第17話 負け続けた男たち
第16話では、悠斗が「遠回りの意味」と向き合いました。
遠回りは、ただ遅れた道ではなく、そこでしか見えなかった景色がある道なのかもしれない。
今回の第17話では、悠斗が“勝っているように見える男たち”の負けた話に触れていきます。
父親。
友人。
上司。
そして自分自身。
男たちは、泣かないふりをしながら、何度も負け続けていたのかもしれません。
福神弥助から渡された紙切れには、太い文字でこう書かれていた。
『第十七の宿題。負け続けた男たちに会え。』
朝倉悠斗は、その言葉を何度も読み返していた。
負け続けた男たち。
最初に思い浮かんだのは、恒一だった。
結婚して、子供が二人いて、家族を守っている友人。悠斗から見れば、ずっと“勝っている側”に見えていた男。
けれど恒一は、前に言っていた。
父親になった今も怖いと。
家族を守れるか不安だと。
子供に怒鳴ってしまった夜、自分は父親に向いていないのではないかと思ったと。
次に浮かんだのは、村瀬だった。
厳しい上司。
仕事ができる人。
いつも正しく、迷わず、部下を叱る側の人間。
でも、村瀬にもきっと負けた話がある。
親に会えなかった後悔を、短い言葉ににじませたことがあった。
そして、父。
朝倉誠司。
悠斗にとって長い間、怖くて、強くて、揺れない人だった。
けれど父も、本当は強くあろうとしていただけだった。家族を守るために、自分の弱さを見せず、褒め方も知らず、夢の応援の仕方も知らなかった一人の男だった。
男たちは、勝っているように見える。
けれど、その背中には負けた話がある。
悠斗はノートを開き、ページの上に書いた。
『負け続けた男たち』
その下に、三つの名前を書く。
『恒一。
村瀬さん。
父さん。』
そして少し迷ってから、四つ目の名前を書いた。
『俺。』
書いた瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
自分もまた、負け続けた男だった。
夢から逃げた。
美月から逃げた。
父に本音を言えなかった。
仕事で後輩に嫉妬した。
友人の幸せを祝えなかった。
普通になれない自分を責め続けた。
でも、負け続けたから終わりではなかった。
負けた話をし始めてから、悠斗の人生は少しずつ動き始めた。
その夜、悠斗は恒一にメッセージを送った。
『今度、負けた話だけする会しない?』
すぐに返信が来た。
『何その重い会。行く』
悠斗は笑った。
『ラーメンで』
『結局ラーメンかよ。いいぞ』
そして土曜日の夜。
二人はいつもの駅前のラーメン屋にいた。
店内は湯気と醤油の匂いで満ちていた。カウンターの奥では店主が黙々と麺を茹で、テレビからは野球中継の音が流れている。
恒一はビールを一口飲んで言った。
「で、負けた話だけする会って何?」
「俺もよくわからない」
「主催者がわかってないのかよ」
「弥助さんの宿題」
「ああ、例の変なおっさん」
恒一は妙に納得したように頷いた。
「じゃあ、俺からでいい?」
悠斗は少し驚いた。
「いいのか?」
「うん。最近さ、負けた話をすると少し楽になるってわかったから」
恒一はグラスを置いた。
「俺、こないだ上の子に謝ったんだ」
「怒鳴ったって言ってた時の?」
「そう。牛乳こぼして怒鳴ったやつ」
恒一は苦笑した。
「ずっと気になっててさ。子供はもう忘れてるかもしれないけど、俺は忘れられなくて」
「うん」
「だから寝る前に言ったんだ。あの時、大きな声出してごめんなって」
「子供、何て?」
「最初、きょとんとしてた。それから『パパもこぼしたことある?』って聞いてきた」
悠斗は思わず笑った。
「可愛いな」
「だろ。でも、その時思ったんだよ。子供って、完璧な父親を求めてるわけじゃないのかもって」
「うん」
「俺が謝ったら、子供は許すとか責めるとかじゃなくて、ただ一緒に同じ失敗をした仲間みたいに見てきた」
恒一は少し目を細めた。
「俺、父親として勝とうとしすぎてたのかもしれない」
「勝とう?」
「ちゃんと稼いで、怒らず、頼れて、いつも余裕があって、子供の前では強くて。そういう父親にならなきゃって」
悠斗は黙って聞いていた。
「でも、毎日負けてる。寝不足に負ける。仕事のストレスに負ける。子供の泣き声に余裕なくす。妻の正論に負ける」
「妻の正論は強そうだな」
「めちゃくちゃ強い」
二人は笑った。
恒一は少し真面目な顔になった。
「でもさ、負けた時に謝れる父親の方が、勝ち続ける父親よりいいのかもしれないって思った」
悠斗はその言葉を胸に受け取った。
負けた時に謝れる人。
それは、美月に謝った自分とも重なった。
父と向き合った自分とも重なった。
「俺も、負けた話していい?」
悠斗が言うと、恒一は頷いた。
「もちろん」
「提案資料、うまくいったんだけどさ」
「おお」
「でも、途中で何度も思った。もっと早くこういうふうに仕事できるようになっていればって」
「うん」
「三十五で、ようやく人に頼るとか、相手に伝えるとか、そんなことを覚えてる自分が情けなくなった」
恒一は何も言わずに聞いていた。
「でも、弥助さんに言われた。人生は取り返さなくていいって」
「いい言葉だな」
「うん。でもまだ、取り返したくなる」
「そりゃなるだろ」
恒一は即答した。
「俺だって、もっと若い頃から家事できる男になってればって思うし、もっと早く妻に頼ればよかったって思うし、子供に怒鳴る前に深呼吸できる父親になってたかったって思う」
「恒一でも?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「勝ってる側の男」
「出た」
恒一は笑った。
「俺も負け続けてるよ。ただ、家族がいると負けが見えやすいだけ」
「見えやすい?」
「うん。自分の未熟さが毎日バレる。妻にも子供にも。隠せない」
恒一は少し照れたように言った。
「だから最近は、負けても戻れる人間でいたいと思ってる」
「戻れる人間?」
「怒ったら謝る。失敗したら直す。不安なら相談する。そういうこと」
悠斗は静かに頷いた。
負けても戻れる人間。
それは、とてもいい言葉だった。
勝ち続ける人間ではなく、負けても戻れる人間。
悠斗はノートを出し、その言葉を書き留めた。
恒一が笑う。
「お、採用された」
「いい言葉だったから」
「じゃあ印税くれ」
「ラーメン奢るくらいなら」
「十分だ」
二人はまた笑った。
その夜、悠斗は恒一と別れたあと、バス停へ向かった。
弥助はいなかった。
ベンチの上には、紙切れだけが置かれていた。
『負けた男は、謝れる男になれ。』
悠斗はそれを見て、少し笑った。
「見てたのかよ」
誰もいないバス停で呟く。
風が紙切れを揺らした。
翌週、会社では提案の結果待ちが続いていた。
悠斗は落ち着かない気持ちを抱えながらも、次の仕事に向き合っていた。
午後、村瀬に呼ばれた。
「朝倉、少し時間あるか」
「はい」
二人は小さな会議室に入った。
村瀬は資料を持っていたが、仕事の話ではなさそうだった。
「この前の提案、先方の反応は悪くない」
「本当ですか」
「ああ。まだ確定ではないが、次の打ち合わせに進みそうだ」
悠斗は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
「はい」
村瀬は少し間を置いた。
「ただ、今回のお前はよくやった」
悠斗は言葉を失った。
村瀬から、はっきりそう言われるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
「勘違いするな。まだ詰めは甘い」
「はい」
「だが、前より逃げなくなった」
その言葉に、悠斗は胸を突かれた。
逃げなくなった。
仕事の話で言われているのに、人生全体を見透かされたようだった。
「村瀬さん」
「何だ」
「村瀬さんにも、逃げたことってありますか」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。
村瀬は少し目を細めた。
会議室に沈黙が落ちる。
怒られるかもしれない。
そう思ったが、村瀬は怒らなかった。
むしろ、静かに息を吐いた。
「ある」
その声は低かった。
「親父が入院していた時、仕事を理由にあまり見舞いに行かなかった」
悠斗は黙った。
「忙しかったのは本当だ。大きな案件を抱えていた。俺が抜けると回らないと思っていた」
村瀬は机の上の資料を見つめた。
「でも今思えば、仕事に逃げていたんだろうな」
「逃げていた?」
「弱った親を見るのが怖かった。何を話せばいいかわからなかった。だから仕事を理由にした」
悠斗は、西野の話を思い出した。
父親が倒れて帰るか迷っていた西野。
あの時、村瀬はすぐに「帰れ」と言った。
その言葉の裏には、この後悔があったのか。
「亡くなる前の日も、俺は会社にいた」
村瀬の声は淡々としていた。
けれど、その奥に深い痛みがあった。
「間に合わなかったんですか」
「ああ」
悠斗は何も言えなかった。
「だから、西野には帰れと言った」
村瀬は顔を上げた。
「朝倉、お前もだ。大事な人がいるなら、仕事を言い訳にするな」
「はい」
「仕事は大事だ。だが、仕事は失った時間を返してくれない」
その言葉は、重かった。
村瀬は強い上司ではなかった。
負けた男だった。
大切な人に会いに行けなかった後悔を抱えた男だった。
そして、その後悔があるからこそ、西野を帰らせた。
悠斗は静かに頭を下げた。
「話してくれて、ありがとうございます」
「別に、お前に話すつもりはなかった」
村瀬は少し気まずそうに言った。
「でも、聞かれたからな」
「すみません」
「謝るな」
村瀬は立ち上がった。
「負けた話を持っている上司の言うことも、たまには聞け」
「はい」
会議室を出たあと、悠斗はしばらく廊下に立っていた。
恒一の負けた話。
村瀬の負けた話。
男たちは、みんな何かに負けている。
でも、その負けを隠しているだけだった。
夜、悠斗は実家に電話をした。
父が出た。
「もしもし」
「父さん?」
「ああ」
「今、少し話せる?」
「何だ」
父の声はいつも通り短い。
けれど、以前ほど怖くはなかった。
「父さんにも、負けた話ってある?」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「急に何だ」
「ちょっと、聞いてみたくなった」
父は黙った。
悠斗は、失敗したかもしれないと思った。
でも、電話を切らずに待った。
やがて父が言った。
「たくさんある」
悠斗は息を止めた。
「父さんにも?」
「当たり前だ」
父は少し不機嫌そうに言った。
「人間、そんなに勝てるもんじゃない」
その言葉に、悠斗は少し笑いそうになった。
「どんな負け?」
父はまた少し黙った。
「若い頃、本当は店を持ちたいと思ったことがあった」
「店?」
「小さな喫茶店だ」
悠斗は驚いた。
父の口から、そんな言葉が出ると思わなかった。
「知らなかった」
「言ってないからな」
「どうしてやらなかったの?」
「金がなかった。勇気もなかった。家族もいた」
父は淡々と言った。
「それに、失敗するのが怖かった」
失敗するのが怖かった。
父の口から出たその言葉に、悠斗の胸が震えた。
父も怖かった。
夢を持ち、でも諦めたことがあった。
だからこそ、悠斗の小説家になりたいという夢を聞いた時、怖くなったのかもしれない。
「父さんも、夢があったんだ」
「夢というほど立派なものじゃない」
「でも、あったんだね」
父は小さく息を吐いた。
「まあな」
悠斗はスマートフォンを握りしめた。
「俺、父さんがそんなこと考えてたなんて知らなかった」
「言う必要もなかった」
「でも、聞けてよかった」
電話の向こうで、父が少し黙った。
「お前の小説と同じだ」
「え?」
「やらなかったことは、ずっと残る」
父の声は静かだった。
「だから、お前は書くなら書け」
悠斗は目を閉じた。
「うん」
「失敗しても、書いたなら残る。やらなかった後悔よりはいい」
父の言葉は、不器用で、少し乱暴で、でも今の悠斗にはまっすぐ届いた。
「ありがとう」
「礼を言うことじゃない」
「でも、ありがとう」
電話を切ったあと、悠斗はしばらく動けなかった。
父にも夢があった。
喫茶店を持ちたいという夢。
それを知らずに、悠斗は父を「夢を否定する人」とだけ見ていた。
本当は、父も夢を諦めた男だった。
負け続けた男だった。
その夜、悠斗はバス停へ向かった。
弥助はベンチに座り、缶のおしるこを飲んでいた。
「負けた男たちに会えたか」
弥助が聞いた。
「はい」
「どうやった」
悠斗は隣に座った。
「恒一は、父親として負け続けてました。でも、謝れる父親になろうとしてました」
「うん」
「村瀬さんは、お父さんの最期に間に合わなかった後悔を持ってました。だから西野を帰らせたんだと思います」
「うん」
「父さんにも、夢がありました。喫茶店を持ちたかったって。でもやらなかったって」
弥助は静かに頷いた。
「みんな、負けてました」
「せやな」
「でも、負けたから終わりじゃなかった」
「せや」
「負けた話があるから、誰かに言える言葉があるんですね」
弥助は缶を置いた。
「それが、負け続けた男たちの強さや」
「強さ?」
「勝ちっぱなしの人間は、負けた人間の横に座れんことがある。でも負けを知ってる人間は、黙って隣に座れる」
悠斗は、その言葉を胸に置いた。
負けを知っているから、隣に座れる。
それは、自分がこれからなりたい人間の形に近かった。
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
『第十八の宿題。笑えなくなった理由を探せ。』
悠斗は紙を見つめた。
「笑えなくなった理由……」
「兄ちゃん、昔より笑えるようになったやろ」
「少しは」
「ほな、何で笑えなくなってたのか、探してみろ」
悠斗は考えた。
いつから、自分は心から笑えなくなったのだろう。
仕事を言い訳にし始めた頃か。
夢を諦めた頃か。
美月と別れた頃か。
父に本音を言えなかった頃か。
普通になれない自分を責め始めた頃か。
「難しそうですね」
「難しいで」
弥助は笑った。
「でも大事や。笑えなくなった理由を知ると、何を取り戻せばええかが見えてくる」
家に帰ると、悠斗はノートを開いた。
今日聞いた負けた話を書き出していく。
『恒一。
父親として勝とうとしすぎていた。
でも、負けた時に謝れる父親になろうとしていた。』
『村瀬さん。
親の最期に間に合わなかった後悔がある。
その負けが、西野を帰らせる言葉になった。』
『父さん。
喫茶店を持ちたい夢があった。
でも、やらなかった。
だから俺に、書くなら書けと言った。』
そして最後に、自分のことを書く。
『俺。
たくさん負けた。
でも、負けた話を隠さなくなってから、少しずつ人とつながれるようになった。
負けた男は、終わった男じゃない。
負けた場所から、誰かに渡せる言葉を拾える男だ。』
書き終えると、悠斗は小説ノートを開いた。
夢を拾いに行った男の物語。
今日の一文を書く。
『男たちは負け続けていた。
けれど、負けた話を持つ背中には、誰かを雨から守る小さな屋根があった。』
悠斗はペンを置いた。
机の上には、歩の駒がある。
一歩ずつしか進めない駒。
負け続けた男たちも、きっと一歩ずつしか進めない。
それでも、進む。
謝りながら。
頼りながら。
後悔を抱えながら。
そして、その後悔を誰かへの言葉に変えながら。
悠斗は、少しだけ笑った。
自分もそんな男になりたいと思った。
勝ち続ける男ではなく。
負けても戻れる男に。
負けた人の隣に座れる男に。
遠回りしたぶん、誰かの痛みに気づける男に。
夜は静かだった。
窓の外で風が鳴る。
悠斗はノートを閉じ、机のライトを消した。
明日からは、笑えなくなった理由を探す宿題が始まる。
でも今夜だけは、負け続けた男たちの背中が、少しだけ頼もしく見えた。
第17話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「負け続けた男たち」でした。
勝っているように見える人にも、負けた話があります。
父親として負ける恒一。
親との後悔を抱える村瀬。
夢を諦めた父。
そして、何度も逃げてきた悠斗。
でも、負けた話があるからこそ、誰かの痛みに寄り添えることもあります。
次回は、第18話「笑えなくなった理由」へ続きます。




