第22話 孤独の正体
第21話では、悠斗が「大人になれなかった僕ら」というテーマに向き合いました。
恒一も、父も、村瀬も、新人の佐原も、そして悠斗自身も、完璧な大人になれたわけではありません。
未完成のまま、それでも誰かを大事にしようとすること。
今回の第22話では、悠斗が「孤独の正体」を探していきます。
佐原陸が入社して三日目の朝、朝倉悠斗は彼の席が空いていることに気づいた。
始業時間まで、あと五分。
佐原は、昨日も一昨日も誰より早く来ていた。緊張した顔でパソコンを立ち上げ、マニュアルを何度も読み返し、悠斗が声をかけるたびに「すみません」と言っていた。
その彼が、まだ来ていない。
悠斗は時計を見た。
九時ちょうど。
始業。
佐原の席は空いたままだった。
十分後、村瀬のもとに連絡が入った。
「体調不良で休みます、とのことだ」
村瀬は短くそう言い、仕事に戻った。
オフィスでは誰も大きく反応しなかった。
新人が一日休む。
それだけのことだ。
けれど悠斗は、胸の奥に小さな違和感を抱いた。
体調不良。
もちろん本当に具合が悪いのかもしれない。
でも、昨日の佐原の顔が浮かんだ。
「すみません」と何度も言っていた顔。
昼休みに「前の会社から逃げました」と呟いた声。
あの硬い肩。
何かを聞くたびに、自分の存在ごと謝っているような目。
悠斗は、昔の自分を思い出した。
会社に行く朝、駅のホームで動けなくなった日。
体調が悪いわけではない。
でも、行けない。
仕事が嫌いなわけではない。
でも、足が前に出ない。
誰かに説明しようとしても、言葉にならない。
あの感じ。
自分が何に疲れているのか、自分でもわからないまま、ただ心だけが息切れしている感じ。
昼休み、悠斗は公園のベンチでノートを開いた。
福神弥助から渡された宿題。
『第二十二の宿題。孤独の正体を知れ。』
孤独。
悠斗はずっと、孤独とは一人でいることだと思っていた。
独身でいること。
恋人がいないこと。
休日に誰とも会わないこと。
家に帰っても「おかえり」と言われないこと。
もちろん、それも孤独の一部かもしれない。
けれど最近、少し違う気がしていた。
恒一には家族がいる。
それでも彼は、父親としての不安を一人で抱えていた。
西野には職場の仲間がいた。
それでも期待される自分に苦しみ、父親が倒れた時、帰りたいと言えずにいた。
村瀬には部下がいた。
それでも父の最期に間に合わなかった後悔を、長い間一人で持っていた。
父には家族がいた。
それでも喫茶店を持ちたかった夢を、誰にも言わずにしまっていた。
人がいても、孤独はある。
悠斗はペンを握り、書いた。
『孤独は、人がいないことだけじゃない。
本当のことを置ける場所がないことかもしれない。』
書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
本当のことを置ける場所。
自分には、それがなかった。
いや、なかったのではない。
差し出された場所に、本当のことを置けなかった。
美月が「話して」と言ってくれた時も。
恒一が「大丈夫か」と聞いてくれた時も。
母が「帰っておいで」と言ってくれた時も。
自分は平気なふりをしていた。
大丈夫です。
何でもない。
忙しいだけ。
疲れてるだけ。
そうやって、本当のことを置かないまま、人との間に薄い壁を作っていた。
悠斗はスマートフォンを取り出し、佐原にメッセージを送るか迷った。
新人が休んだ日に教育担当から連絡が来るのは、重いかもしれない。
でも、何も言わないままだと、佐原は一人で「休んでしまった」と自分を責めるかもしれない。
悠斗は短く打った。
『朝倉です。今日はゆっくり休んでください。仕事のことは大丈夫です。明日以降、不安なことがあれば一緒に整理しましょう。返信は不要です。』
送信。
それだけだった。
すぐに返事は来なかった。
でも、それでよかった。
返事を求めるための言葉ではない。
ただ、置き場所を一つ作るための言葉だった。
午後、仕事に戻ると、村瀬が悠斗を呼んだ。
「佐原に連絡したか」
「はい。返信不要で、休んでいいとだけ」
村瀬は少しだけ頷いた。
「それでいい」
「村瀬さん」
「何だ」
「新人の頃、孤独でしたか」
また踏み込みすぎたかもしれない。
そう思ったが、村瀬は怒らなかった。
最近の村瀬は、悠斗の突然の質問に少し慣れてきたようだった。
「孤独だったな」
短い答えだった。
「人はいましたよね?」
「いた」
村瀬はパソコン画面を見たまま言った。
「だが、弱音を吐く場所はなかった」
悠斗は黙った。
「当時は、できないと言ったら終わりだと思っていた。わからないと言ったら評価が下がる。相談したら使えないやつだと思われる。だから黙っていた」
「……はい」
「結果、何度も潰れかけた」
村瀬の声は淡々としていた。
けれど、その奥に古い疲れがあった。
「佐原には、そうさせるな」
「はい」
「ただし、甘やかすのとは違う」
「はい」
「逃げ場所ではなく、戻れる場所を作れ」
悠斗は、その言葉を胸に刻んだ。
逃げ場所ではなく、戻れる場所。
孤独の正体を考えていた悠斗にとって、それは大きな言葉だった。
夜、帰宅途中にいつものコンビニに寄ると、山口さんが品出しをしていた。
レジには佐藤さんがいる。
悠斗はお茶を買い、会計を済ませたあと、山口さんに軽く会釈した。
「こんばんは」
「こんばんは、朝倉さん」
山口さんは少し疲れた顔をしていた。
「今日、長いんですか?」
「はい。人が少なくて、少しだけ」
山口さんは笑った。
でも、その笑顔は薄かった。
悠斗は少し迷ってから言った。
「無理しないでくださいね」
山口さんは一瞬、驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「ありがとうございます。そう言われるだけで、少し楽になります」
悠斗は思った。
孤独は、誰からも見られていないと感じる時に濃くなるのかもしれない。
大丈夫そうに見える人に、「大丈夫?」と聞けること。
それだけで、少しだけ孤独は薄くなる。
その夜、バス停に行くと、福神弥助はベンチで肉まんを食べていた。
「今日は肉まんですか」
「孤独な夜には肉まんや」
「理由がありそうで、ないですね」
「半分こできるからな」
弥助は肉まんを割って、片方を悠斗に差し出した。
悠斗は受け取った。
温かい。
「孤独の正体、見えたか?」
弥助が聞いた。
「少しだけ」
「言うてみ」
「孤独は、人がいないことだけじゃない。本当のことを置ける場所がないことかもしれません」
弥助は満足そうに頷いた。
「ええな」
「あと、誰にも見られていないと感じること」
「うん」
「助けてと言えないこと。大丈夫じゃないのに、大丈夫なふりをすること」
「うん」
「佐原が今日休みました。昔の自分みたいで、少し気になって」
「連絡したか」
「はい。返信不要で、休んでいいって」
「ええやん」
弥助は肉まんをかじった。
「兄ちゃん、戻れる場所を作ろうとしてるな」
「村瀬さんにも同じようなことを言われました。逃げ場所じゃなくて、戻れる場所を作れって」
「村瀬、ええこと言うやん」
「はい」
悠斗は肉まんの湯気を見つめた。
「戻れる場所って、何なんでしょう」
「本音を置いても、全部壊れへん場所や」
弥助は言った。
「弱音を吐いても、終わりにならん場所。失敗しても、また来てええ場所。泣いても、怒っても、迷っても、人間扱いしてもらえる場所や」
悠斗は胸が熱くなった。
自分はずっと、そんな場所がほしかった。
でも同時に、自分が誰かにとってそんな場所になれるとは思っていなかった。
「俺に作れますか」
「作ろうと思った時点で、少しできとる」
弥助は言った。
「完璧な場所はいらん。『ここでは少しだけ本当のことを言ってもええ』と思える隙間を作ればええ」
隙間。
それなら、自分にもできるかもしれない。
佐原に送った短いメッセージ。
山口さんへの「無理しないでください」。
西野への送り出す言葉。
それらは、小さな隙間だったのかもしれない。
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
『第二十三の宿題。優しさは弱さじゃない、と証明しろ。』
悠斗は紙を見つめた。
「優しさは弱さじゃない……」
「兄ちゃん、優しい人間は損をすると思ってたやろ」
「思ってました」
「優しいから傷つく。優しいから利用される。優しいから負ける。そう思ってた」
「はい」
「でも、ほんまの優しさは弱さやない」
弥助は立ち上がった。
「次は、それを自分で証明せえ」
翌朝、佐原は出社した。
顔色は少し悪かったが、昨日より目が落ち着いていた。
悠斗の席に来ると、深く頭を下げた。
「昨日はすみませんでした」
悠斗は、すぐに言った。
「休んでいい日だったんだと思う」
佐原は顔を上げた。
「でも、入ってすぐなのに」
「入ってすぐだから、余計に疲れる」
佐原は黙った。
「今日、無理に全部取り返そうとしなくていい。午前中は昨日の分を一緒に整理しよう」
佐原の目が少し揺れた。
「……ありがとうございます」
その声は、小さかった。
でも、少しだけ本当の声に聞こえた。
昼休み、佐原がぽつりと言った。
「昨日、朝起きたら会社に行くのが怖くなりました」
「うん」
「前の会社を辞めた時みたいになるんじゃないかって思って」
「うん」
「また逃げるのかって、自分で自分に言ってました」
悠斗は、ゆっくり言った。
「怖くなったことと、逃げることは同じじゃないよ」
佐原は黙った。
「怖いって言えたなら、それは戻る準備だと思う」
佐原は目を伏せた。
涙をこらえているようだった。
「朝倉さんは、どうしてそんなこと言えるんですか」
悠斗は少し笑った。
「俺も、同じような場所で何度も止まったから」
それ以上は言わなかった。
でも、佐原は小さく頷いた。
その日の夜、悠斗はノートに書いた。
『孤独の正体。
人がいないことだけじゃない。
本当のことを置ける場所がないこと。
弱音を吐いたら終わると思ってしまうこと。
誰にも見られていないと感じること。
戻れる場所がないと思うこと。』
続ける。
『僕は、誰かの孤独を全部消すことはできない。
でも、少しだけ本当のことを置ける隙間なら作れるかもしれない。
佐原にとって、そんな隙間を作れたらいい。
昔の僕が欲しかった場所を、今度は誰かに渡せたらいい。』
小説ノートを開き、今日の一文を書く。
『男は、孤独とは一人でいることだと思っていた。
けれど本当は、胸の奥にある言葉をどこにも置けないことが、孤独の正体だった。』
ペンを置く。
机の上の白い花は、そろそろ終わりに近づいていた。
でも、最後まで咲いている。
悠斗はその花を見ながら思った。
孤独は消えない日もある。
でも、少し薄くすることはできる。
誰かの名前を呼ぶこと。
大丈夫じゃない人に気づくこと。
戻れる場所を作ること。
それらは全部、小さな優しさだ。
そして次の宿題は、その優しさが弱さではないと証明することだった。
遠回りした道は、また次の曲がり角へ続いている。
悠斗は、静かにノートを閉じた。
第22話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「孤独の正体」でした。
孤独は、人がいないことだけではありません。
本当のことを置ける場所がないこと。
弱音を吐いたら終わると思ってしまうこと。
戻れる場所がないと感じること。
悠斗は、新人の佐原と向き合いながら、自分が昔ほしかった場所を、今度は誰かに作ろうとし始めます。
次回は、第23話「優しさは弱さじゃない」へ続きます。




