第13話 昔の恋人
第12話では、悠斗が「普通」という物差しに縛られていた自分に気づきました。
普通の三十五歳。
普通の社会人。
普通の恋人。
普通の息子。
そのどれにもなれなかったと責め続けてきた悠斗は、自分だけの遠回りを少しずつ受け入れ始めます。
今回の第13話では、元恋人・美月との過去を、後悔だけで終わらせず、感謝へ変えていく物語です。
高瀬美月からの最後のメッセージを、朝倉悠斗は何度も読み返していた。
『うん。ありがとう。悠斗もね。』
短い言葉だった。
けれど、その短さの中に、美月らしい距離の取り方があった。
優しい。
でも、踏み込みすぎない。
受け止める。
でも、自分を守る。
その境界線の引き方が、悠斗には少し眩しかった。
昔の美月は、もっと柔らかい人だと思っていた。
よく笑い、よく泣き、料理が好きで、花が好きで、休日の昼に洗濯物を畳みながら鼻歌を歌うような人。
でも本当は、美月は柔らかいだけではなかった。
ちゃんと芯があった。
自分の寂しさを言葉にできる人だった。
自分を傷つけた相手にも、必要以上に怒りをぶつけず、でも「私は寂しかった」と伝えられる人だった。
悠斗は、その強さを昔は見えていなかったのかもしれない。
美月の優しさに甘えながら、美月の強さには気づかなかった。
いや、気づかないふりをしていた。
彼女の強さに向き合うと、自分の弱さが見えてしまうから。
机の上には、福神弥助から渡された紙切れがあった。
『第十三の宿題。昔の恋人を、過去の人で終わらせるな。感謝に変えろ。』
昔の恋人。
その言葉には、どこか冷たい響きがある。
もう終わった人。
過去に置いてきた人。
今の人生には関係のない人。
けれど本当にそうだろうか。
美月は、悠斗の人生から完全に消えた人ではなかった。
むしろ、今の悠斗の中に確かに残っている人だった。
自分を嫌いすぎていると教えてくれた人。
夢を話す時の自分の目が生きていると覚えていてくれた人。
何も話せない夜に、味噌汁を作ってくれた人。
美月との恋は終わった。
でも、美月がくれたものまで終わらせる必要はない。
悠斗はノートを開いた。
前のページには、こう書いてある。
『美月がくれたもの』
その下に、いくつかの記憶が並んでいた。
味噌汁。
折り畳み傘。
白い花。
夢の話。
自分を嫌いすぎるという言葉。
悠斗はペンを握り、続きを書き始めた。
『美月は、僕に“受け取る”ということを教えようとしてくれていた。
でも僕は、受け取るのが下手だった。
優しさをもらうたびに、申し訳ないと思った。
愛されるたびに、いつか失望されると思った。
だから、先に逃げた。』
書いていて、胸が痛んだ。
でもその痛みは、第11話で謝罪の言葉を書いた時とは少し違っていた。
あの時は、自分の罪悪感に向き合っていた。
今日は、美月がくれたものに向き合っている。
同じ過去を見ているのに、角度が違うだけで、そこに見える景色は変わる。
失敗。
後悔。
傷。
それだけではない。
愛された時間。
支えられた日々。
気づかせてもらった言葉。
それもまた、同じ過去の中にあった。
朝、悠斗はいつものコンビニに寄った。
レジには山口さんがいた。
「おはようございます」
「おはようございます、山口さん」
悠斗はお茶とサンドイッチを買った。
会計を済ませたあと、山口さんがふと聞いた。
「今日は少し考え事ですか?」
悠斗は驚いた。
「顔に出てました?」
「少しだけ」
「最近、よく言われます」
山口さんは笑った。
「悪い顔ではないですよ。何か大事なことを考えてる感じです」
大事なこと。
確かにそうだった。
昔の恋人を、過去の人で終わらせないこと。
それは、他人から見れば小さなことかもしれない。
でも悠斗にとっては、自分の人生をどう抱えるかに関わる大事なことだった。
「ありがとうございます」
悠斗はレシートを受け取った。
「山口さんは、昔の人に感謝したくなることってありますか?」
口にしてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
けれど山口さんは、少し考えるように目を伏せた。
「ありますよ」
「あるんですね」
「昔、すごく苦手だったバイト先の先輩がいたんです。厳しくて、細かくて、当時は嫌いでした」
「はい」
「でも今思うと、その人に教わったこと、今の仕事で結構役に立ってるんです」
山口さんは少し照れたように笑った。
「好きにはなれなかったけど、感謝はしてます」
悠斗は、その言葉に静かに頷いた。
好きにはなれなかったけど、感謝はしている。
そういう形もある。
終わった関係を、全部綺麗な思い出にする必要はない。
嫌だったことは嫌だったままでいい。
苦しかったことは苦しかったままでいい。
それでも、その人が自分に残してくれたものに感謝することはできる。
「いい言葉ですね」
悠斗が言うと、山口さんは首を傾げた。
「そうですか?」
「はい。ありがとうございます」
コンビニを出て、悠斗は駅へ向かった。
電車の中で、美月のことをまた考えた。
美月に対しては、好きにはなれなかったけど感謝している、とは少し違う。
好きだった。
大切だった。
でも、うまく愛せなかった。
そういう人だ。
会社に着くと、西野がすでに席にいた。
実家から戻ってきて二日目。
まだ少し疲れているようだったが、表情は以前より落ち着いている。
「おはようございます、朝倉さん」
「おはよう。お父さん、どう?」
「リハビリ始まりました。母から毎日連絡来ます」
「そっか」
「父と、少し話せました」
西野は照れくさそうに笑った。
「何を?」
「昔、野球の試合に来てくれたことを覚えてるかって聞いたんです。父、覚えてないって言うかと思ったら、全部覚えてました」
「全部?」
「僕がエラーしたことまで」
「それは嫌だな」
「でも、父は『あの日、お前が最後まで泣かずに立ってたのを覚えてる』って言ったんです」
西野の声が少し柔らかくなった。
「僕は、エラーした恥ずかしい記憶として覚えてたんですけど、父は違うところを見てたんだなって」
悠斗は胸が温かくなった。
同じ記憶でも、人によって見ている場所が違う。
自分が失敗だと思っていた場面を、誰かは頑張った場面として覚えていることがある。
父が悠斗の小説を書く姿を覚えていたように。
美月が、悠斗が夢の話をする時の目を覚えていたように。
「よかったな」
悠斗が言うと、西野は頷いた。
「はい。帰ってよかったです」
その言葉を聞いて、悠斗はまた美月のことを思った。
美月と過ごした日々も、悠斗が思っているのとは違う形で、美月の中に残っているのかもしれない。
自分が逃げた恋。
傷つけた恋。
それは事実だ。
でも、美月にとっても、もしかしたら全部が不幸な時間ではなかったのかもしれない。
そう思うことは、自分に都合が良すぎるだろうか。
わからない。
でも少なくとも、悠斗は自分の中にある美月との記憶を、傷だけで終わらせたくなかった。
昼休み、悠斗は公園でノートを開いた。
風は少し冷たかったが、日差しは柔らかかった。
ベンチに座り、コンビニのパンを食べながら、美月がくれたものを書き出していく。
『一、安心できる沈黙。
二、料理を作ってくれる時間。
三、夢を笑わずに聞いてくれたこと。
四、自分を嫌いすぎていると教えてくれたこと。
五、誰かと暮らす未来を少しだけ想像させてくれたこと。』
五つ目を書いた時、悠斗の手が止まった。
誰かと暮らす未来。
美月と付き合っていた頃、悠斗は時々その未来を想像していた。
朝、同じ部屋で目を覚ますこと。
冷蔵庫の中身を相談すること。
休日に洗濯物を干すこと。
喧嘩しても、同じ家に帰ること。
そんな普通の未来が、怖くて、でも欲しかった。
美月がくれたのは、恋愛だけではない。
自分にも誰かと生きる未来があるかもしれない、という想像だった。
悠斗は続けて書いた。
『美月は、僕に未来を想像させてくれた人だった。
その未来から逃げたのは僕だけど、想像できたことまで否定しなくていい。
誰かと暮らすこと。
誰かにただいまと言うこと。
誰かのために味噌汁を作ること。
そういう小さな未来を、僕は本当は欲しがっていた。』
書き終えると、少しだけ涙が滲んだ。
美月に未練があるのか。
それとも、美月が見せてくれた未来に未練があるのか。
その二つは似ているようで違う。
悠斗にはまだ、はっきり分けられなかった。
でも一つだけわかる。
美月に感謝したい。
謝罪だけではなく、ありがとうを伝えたい。
午後、仕事が一段落した頃、美月からメッセージが届いた。
悠斗は心臓が少し跳ねるのを感じた。
『昨日のこと、少し考えていました。
悠斗が謝ってくれたこと、正直ありがたかったです。
あの頃のこと、私もずっと「何だったんだろう」って思っていたから。』
悠斗は画面を見つめた。
美月もまた、あの恋に答えを探していた。
『でも、嫌なことばかりじゃなかったよ。
悠斗と過ごした時間には、楽しかったこともちゃんとありました。
それは伝えておきたいと思いました。』
悠斗の目が熱くなった。
楽しかったこともちゃんとあった。
その一文だけで、救われる気がした。
美月の中でも、二人の時間は傷だけではなかった。
悠斗はすぐには返信できなかった。
廊下に出て、少し落ち着いてから返す。
『そう言ってくれてありがとう。
僕も、楽しかった時間をちゃんと覚えています。
今まで、別れた後悔ばかり見ていたけど、美月がくれたものもたくさんあったと、今さら気づいています。』
少し迷ってから、続けた。
『味噌汁を作ってくれたこと。
雨の日に傘に入れてくれたこと。
小説の話を笑わずに聞いてくれたこと。
僕の目が生きてるって言ってくれたこと。
全部、今も残っています。
ありがとう。』
送信。
送った後、悠斗は深く息を吐いた。
これは謝罪ではない。
感謝だ。
美月への感謝。
過去への感謝。
愛された時間への感謝。
美月からの返信は、少し時間が空いてから来た。
『覚えててくれたんだね。
私も、悠斗が夜中に急に物語の設定を話し出したこと、覚えてる。
正直、半分くらい意味はわからなかったけど、楽しそうだった。
あの時の悠斗は、本当に好きなものを持ってる人の顔をしてたよ。』
悠斗は、スマートフォンの画面が少し滲むのを感じた。
好きなものを持ってる人の顔。
自分は、その顔をずっと失っていた。
でも、最近また少しずつ取り戻している。
美月が覚えていてくれた顔を。
『最近、少しだけまた書き始めました。』
悠斗はそう送った。
すぐに既読がついた。
返信が来る。
『そうなんだ。よかった。
無理に誰かに見せるためじゃなくても、悠斗が書きたいなら書いてほしいと思う。』
父の言葉と重なった。
続けろ。
美月の言葉と重なった。
書いてほしい。
悠斗は胸の奥が温かくなった。
自分が書くことを望んでくれる人がいる。
それは、とても大きなことだった。
夜、仕事が終わると、悠斗はいつものバス停へ向かった。
福神弥助は、ベンチでみかんを剥いていた。
「季節感どうなってるんですか」
「福の神は旬を超える」
「便利ですね」
弥助はみかんを一房、悠斗に渡した。
「感謝に変えられたか?」
悠斗はみかんを受け取り、隣に座った。
「少しだけ」
「話したんか」
「メッセージで。美月も、楽しかったこともちゃんとあったって言ってくれました」
「よかったな」
「はい」
悠斗は夜空を見上げた。
「俺、ずっと別れたことだけ見てました。自分が逃げたこと。傷つけたこと。失ったこと」
「うん」
「でも、美月がくれたものも、確かにありました。味噌汁とか、夢を聞いてくれた時間とか、未来を想像させてくれたこととか」
「それが見えたら、恋は失敗だけやなくなる」
弥助は言った。
「恋って、続かなかったら失敗だと思ってました」
「多くの人がそう思うな」
「結婚まで行かなかったら意味がなかったとか、別れたら無駄だったとか」
「でも、ほんまは違う」
弥助はみかんの皮を丁寧に畳みながら言った。
「恋は、続くかどうかだけで価値が決まるもんやない。誰かに出会って、自分の知らん自分を知る。誰かを大事にしたいと思う。自分の弱さを見つける。そういう時間にも意味がある」
悠斗は頷いた。
「美月は、俺に自分を嫌いすぎているって教えてくれました」
「うん」
「その時は苦しかった。でも、今の俺には必要な言葉でした」
「せやな」
「だから、謝罪だけじゃなくて、ありがとうって思えます」
弥助は満足そうに笑った。
「第十三の宿題、合格や」
「珍しく合格って言ってくれるんですね」
「たまには褒めんとな。人は褒められんと育たん」
「弥助さんが言うと説得力あります」
「せやろ」
少し沈黙が流れた。
商店街の灯りが、夜の道にぼんやりと伸びている。
悠斗は、美月とのメッセージを思い返していた。
よりを戻すわけではない。
会う約束もない。
でも、二人の過去は少し形を変えた。
傷だけの記憶から、感謝を含んだ記憶へ。
それは静かな救いだった。
「次の宿題や」
弥助が言った。
「今日は少し予想してました」
「ほう。成長したな」
弥助は紙切れを渡した。
そこには、こう書かれていた。
『第十四の宿題。人生は取り返さなくていい。』
悠斗はその言葉を見つめた。
「取り返さなくていい……」
「兄ちゃんは、失った時間を取り返そうとしとるやろ」
弥助は言った。
「小説を書かなかった十年。美月と別れた時間。父と話せなかった年月。仕事で遅れた分。全部取り返さなあかんと思ってる」
悠斗は黙った。
その通りだった。
最近少し前に進み始めたからこそ、焦りも生まれていた。
十年書かなかったなら、十年分書かなければ。
三十五歳で遅れているなら、急いで人生を立て直さなければ。
父や美月と失った時間を、何とか埋めなければ。
そう思っていた。
「取り返すんやない」
弥助は静かに言った。
「ここから作るんや」
その言葉は、悠斗の胸に深く落ちた。
取り返すのではなく、ここから作る。
家に帰ると、悠斗はノートを開いた。
今日のページに、美月のことを書く。
『美月と話した。
美月は、嫌なことばかりじゃなかったと言ってくれた。
楽しかったこともちゃんとあったと言ってくれた。
その言葉に救われた。
恋は、続かなかったら失敗だと思っていた。
でも、美月がくれたものは今も残っている。
自分を嫌いすぎていると教えてくれたこと。
夢を話す僕の顔を覚えていてくれたこと。
誰かと暮らす未来を想像させてくれたこと。
それらは、別れても消えない。』
少し間を置いて、続ける。
『昔の恋人を、過去の人で終わらせない。
感謝に変える。
それは、よりを戻すことではない。
相手を忘れないことでもない。
その人が自分の人生に残してくれたものを、ちゃんと受け取ることだ。』
書き終えると、胸が少し軽くなった。
そして次のページに、弥助の新しい宿題を書く。
『人生は取り返さなくていい』
その言葉を見つめていると、涙が出そうになった。
取り返さなくていい。
その言葉を、どれほど自分は欲しかったのだろう。
遅れた分を急がなくていい。
失った時間を無理やり埋めなくていい。
あの時できなかったことを、今すぐ完璧にやり直さなくていい。
ただ、ここから作ればいい。
悠斗は小説ノートを開いた。
夢を拾いに行った男の物語。
今日の一文を書く。
『男は、昔の恋を感謝に変えた。
それは過去を取り戻すことではなく、過去から手渡された灯りを、これからの道に持っていくことだった。』
書き終えると、悠斗は小さく息を吐いた。
美月からもらった灯り。
父からもらった灯り。
恒一からもらった灯り。
西野からもらった灯り。
山口さんからもらった灯り。
弥助からもらった宿題。
それらを持って、悠斗はまた明日を歩く。
遠回りした道は、決して真っ暗ではなかった。
振り返れば、そこにはちゃんと、誰かが置いてくれた灯りがあった。
悠斗はその灯りを、これからの自分のために、少しずつ拾い集めていくのだった。
第13話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「昔の恋人を感謝に変えること」でした。
終わった恋は、失敗だけではありません。
続かなかった関係の中にも、確かに受け取った優しさや、教えてもらった言葉があります。
悠斗は美月への謝罪だけでなく、感謝を言葉にすることで、過去の恋を少しずつ人生の一部として抱え直していきます。
次回は、第14話「人生は取り返さなくていい」へ続きます。




