を一本差し出した。
「食うか?」
「ありがとうございます」
甘いタレが少し手についた。
悠斗はそれを見ながら言った。
「優しい人って、損をすると思ってました」
「うん」
「傷つくし、利用されるし、結局負けるって」
「うん」
「でも、本当の優しさには芯がいるんですね。相手に嫌われるかもしれなくても、必要な言葉を選ぶ強さがいる」
「せや」
弥助は夜の道を見た。
「優しさは弱さやない。優しさは、痛みを知っても人を雑に扱わん強さや」
悠斗はその言葉を、ノートに書きたくなった。
痛みを知っても、人を雑に扱わない強さ。
自分がなりたい優しさは、それだった。
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
『第二十四の宿題。泣ける場所を作れ。』
悠斗は紙を見つめた。
「泣ける場所……」
「戻れる場所を作るだけやと、まだ足りん」
「足りないんですか?」
「人はな、泣ける場所がないと、心の奥で乾いていく」
弥助は静かに言った。
「次は、誰かが泣ける場所を作る番や」
翌日、佐原は少しだけ変わっていた。
ミスをしたわけではない。
ただ、わからないことがあると、以前より早く聞きに来るようになった。
「すみません」ではなく、「確認したいです」と言うようになった。
小さな変化だった。
でも、悠斗にはそれが大きく見えた。
昼過ぎ、佐原が言った。
「朝倉さん、昨日の紙、机に貼りました」
「三つのやつ?」
「はい。何が起きたか、どこで間違えたか、次にどうするか」
「役に立ちそう?」
「はい。自分を責める前に、見るものができました」
自分を責める前に、見るものがある。
悠斗は、その言葉に救われる気がした。
自分にも必要だった。
仕事終わり、悠斗はコンビニに寄った。
山口さんがレジにいた。
「こんばんは」
「こんばんは、山口さん」
会計のあと、山口さんが少し疲れた顔で言った。
「今日はちょっと失敗続きで」
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
その「大丈夫」は、少し硬かった。
悠斗は少し迷ったあと、言った。
「大丈夫じゃなくても、今日はそういう日だったってことにしていいと思います」
山口さんは驚いたように悠斗を見た。
「朝倉さん、優しいですね」
悠斗は少し笑った。
「最近、優しさは弱さじゃないって考えていて」
「素敵ですね」
「でも、まだ練習中です」
山口さんは柔らかく笑った。
「練習中の優しさでも、ちゃんと届くことありますよ」
その言葉に、悠斗は胸が温かくなった。
家に帰ると、白い花はもう限界に近かった。
花びらが少し落ちている。
悠斗はそれを捨てるのが少し寂しかった。
でも、最後まで咲いてくれた花に、静かに「ありがとう」と言った。
それから、新しい水をコップに入れ直した。
明日、また一本買おうと思った。
机に向かい、ノートを開く。
『優しさは弱さじゃない。
優しさは、相手を現実から遠ざけることではない。
正しさで殴ることでもない。
相手が自分を見失わないように、隣に立って、必要な現実を一緒に見ること。
痛みを知っても、人を雑に扱わない強さ。』
続けて書く。
『佐原は、少しずつ謝る前に確認できるようになってきた。
僕も、昔の自分に教えるように佐原へ言葉を渡している。
遠回りした時間は、こうして誰かの足元に置ける灯りになるのかもしれない。』
小説ノートを開く。
今日の一文を書く。
『男は、優しさを弱さだと思っていた。
けれど本当の優しさは、相手の痛みから逃げず、相手を雑に扱わないために立ち続ける強さだった。』
ペンを置いたあと、悠斗は次の宿題を見た。
『泣ける場所を作れ。』
泣ける場所。
それはきっと、戻れる場所よりもさらに深い。
本当のことを置けるだけではなく、崩れてもいい場所。
泣いても、終わりにならない場所。
悠斗には、まだ作り方がわからなかった。
でも、少しだけ予感があった。
佐原は、まだ泣いていない。
西野も、完全には泣けていなかった。
恒一も、笑いながら泣きたい夜を隠している。
父も、美月も、村瀬も、山口さんも。
人はみんな、泣ける場所を探しているのかもしれない。
そして自分もまた、そんな場所をずっと探してきた。
遠回りした道の先で、悠斗は次の灯りを探し始めていた。
第23話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「優しさは弱さじゃない」でした。
優しさは、ただ庇うことではありません。
正しさで相手を追い詰めることでもありません。
相手が自分を見失わないように、隣に立って現実を見ること。
悠斗は佐原との関わりを通して、本当の優しさには芯が必要なのだと気づきます。
次回は、第24話「泣ける場所を作れ」へ続きます。




