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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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18/30

第18話 笑えなくなった理由

第17話では、悠斗が“負け続けた男たち”の話を聞きました。


父親として迷う恒一。

親との後悔を抱える村瀬。

夢を諦めた父。

そして、何度も逃げてきた悠斗自身。


今回の第18話では、悠斗が「いつから笑えなくなったのか」を探していきます。


笑えなくなった理由を知ることは、もう一度笑える自分を取り戻すための一歩なのかもしれません。

朝倉悠斗は、鏡の中の自分を見つめていた。


 朝の洗面所。


 白い蛍光灯の下に映る自分の顔は、まだ少し眠そうで、目の下には薄い隈があった。


 けれど、以前とは少し違う。


 口元が、ほんのわずかに緩んでいる。


 それに気づいて、悠斗は少し驚いた。


 笑っている、というほどではない。


 でも、完全に硬い顔ではなかった。


 思えば、最近少しずつ笑うことが増えていた。


 恒一とラーメン屋で笑った。


 西野と会社で軽口を言い合った。


 山口さんとの朝のやり取りで笑った。


 弥助の妙な例えに呆れながら笑った。


 父から不器用なメッセージが来て、少し笑った。


 それは、昔の悠斗にとって当たり前だったはずのことだ。


 でも、ここ数年の悠斗には、笑うことが難しかった。


 声を出して笑うことはあっても、それは場を持たせるためだった。


 誰かに心配されないように。


 気まずくならないように。


 大丈夫なふりをするために。


 本当に心から笑った記憶は、ずいぶん遠くにあった。


 福神弥助から渡された宿題。


『第十八の宿題。笑えなくなった理由を探せ。』


 悠斗は、洗面台の横に置いていた紙切れを見た。


 笑えなくなった理由。


 それは、すぐに答えが出るものではなかった。


 夢を諦めたからか。


 美月と別れたからか。


 仕事で自信をなくしたからか。


 父に認めてほしかった気持ちを押し込めたからか。


 それとも、もっと前からなのか。


 悠斗は顔を洗い、タオルで拭いた。


 鏡の中の自分に向かって、小さく言った。


「いつからだろうな」


 返事はない。


 けれど今日は、その問いから逃げずに過ごしてみようと思った。


 会社へ向かう途中、いつものコンビニに寄った。


 山口さんがレジにいた。


「おはようございます」


「おはようございます、山口さん」


 悠斗はお茶とパンを買った。


 会計を終えると、山口さんがふと笑った。


「朝倉さん、最近よく笑うようになりましたね」


 悠斗は驚いた。


「そうですか?」


「はい。最初の頃は、いつもすごく疲れた顔をしていました」


「そんなに?」


「はい。声をかけても、心だけ別の場所にあるみたいでした」


 山口さんは少し申し訳なさそうに笑った。


「すみません、変なこと言って」


「いえ。たぶん、その通りです」


 悠斗はレシートを受け取りながら言った。


「今、ちょうど笑えなくなった理由を探してるところで」


「え?」


「いや、変な話ですよね」


 山口さんは少し考えたあと、優しく言った。


「笑えない時って、心が休めてない時かもしれないですね」


「心が休めてない?」


「はい。私も前に、何を見ても笑えない時期があって」


 山口さんはレジの横に視線を落とした。


「その時は、ずっと自分に“ちゃんとしなきゃ”って言ってました」


 悠斗は、その言葉に胸を突かれた。


 ちゃんとしなきゃ。


 自分もずっと言っていた。


「ちゃんと働かなきゃ。ちゃんと笑わなきゃ。ちゃんと人に迷惑かけないようにしなきゃ。そう思ってる時ほど、全然笑えなかったです」


 山口さんは少し照れたように笑った。


「朝から重い話しちゃいましたね」


「いえ。ありがとうございます」


 悠斗は頭を下げた。


「すごく、わかる気がします」


 コンビニを出ると、朝の空気が少し冷たかった。


 ちゃんとしなきゃ。


 その言葉が、悠斗の中で何度も響いた。


 笑えなくなった理由。


 もしかしたら、その一つは「ちゃんとしなきゃ」にあったのかもしれない。


 ちゃんとした社会人。


 ちゃんとした息子。


 ちゃんとした恋人。


 ちゃんとした大人。


 ちゃんとした三十五歳。


 そのどれにもなれない自分を責め続けて、心が休む場所を失った。


 笑うには、少し余白がいる。


 心に隙間がないと、人は笑えない。


 悠斗は駅へ向かいながら、そんなことを考えた。


 会社では、提案の正式な結果がまだ出ていなかった。


 先方からは前向きな反応があったものの、社内検討に時間がかかっている。


 悠斗は落ち着かない気持ちを抱えながら、別の資料を進めていた。


 西野がコーヒーを持ってやってきた。


「朝倉さん、これ」


「ありがとう」


「提案結果、気になりますね」


「気になる」


「でも、あの資料なら大丈夫だと思います」


「そう言ってもらえると助かる」


 西野は自分の席に戻ろうとして、ふと足を止めた。


「朝倉さん、今日ちょっと考え事ですか?」


「わかる?」


「はい。最近の朝倉さんはわかりやすいです」


「それ、いいことなのかな」


「いいことだと思います」


 西野は笑った。


「前はわかりにくすぎました」


 悠斗も少し笑った。


「今、笑えなくなった理由を考えてる」


「また深い宿題ですね」


「弥助さんから」


「やっぱり」


 西野は慣れたように頷いた。


「朝倉さんが笑えなくなった理由、僕が言っていいですか?」


「え、わかるの?」


「たぶん一つは、ずっと自分に厳しすぎたからです」


 悠斗は黙った。


「朝倉さん、前は何かあるたびに、自分を責める方向に持っていってました。ミスしても、誰かに助けられても、褒められても」


「褒められても?」


「はい。褒められると、嬉しそうにするより先に“でもまだ足りない”って顔してました」


 悠斗は苦笑した。


 心当たりがありすぎた。


「笑えないですよ、ずっと自分に駄目出ししてたら」


 西野の言葉は、やけに真っ直ぐだった。


「西野もある?」


 悠斗が聞くと、西野は少し考えた。


「あります。僕の場合は、期待される自分を演じすぎると笑えなくなります」


「期待される自分」


「はい。明るい後輩、仕事ができる若手、気が利くやつ。そう見られるのは嬉しいんですけど、ずっとやってると疲れます」


 西野は笑った。


「だから最近は、少しだけ疲れた顔も出すようにしてます」


「それでいいと思う」


「朝倉さんに言われると説得力ありますね」


「俺も練習中だけど」


 二人は笑った。


 その笑いは、小さかったが、自然だった。


 昼休み、悠斗は公園のベンチでノートを開いた。


 今日のページに書く。


『笑えなくなった理由。』


 その下に、まず山口さんの言葉を書く。


『心が休めていなかった。

 ちゃんとしなきゃ、と思いすぎていた。』


 次に、西野の言葉を書く。


『自分に厳しすぎた。

 ずっと自分に駄目出ししていた。』


 悠斗はペンを止めた。


 どちらも、胸に刺さる。


 笑えなくなった理由は、何か一つの大きな出来事ではなく、小さな積み重ねだったのかもしれない。


 夢を諦めた日。


 美月と別れた日。


 父の言葉に傷ついた日。


 仕事で怒られた日。


 友人の幸せを見て落ち込んだ日。


 そういう日々の中で、悠斗は少しずつ自分に命令するようになった。


 ちゃんとしろ。


 迷惑をかけるな。


 期待に応えろ。


 弱音を吐くな。


 夢を見るな。


 嫉妬するな。


 泣くな。


 笑っている場合じゃない。


 そうやって、自分の心から余白を奪っていった。


 悠斗はさらに書いた。


『僕は、自分に笑う許可を出していなかったのかもしれない。

 まだ成功していないから。

 まだちゃんとしていないから。

 まだ誰かに認められていないから。

 まだ普通になれていないから。

 笑ってはいけないと思っていた。』


 書いた瞬間、胸が苦しくなった。


 笑ってはいけない。


 そんなふうに思っていたつもりはなかった。


 でも、心のどこかでそう決めていたのかもしれない。


 幸せになってから笑おう。


 成功してから笑おう。


 認められてから笑おう。


 何者かになってから笑おう。


 そうしているうちに、笑うタイミングを失った。


 公園の向こうで、小さな子供が鳩を追いかけていた。


 鳩は迷惑そうに飛び、子供は声を上げて笑っている。


 理由なんてなさそうな笑いだった。


 ただ、楽しいから笑っている。


 悠斗はその姿を見つめながら、小さく息を吐いた。


 昔の自分も、あんなふうに笑えていたのだろうか。


 思い出す。


 高校時代、恒一とくだらないことで笑っていた。


 大学時代、徹夜で小説の設定を考えて、自分で作った変な登場人物に笑った。


 美月と暮らしていた頃、味噌汁の味が薄すぎて二人で笑った。


 父とキャッチボールをして、ボールを変な方向に投げてしまい、母が笑った。


 笑っていた時間は、確かにあった。


 それを完全に失ったわけではなかった。


 午後、悠斗は仕事の合間に恒一へメッセージを送った。


『俺が笑えなくなった理由って何だと思う?』


 すぐに返信が来た。


『急に重い。でも答える』


 少しして、次のメッセージ。


『お前、昔から考えすぎると笑えなくなる。あと、自分を責め始めると顔が死ぬ』


 悠斗は思わず笑った。


『顔が死ぬって』


『事実だ。高校の時、模試の結果悪かった時もそうだった』


 さらに続く。


『でも、お前が一番笑ってたのは、好きなものの話してる時だと思う。小説とか、変な設定とか、誰も聞いてないのに熱く語ってた時』


 悠斗は画面を見つめた。


 好きなものの話をしている時。


 美月も同じことを言っていた。


 小説の話をしている時、目が生きている。


 悠斗は返した。


『好きなものを隠すようになってから、笑えなくなったのかも』


 恒一から返信。


『それはあると思う。好きなもの隠してる人って、だいたい顔が固い』


 悠斗は静かに息を吐いた。


 好きなものを隠す。


 それもまた、笑えなくなった理由だった。


 小説が好きだった。


 物語を考えるのが好きだった。


 言葉を書くのが好きだった。


 でも、それを恥ずかしいものにした。


 夢を持っている自分を子供っぽいと思い、隠した。


 好きなものを隠すと、笑顔も一緒に隠れてしまうのかもしれない。


 夜、会社を出る頃には、提案結果の連絡が来ていた。


 村瀬がチームに告げた。


「例の提案、次の詳細検討に進むことになった」


 西野が小さくガッツポーズをした。


「やりましたね、朝倉さん」


 悠斗は胸が熱くなった。


 契約決定ではない。


 まだ次に進んだだけだ。


 でも、確かな一歩だった。


 村瀬が言った。


「朝倉、次も頼むぞ」


「はい」


 その返事には、以前より少し力が入っていた。


 会社を出ると、夜風が冷たかった。


 それでも悠斗の足取りは軽かった。


 いつものバス停へ向かう。


 福神弥助は、ベンチに座って笑っていた。


 ひとりで。


「何笑ってるんですか」


「笑う練習や」


「怪しすぎます」


「怪しいおっさんにも笑う権利はある」


 悠斗は隣に座った。


「で、笑えなくなった理由、見つけたか?」


「いくつか」


「言うてみ」


 悠斗は指を折るようにして言った。


「心が休めてなかったこと。ちゃんとしなきゃと思いすぎていたこと。自分に厳しすぎたこと。好きなものを隠していたこと」


 弥助は頷いた。


「ええな」


「あと、笑う許可を自分に出してなかった気がします」


「ほう」


「成功してないから。普通になれてないから。何者にもなれてないから。笑ってる場合じゃないって、どこかで思ってました」


 弥助は静かに聞いていた。


「でも、今日少し思いました。笑うのに、成功してる必要なんてないんですよね」


「当たり前や」


「当たり前なんですけど、忘れてました」


 弥助は缶コーヒーを差し出した。


「飲むか?」


「ありがとうございます」


 悠斗は受け取った。


 温かい缶を両手で包む。


「笑うってな」


 弥助は言った。


「人生に余裕があるから笑うんやない。笑うことで、ほんの少し余裕を作ることもある」


「笑うことで余裕を作る」


「せや。しんどい時ほど、くだらんことで笑える力は大事や」


「弥助さんがいつも変なもの食べてるのも?」


「せや。人生にはたい焼きの腹から食う自由が必要なんや」


 悠斗は思わず笑った。


 声に出して。


 弥助も笑った。


 夜のバス停に、二人の笑い声が小さく響いた。


 たいした話ではない。


 でも、こういうくだらない笑いを、悠斗は長い間忘れていた。


「次の宿題や」


 弥助は紙切れを取り出した。


『第十九の宿題。夢を語るのが怖い理由を書け。』


 悠斗は紙を見つめた。


「夢……」


「好きなものを隠してたから笑えなくなったんやろ」


「はい」


「ほな次は、夢を語るのが怖い理由や」


 悠斗は胸が少し重くなるのを感じた。


 小説を書き始めた。


 父にも、恒一にも、美月にも少し話した。


 でも、本気で夢を語ることはまだ怖かった。


 「小説家になりたい」


 その言葉を、今の自分は言えるだろうか。


 わからない。


「難しいですね」


「難しいで」


 弥助は笑った。


「でも、笑えるようになってきたなら、次は好きなものを声に出す番や」


 家に帰ると、悠斗はノートを開いた。


 今日のページに書く。


『笑えなくなった理由。

 心が休めていなかった。

 ちゃんとしなきゃと思いすぎていた。

 自分に厳しすぎた。

 好きなものを隠していた。

 笑う許可を、自分に出していなかった。』


 少し間を置いて、続ける。


『笑うのに、成功している必要はない。

 普通になれている必要もない。

 何者かになっている必要もない。

 笑える瞬間があるなら、笑っていい。

 くだらないことで笑っていい。

 まだ途中でも、笑っていい。』


 書き終えると、胸が少し軽くなった。


 次に、小説ノートを開く。


 夢を拾いに行った男の物語。


 今日の一文を書く。


『男は、笑う資格がないと思っていた。

 けれど、道端のくだらない冗談に笑った時、自分がまだ生きていることを思い出した。』


 悠斗はペンを置いた。


 窓の外では、夜風が静かに吹いている。


 机の上には、歩の駒。


 文庫本。


 宿題ノート。


 小説ノート。


 そして、飲みかけの缶コーヒー。


 完璧な部屋ではない。


 完璧な人生でもない。


 でも、少しだけ笑える夜だった。


 それだけで、今日という日は悪くなかった。


 翌朝。


 悠斗は鏡の前で、自分の顔を見た。


 昨日より、ほんの少し柔らかく見えた。


 無理に笑う必要はない。


 でも、笑える時は笑っていい。


 そう思えるだけで、朝の空気が少し変わった。


 コンビニに寄ると、山口さんが言った。


「今日、いい顔ですね」


 悠斗は笑った。


「ありがとうございます」


「何かいいことありました?」


 悠斗は少し考えてから言った。


「笑ってもいいって思えました」


 山口さんは少し驚いたあと、柔らかく笑った。


「それは、すごくいいことですね」


「はい」


 悠斗はレシートを受け取りながら、はっきりと言った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 その言葉を背中に受けて、悠斗は朝の街へ歩き出した。


 笑えなくなった理由を知ったからといって、すぐに毎日笑えるわけではない。


 また沈む日もある。


 自分を責める日もある。


 夢を語るのが怖くなる日もある。


 それでも、笑う許可を自分に出せたことは、小さくない一歩だった。


 遠回りした道の途中で、悠斗はまた一つ、失くしていた自分を拾い上げた。


 それは、笑う自分だった。

第18話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「笑えなくなった理由」でした。


ちゃんとしなきゃ。

迷惑をかけちゃいけない。

成功してからじゃないと笑ってはいけない。


そんな思いが積み重なると、人は少しずつ笑えなくなってしまうのかもしれません。


悠斗は、自分が笑う許可を出せていなかったことに気づきます。


次回は、第19話「夢を語るのが怖い」へ続きます。

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