第19話 夢を語るのが怖い
第18話では、悠斗が「笑えなくなった理由」を探しました。
ちゃんとしなきゃ。
迷惑をかけちゃいけない。
成功してからじゃないと笑ってはいけない。
そんな思い込みの中で、悠斗は少しずつ笑う余白を失っていました。
今回の第19話では、悠斗が「夢を語るのが怖い理由」と向き合います。
夢を口にするのは、叶えることより先に、自分の弱さを見せることなのかもしれません。
朝倉悠斗は、ノートの白いページを前にして、しばらくペンを動かせずにいた。
ページの一番上には、昨夜書いたばかりの宿題がある。
『第十九の宿題。夢を語るのが怖い理由を書け。』
夢。
その言葉は、悠斗にとって、昔は光に近いものだった。
小説家になりたい。
自分の書いた物語を、誰かに読んでもらいたい。
知らない誰かの心に、自分の言葉が届いたらいい。
そう思っていた頃の自分は、恥ずかしいくらい真っ直ぐだった。
大学時代、喫茶店の窓際でノートを広げ、登場人物の名前を考えているだけで夜が更けた。物語の世界の地図を書き、主人公の過去を考え、結末の台詞を何度も書き直した。
誰に頼まれたわけでもない。
お金になる保証もない。
それでも、書いている時間だけは、心が息をしていた。
でも今は、その夢を語るだけで怖い。
小説を書きたい。
いつか誰かに読んでもらいたい。
そう口にするだけで、胸の奥が縮む。
笑われる気がする。
今さらと言われる気がする。
三十五歳にもなって何を言っているんだと思われる気がする。
才能がないくせに、と自分で自分を責める声が聞こえる。
悠斗はペンを握り、ゆっくり書き始めた。
『夢を語るのが怖い理由。
一、笑われるのが怖い。
二、失敗した時に恥ずかしい。
三、本気になって駄目だった時、もう言い訳ができなくなる。
四、今さらと言われるのが怖い。
五、自分に才能がないとわかるのが怖い。』
五つ書いただけで、胸が重くなった。
特に三つ目。
本気になって駄目だった時、もう言い訳ができなくなる。
それが一番近い気がした。
小説を書いていない間、悠斗はどこかで逃げ道を残していた。
本当は書けばできたかもしれない。
仕事が忙しかっただけだ。
環境が整わなかっただけだ。
タイミングが悪かっただけだ。
そう思っていられるうちは、夢は傷つかない。
でも、本気で書いて、本気で誰かに読ませて、それで駄目だったら。
才能がないと知ってしまう。
夢が本当に終わってしまう。
それが怖かった。
悠斗はペンを止めた。
窓の外はまだ暗い。
朝になる少し前の、青い時間だった。
眠れずに起きて、ノートを開いたのだ。
今日は、恒一と会う約束があった。
ラーメンではない。
恒一の家の近くの公園で、少しだけ話す約束だった。
恒一が子供を連れてくると言っていた。
悠斗は、少し緊張していた。
友人の子供に会うこと。
それ自体が嫌なわけではない。
むしろ楽しみでもある。
けれど同時に、自分にはない未来をまた見せられる気もして、胸がざわつく。
それでも、前の悠斗とは少し違った。
羨ましさがあっても、祝える。
ざわついても、そこに近づける。
それを少しずつ学んできたからだ。
朝、悠斗はいつものコンビニに寄った。
山口さんがレジにいた。
「おはようございます」
「おはようございます、山口さん」
悠斗はお茶と小さなチョコレートを買った。
会計の時、山口さんが聞いた。
「今日はお休みですか?」
「はい。友人に会いに行きます」
「いいですね」
「友人の子供にも会うので、少し緊張してます」
「子供、苦手なんですか?」
「苦手というか……どう接したらいいかわからなくて」
山口さんは笑った。
「子供って、意外と大人の正解を求めてないですよ」
「そうなんですか?」
「はい。ちゃんと遊んでくれるかとか、ちゃんと見てくれるかとか、たぶんそういう方が大事です」
悠斗は、その言葉を胸に置いた。
正解を求めていない。
子供も、友人も、夢も、もしかしたらそうなのかもしれない。
正しい形になることより、ちゃんと向き合うこと。
「ありがとうございます」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
店を出て、電車に乗った。
土曜日の午前中。
車内には家族連れが多かった。
小さなリュックを背負った子供。
ベビーカーを押す母親。
眠そうな父親。
悠斗はその光景を見ながら、胸が少しだけざわつくのを感じた。
でも、そのざわつきは以前ほど鋭くない。
羨ましい。
でも、微笑ましい。
欲しかった。
でも、誰かの幸せを壊したいわけではない。
感情は一つではない。
それを受け入れられるようになっただけで、世界は少し優しく見えた。
駅に着くと、恒一が改札の前に立っていた。
隣には、小さな女の子がいる。
三歳くらいだろうか。
赤い靴を履き、片手に小さなぬいぐるみを抱えている。
「悠斗!」
恒一が手を振った。
「おつかれ」
「紹介するわ。上の子の陽菜」
陽菜は、父親の足に隠れるようにしながら、悠斗を見上げた。
「こんにちは」
悠斗が少し緊張しながら言うと、陽菜は小さな声で言った。
「こんにちは」
その声があまりにも小さくて、悠斗は少し笑ってしまった。
恒一が言う。
「こいつ、人見知りだけど、公園行ったらすぐ慣れると思う」
三人で公園へ向かった。
天気はよく、空は薄い青だった。
公園には親子連れが多く、滑り台やブランコから子供たちの声が響いている。
陽菜は最初、恒一の手を握っていたが、砂場を見ると少しずつ足が速くなった。
「おすなば」
「行ってこい」
恒一が言うと、陽菜は砂場へ駆けていった。
悠斗は少し離れたベンチに座った。
恒一が隣に座る。
「どうだ、子供」
「小さいな」
「感想それ?」
「いや、なんか……本当に小さい」
恒一は笑った。
「最初は俺もそう思った。こんな小さいの守れるのかって」
砂場で陽菜がしゃがみ込み、小さなスコップで砂をすくっている。
悠斗はその姿を見ながら言った。
「恒一、父親なんだな」
「一応な」
「すごいな」
「すごくないよ。毎日負けてる」
「この前も言ってたな」
「うん。でも、負けても戻る練習してる」
その言葉が、悠斗の胸に残った。
負けても戻る練習。
陽菜が砂を持って戻ってきた。
「パパ、ケーキ」
手のひらに、砂のかたまりを乗せている。
恒一は真剣な顔で受け取った。
「おお、ケーキか。うまそうだな」
陽菜は悠斗の方を見る。
そして、小さな手で砂を差し出した。
「おじちゃんも」
おじちゃん。
悠斗は一瞬固まった。
恒一が吹き出す。
「おじちゃんだって」
「笑うな」
悠斗は砂のケーキを受け取るふりをした。
「ありがとう。おいしそうだね」
陽菜は少し得意げに笑った。
その笑顔を見た瞬間、悠斗の胸が柔らかくなった。
子供は、大人の完璧さなんて求めていない。
ただ、自分が作った砂のケーキを見てくれる人がいれば嬉しいのだ。
それは、大人も同じなのかもしれない。
自分が作ったもの。
自分の小さな夢。
それを笑わずに見てくれる人がいれば、人は少し救われる。
しばらく陽菜と砂場で遊んだあと、恒一が飲み物を買いに行った。
陽菜は悠斗の隣で、ぬいぐるみを抱えて座っている。
「おじちゃん、なにしてるひと?」
突然聞かれて、悠斗は少し戸惑った。
「え?」
「おしごと」
「ああ。会社で働いてるよ」
「ふーん」
陽菜はぬいぐるみの耳を触りながら言った。
「パパはね、パソコンしてる」
「そうなんだ」
「おじちゃんもパソコン?」
「うん。パソコンもする」
「すき?」
その質問に、悠斗は少し言葉を失った。
仕事が好きか。
それとも、パソコンが好きか。
いや、陽菜はきっとそんな細かいことを聞いているのではない。
好き?
その単純な問いが、悠斗の胸に刺さった。
好きなもの。
自分は今、それをちゃんと言えるだろうか。
「パソコンで、文章を書くのは好きかな」
悠斗は言った。
陽菜は首を傾げた。
「ぶんしょう?」
「お話を書くこと」
「おはなし?」
「うん。物語」
陽菜の目が少しだけ輝いた。
「おじちゃん、おはなしつくれるの?」
悠斗は息を止めた。
小さな子供の、純粋な問い。
そこには、才能があるのかとか、仕事になるのかとか、今さらなのかとか、そういう大人の物差しはなかった。
ただ、作れるの? と聞いている。
悠斗は、少しだけ笑った。
「まだ練習中だけど、作ってる」
「すごい」
陽菜は素直に言った。
悠斗の胸が熱くなった。
すごい。
その言葉が、こんなにまっすぐ届くとは思わなかった。
陽菜はさらに聞いた。
「どんなおはなし?」
悠斗は少し迷った。
夢を語るのが怖い理由。
今まさに、その宿題の真ん中にいる。
相手は三歳の子供だ。
難しいことを言ってもわからないだろう。
でも、だからこそ、余計な飾りはいらないのかもしれない。
「迷子になった男の人が、自分の大事なものを探しに行く話」
陽菜は真剣な顔で聞いている。
「みつかる?」
悠斗は少し考えた。
「少しずつ見つかる」
「よかった」
陽菜は安心したように笑った。
それだけだった。
でも悠斗には、その短いやり取りが大きかった。
自分の夢を、少しだけ語れた。
物語を書いていると言えた。
笑われなかった。
今さらとも言われなかった。
ただ、「すごい」と言われた。
恒一が戻ってきた。
「何話してたんだ?」
陽菜が言う。
「おじちゃん、おはなしつくるの」
恒一は悠斗を見て、にやりと笑った。
「ほう」
「茶化すなよ」
「茶化してない。いいじゃん」
悠斗は少し照れた。
公園のベンチで、友人とその子供の前で、自分が物語を書いていると話す。
それは小さなことかもしれない。
でも、悠斗にとっては大きな一歩だった。
午後、公園を出る時、陽菜が手を振った。
「おじちゃん、またおはなししてね」
悠斗は胸がいっぱいになった。
「うん。またね」
恒一と別れたあと、悠斗は駅へ向かいながらノートを開きたくなった。
近くの喫茶店に入り、窓際の席に座る。
コーヒーを注文し、ノートを広げた。
『夢を語るのが怖い理由。』
朝に書いた五つの理由の下に、続きを書く。
『でも今日、陽菜ちゃんに「お話を作ってる」と言えた。
笑われなかった。
すごいと言ってくれた。
どんな話か聞いてくれた。
迷子になった男の人が、大事なものを探しに行く話だと言った。
少しずつ見つかると言ったら、よかったと言ってくれた。』
書きながら、悠斗は涙が出そうになった。
子供の何気ない言葉。
でもそれは、悠斗の奥に眠っていた夢を、そっと撫でてくれたようだった。
夢を語るのが怖いのは、夢が大事だからだ。
どうでもいいものなら、笑われても傷つかない。
大事だから、怖い。
大事だから、隠したくなる。
大事だから、誰かに見せる時、手が震える。
悠斗はさらに書いた。
『夢を語るのが怖いのは、夢がまだ生きているからだ。
死んだものなら、怖くない。
どうでもいいものなら、傷つかない。
怖いということは、まだ大事にしているということだ。』
その一文を書いた時、胸の奥で何かがほどけた。
怖さは敵ではないのかもしれない。
怖さは、大事なものがそこにある証拠なのかもしれない。
夕方、悠斗は父にメッセージを送った。
『今日、友人の子供に、小説を書いてるって話した。少しだけだけど。』
父からの返信は少し遅れて来た。
『そうか。人に話せたなら、一歩進んだな。』
悠斗はスマートフォンを見つめた。
一歩進んだ。
父からそんな言葉をもらう日が来るとは思わなかった。
『うん。怖かったけど、話せた。』
送ると、父からまた短く返ってきた。
『怖くても話せたなら、それでいい。』
悠斗は少し笑った。
不器用だが、確かに父の応援だった。
夜、いつものバス停へ行くと、弥助がベンチでラムネを飲んでいた。
「今日はラムネですか」
「夢を語る日はラムネや」
「なぜ?」
「子供の頃の味やからや」
悠斗は隣に座った。
「夢、語れたか?」
「少しだけ」
「誰に?」
「恒一の子供に」
弥助は目を丸くしたあと、笑った。
「ええ相手やな」
「三歳の女の子です」
「夢を最初に聞いてもらうには最高や」
「そうなんですか?」
「子供はな、夢を大人の物差しで測らん」
悠斗は頷いた。
「お話を作ってるって言ったら、すごいって言ってくれました」
「それだけで十分や」
「どんな話か聞かれて、迷子になった男の人が、大事なものを探しに行く話って言いました」
「それ、兄ちゃんの話やな」
「たぶん」
悠斗は少し笑った。
「夢を語るのが怖い理由、少しわかりました」
「何や」
「大事だから怖いんだと思います」
弥助は黙って聞いていた。
「どうでもいいものなら、笑われても傷つかない。でも小説は、まだ大事だから怖い。怖いってことは、まだ夢が生きてるってことなのかもしれません」
弥助は満足そうに頷いた。
「大正解や」
「今日は大正解なんですね」
「ええ答え出したからな」
弥助はラムネの瓶を掲げた。
「夢はな、叶える前にまず守るもんや」
「守る?」
「笑われても、今さらでも、下手でも、誰にも求められてなくても、自分だけはその夢を雑に扱わん。まず守る」
悠斗は胸にその言葉を置いた。
夢を守る。
叶えるより前に。
成功するより前に。
自分が、自分の夢を笑わないこと。
「次の宿題や」
弥助が紙切れを渡した。
『第二十の宿題。自分を許す日を決めろ。』
悠斗は息を止めた。
「自分を許す日……」
「兄ちゃんは、いろんな人に謝ってきた。父親にも、美月にも、自分の昔にも」
「はい」
「でも、まだ自分を許してへんやろ」
悠斗は黙った。
確かに、そうだった。
謝った。
感謝した。
夢を語った。
でも、自分自身を許せたかと言われると、まだわからない。
夢から逃げた自分。
美月を傷つけた自分。
父から逃げた自分。
友人の幸せを祝えなかった自分。
笑えなくなった自分。
それらを、まだ完全には許せていない。
「許すって、どうすればいいんですか」
「それを考えるのが次の宿題や」
弥助は立ち上がった。
「でもな、許す日は勝手に来るもんやない。自分で決めるんや」
家に帰ると、悠斗は机に向かった。
今日のことを書く。
『夢を語るのが怖い理由。
大事だから怖い。
笑われたら傷つくくらい、まだ大事だから。
失敗したら苦しいくらい、まだ諦めきれていないから。
怖さは、夢が生きている証拠かもしれない。』
少し間を置いて、続ける。
『夢は、叶える前に守るもの。
自分だけは、自分の夢を笑わない。
下手でも、今さらでも、一文ずつでも、書いている自分を馬鹿にしない。』
書き終えると、悠斗は小説ノートを開いた。
夢を拾いに行った男の物語。
今日の一文を書く。
『男は、夢を語るのが怖かった。
けれど、その怖さは、夢がまだ胸の奥で息をしている証拠だった。』
悠斗はペンを置いた。
机の上の歩の駒を見つめる。
一歩ずつ。
本当に一歩ずつだ。
でも今日は、夢のことを少しだけ語れた。
それだけで、確かに進んだ。
窓の外では、夜の街が静かに眠っている。
悠斗はノートを閉じ、そっと手を置いた。
次の宿題は、自分を許す日。
それはきっと、今までで一番難しい宿題になる。
でも、逃げたくはなかった。
遠回りした道の途中で、悠斗はようやく、自分の夢を自分で守ろうとしていた。
第19話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「夢を語るのが怖い」でした。
夢を語るのが怖いのは、その夢がまだ大切だから。
笑われたら傷つくくらい、まだ胸の中で生きているから。
悠斗は、恒一の子供・陽菜に「お話を作っている」と話すことで、小さな一歩を踏み出しました。
夢は、叶える前にまず守るもの。
次回は、第20話「自分を許す日」へ続きます。




