第14話 人生は取り返さなくていい
第13話では、悠斗が昔の恋人・美月との過去を、後悔だけではなく感謝として受け止め始めました。
謝ること。
ありがとうを伝えること。
そして、終わった関係の中にも残っている灯りを見つけること。
今回の第14話では、悠斗が「失った時間を取り返さなければ」という焦りと向き合います。
人生は、取り返すものではなく、ここから作っていくものなのかもしれません。
朝倉悠斗は、ノートに書いた一文を何度も読み返していた。
『人生は取り返さなくていい。』
福神弥助から渡された紙切れに書かれていた言葉。
たったそれだけなのに、その言葉は悠斗の胸の奥に深く沈んでいた。
取り返さなくていい。
そう言われた瞬間、少し救われた気がした。
けれど同時に、悠斗の中には別の声もあった。
本当に?
本当に取り返さなくていいのか?
十年以上、小説を書かなかった時間。
美月と向き合えずに終わった恋。
父と本音を話せなかった年月。
仕事で足踏みしていた日々。
友人の幸せを素直に祝えず、距離を置いていた時間。
それらを取り返さなくていいと言われても、簡単には信じられなかった。
失ったものが大きいほど、人は焦る。
遅れたと感じるほど、急いで帳尻を合わせたくなる。
悠斗もそうだった。
小説をまた書き始めた途端、十年分を一気に書かなければと思った。
父と話せた途端、これまでの距離を全部埋めなければと思った。
美月に謝れた途端、あの恋の意味をすぐに綺麗にまとめなければと思った。
でも、人生はそんなふうに一気に整理できるものではない。
悠斗はそれを頭ではわかっていた。
それでも心が急いでしまう。
朝、会社へ向かう電車の中で、悠斗はスマートフォンを開いた。
SNSには、今日も誰かの幸せが並んでいた。
友人の昇進報告。
同級生の子供の七五三の写真。
新築マンションに引っ越したという投稿。
副業で本を出版したという知人の知らせ。
悠斗は以前ほど胸を刺されなくなっていた。
他人の幸せを、自分の不幸の証明にしなくてもいいと少しずつわかってきたからだ。
それでも、焦りは消えなかった。
みんな、ちゃんと進んでいる。
自分は今さらスタート地点に戻っただけではないか。
父に認めてほしかったことに気づいた。
美月に謝れた。
夢をもう一度書き始めた。
でも、それは本来もっと早くできたはずのことではないか。
三十五歳になって、ようやくそんなことをしている自分は、やっぱり遅すぎるのではないか。
電車の窓に映った自分の顔は、少し疲れていた。
悠斗はスマートフォンを閉じ、鞄の中のノートに手を当てた。
取り返さなくていい。
ここから作る。
弥助の声が、頭の中で聞こえた気がした。
会社に着くと、西野が声をかけてきた。
「朝倉さん、おはようございます」
「おはよう」
西野は実家から戻ってきてから、少し雰囲気が変わった。
以前より静かになったわけではない。
けれど、無理に明るく振る舞う感じが少し減った。
焦っている時は焦っている顔をする。
疲れている時は「ちょっと疲れてます」と言う。
それだけで、西野は前より人間らしく見えた。
「昨日、父から電話があって」
西野が言った。
「リハビリ、きついって愚痴ってました」
「そうか」
「父が愚痴るところ、初めて聞きました」
西野は少し笑った。
「ずっと強い人だと思ってたんですけど、普通に弱音吐くんだなって」
「うん」
「でも、少し安心しました。父も人間なんだなって」
その言葉に、悠斗は父の背中を思い出した。
父も人間だった。
強い人ではなく、強くあろうとしていた人。
怖い人ではなく、怖さをうまく言葉にできなかった人。
「朝倉さんのおかげです」
西野が言った。
「俺?」
「帰った方がいいって言ってくれたから」
「俺は少し背中を押しただけだよ」
「その少しが大きかったんです」
西野はそう言って、自分の席に戻った。
その背中を見ながら、悠斗は思った。
自分の遠回りが、誰かの役に立つことがある。
もし自分が父と向き合っていなかったら、西野にあの言葉は言えなかったかもしれない。
もし自分が負けた話をしていなかったら、西野の不安に気づけなかったかもしれない。
遠回りした時間は、全部無駄だったのだろうか。
そうではないのかもしれない。
昼休み、悠斗はいつもの公園でノートを開いた。
今日のページに、こう書く。
『取り返したいもの。』
その下に、思いつくまま書き出した。
『小説を書かなかった十年。
美月と向き合えなかった時間。
父と本音を話せなかった年月。
仕事で挑戦しなかった日々。
友人から逃げていた時間。
自分を嫌っていた時間。』
書いてみると、胸が苦しくなった。
取り返したいものは、こんなにも多かった。
でも、それらを本当に取り返すことはできない。
十年前に戻ることはできない。
美月と別れる前の日に戻ることもできない。
父に小説家になりたいと言ったあの瞬間に戻って、違う言葉を引き出すこともできない。
できない。
それは冷たい事実だった。
でも、そこで終わりではない。
悠斗は次の行に書いた。
『取り返す代わりに、ここから作れるもの。』
少し考えてから、ペンを動かす。
『今日の一文。
父との次の会話。
美月への感謝を忘れないこと。
恒一との次のラーメン。
西野が困った時に声をかけること。
山口さんに名前を呼んでありがとうと言う朝。
部屋に花を飾ること。
自分を責めない夜。』
書いているうちに、胸の奥が少し温かくなった。
取り返せないものはある。
でも、作れるものもある。
その二つを混同していたから、苦しかったのかもしれない。
失った時間を埋めるために今日を使うのではなく、今日を今日として作る。
それが、取り返さなくていいという意味なのかもしれない。
午後、村瀬から声をかけられた。
「朝倉、来週の提案資料、お前がメインで組んでみろ」
悠斗は一瞬、固まった。
「私がですか?」
「そうだ」
「西野ではなく?」
「西野は別案件がある。お前がやれ」
以前の悠斗なら、まず不安が出た。
自分には無理だ。
村瀬に怒られる。
失敗したらどうする。
後輩の方がうまくやれる。
そんな言葉が頭を埋め尽くしたはずだ。
今も不安はあった。
でも、少しだけ違った。
好きにやってみろ。
父の声が浮かんだ。
続けろ。
父からのメッセージが浮かんだ。
人生は取り返さなくていい。
ここから作るんや。
弥助の声が浮かんだ。
「やってみます」
悠斗は言った。
村瀬は少しだけ頷いた。
「不安なところは早めに出せ。抱え込むな」
「はい」
「それと」
「はい」
「最近のお前は、前より資料の芯が見える。自分の言葉で組め」
悠斗は驚いた。
村瀬が褒めた。
いや、褒めたというより、認めた。
胸の奥が熱くなる。
「ありがとうございます」
悠斗は頭を下げた。
席に戻ると、西野がにやにやしていた。
「聞こえましたよ。朝倉さん、メインですね」
「プレッシャーかけるな」
「いや、楽しみです」
「楽しみにされると困る」
「でも最近の朝倉さんの資料、いいです。前より言葉が生きてます」
言葉が生きている。
その言葉に、美月の声が重なった。
「悠斗は、そういう話をしてる時、目がちゃんと生きてる」
悠斗は少しだけ笑った。
自分の言葉が、少しずつ戻ってきているのかもしれない。
夜、悠斗はバス停へ向かった。
福神弥助は、ベンチでなぜかプリンを食べていた。
「今日はプリンですか」
「人生には甘さも必要や」
「たまに普通にいいこと言いますよね」
「たまにやない。常にや」
悠斗は隣に座った。
「取り返さなくていい、考えたか?」
「はい」
「どうやった」
「難しかったです」
「せやろな」
「正直、まだ取り返したい気持ちはあります」
「うん」
「十年書かなかったことも、美月から逃げたことも、父と話せなかった時間も。戻れるなら戻りたいと思います」
「それでええ」
弥助はプリンの蓋を畳んだ。
「取り返さなくていいっていうのは、悔しがるなって意味やない」
「はい」
「戻りたいと思う気持ちまで否定せんでええ。でも、戻れへん場所に向かって走り続けると、今を踏み潰す」
悠斗は静かに頷いた。
「今日、ノートに書きました。取り返したいものと、ここから作れるもの」
「ほう」
「取り返したいものはたくさんありました。でも、ここから作れるものも少しありました」
「何があった?」
「今日の一文。父との次の会話。美月への感謝。恒一との次のラーメン。西野が困った時に声をかけること。山口さんにありがとうを言う朝」
弥助は満足そうに笑った。
「ええやん」
「小さいですけど」
「小さいものを小さいまま大事にできる人間は強い」
弥助はそう言って、空のプリン容器を袋にしまった。
「人生を取り返そうとする人間はな、だいたい焦る」
「はい」
「焦ると、今あるものを雑に扱う。今日の飯、今日の挨拶、今日の一文、今日会えた人。全部、未来の成功のための踏み台にしてしまう」
悠斗は胸が少し痛くなった。
自分もそうだった。
いつかちゃんとするために、今日を我慢する。
いつか成功するために、今の自分を責める。
いつか幸せになるために、今日の小さな幸せを見逃す。
「でもな、幸せは未来にだけあるわけやない」
弥助は言った。
「今日を取り戻すんやなく、今日を生きるんや」
悠斗は、その言葉を胸に置いた。
今日を生きる。
大げさな言葉のようで、今の悠斗には切実だった。
「次の宿題や」
弥助は紙切れを渡した。
そこには、こう書かれていた。
『第十五の宿題。誰かに頼れ。』
悠斗は思わず苦笑した。
「これ、苦手です」
「知っとる」
「ですよね」
「兄ちゃんは、人に頼るくらいなら自分で沈むタイプや」
「ひどい言い方ですね」
「事実や」
否定できなかった。
悠斗はずっと、人に頼るのが苦手だった。
助けてと言うこと。
わからないと言うこと。
不安だと言うこと。
できないと認めること。
それらを全部、負けだと思っていた。
「来週の資料、メインで任されました」
「ほう」
「不安です」
「なら頼れ」
「誰に?」
「おるやろ。西野、村瀬、恒一、父親。必要なら山口さんでもええ」
「コンビニ店員さんに資料相談はしません」
「せやな」
弥助は笑った。
「頼る練習をしろ。全部ひとりでやった成功より、人に頼って作った一歩の方が、兄ちゃんには大事や」
家に帰ると、悠斗は母の弁当の空き容器を洗い、洗濯物を少し畳んだ。
部屋はまだ完璧ではない。
でも、机の上は整っている。
そこに座ると、悠斗はノートを開いた。
『人生は取り返さなくていい。
取り返したいと思う気持ちはある。
でも、戻れない場所に向かって走り続けると、今を踏み潰してしまう。
十年分を今日一日で取り戻さなくていい。
一文でいい。
一回のありがとうでいい。
一人への本音でいい。
今日をちゃんと生きることから、ここからの人生は作られていく。』
悠斗は少し間を置いて、次の宿題を書く。
『誰かに頼れ。』
その下に、頼れそうな人を書き出してみた。
『西野。
村瀬さん。
恒一。
父さん。』
父さん、と書いた自分に少し驚いた。
少し前なら、絶対に書けなかった名前だった。
悠斗はスマートフォンを取り出し、父とのメッセージ画面を開いた。
『来週、仕事で大事な資料を任されました。少し不安です。』
そこまで書いて、送るか迷った。
父に仕事の不安を話すなんて、今までほとんどしたことがない。
けれど、頼る練習。
悠斗は送信した。
返事は十分ほど後に来た。
『不安なのは、ちゃんとやろうとしているからだ。無理せず、でも逃げずにやれ。』
悠斗はその言葉を見て、少し笑った。
父らしい。
厳しい。
でも、温かい。
『ありがとう。やってみる。』
返信する。
その後、恒一にもメッセージを送った。
『今度、仕事の資料で少し相談してもいい? 人に伝える構成を見てもらいたい。』
恒一からはすぐに返事が来た。
『もちろん。俺でよければ見る。お前の小説もそのうち見せろよ』
悠斗は笑った。
頼ることは、思ったより怖い。
でも、頼った瞬間に世界が少し広がる。
ひとりで抱えていた荷物の端を、誰かが少し持ってくれる。
それだけで、歩きやすくなる。
悠斗は小説ノートを開いた。
今日の一文を書く。
『男は、失った時間を取り返そうとして、今日を見失っていた。
けれど、今日の一文を書いた時、人生は過去ではなく、今の手元から始まるのだと知った。』
書き終えると、胸の奥が静かになった。
翌朝、悠斗はいつものコンビニへ寄った。
山口さんがレジにいた。
「おはようございます」
「おはようございます、山口さん」
会計のあと、山口さんが言った。
「今日は少しすっきりした顔ですね」
「昨日、少し考えがまとまりました」
「よかったです」
たったそれだけの会話。
でも、その朝の悠斗には十分だった。
会社に着くと、西野が声をかけてきた。
「朝倉さん、来週の資料、僕も手伝いますよ」
悠斗は一瞬、いつもの癖で「大丈夫」と言いそうになった。
でも、飲み込んだ。
「ありがとう。構成を一緒に見てもらえると助かる」
西野は嬉しそうに笑った。
「もちろんです」
誰かに頼る。
その小さな一歩を、悠斗は踏み出した。
人生は取り返さなくていい。
その代わり、ここから作っていけばいい。
一文ずつ。
一言ずつ。
一人ずつ。
遠回りした道の先で、悠斗はようやく、自分の今日を生き始めていた。
第14話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「人生は取り返さなくていい」でした。
失った時間を取り返そうとすると、人は今を踏み潰してしまうことがあります。
戻れない過去を無理に取り返すのではなく、今日の一文、今日のありがとう、今日の一歩を作っていく。
悠斗は少しずつ、その大切さに気づき始めました。
次回は、第15話「誰かに頼れ」へ続きます。




