第12話 「普通」って誰が決めたんや
第11話では、悠斗が元恋人・美月へ連絡し、ずっと言えなかった謝罪と感謝を伝えました。
過去はやり直せない。
でも、置いてきた言葉を拾うことはできる。
今回の第12話では、悠斗がずっと自分を苦しめてきた「普通」という物差しと向き合います。
朝倉悠斗は、父から届いたメッセージを何度も読み返していた。
『小説、無理に見せなくていい。でも、書いてるなら続けろ。』
不器用な文章だった。
父らしい、短くて、飾り気のない言葉。
けれど悠斗には、それが何よりも大きな応援に思えた。
続けろ。
たった四文字。
それだけで、十年以上止まっていた何かが、胸の奥でまた静かに息をし始める。
父に会えた。
美月に謝れた。
恒一におめでとうと言えた。
西野を送り出せた。
少し前の自分からは考えられないほど、悠斗の日々は動き始めていた。
それでも、朝になると不安は戻ってくる。
三十五歳。
独身。
貯金は少ない。
仕事はまだ中途半端。
夢はようやく一文ずつ書き始めたばかり。
周りと比べれば、やっぱり遅れている。
そう思う自分が、まだ消えたわけではなかった。
悠斗は机の上の紙切れを見た。
福神弥助から渡された新しい宿題。
『第十二の宿題。「普通」って誰が決めたんや。』
普通。
その言葉は、悠斗の人生にずっと貼りついていた。
普通は、三十五歳ならもっと仕事ができている。
普通は、結婚している。
普通は、親を安心させている。
普通は、貯金がある。
普通は、夢なんて青臭いものに今さらしがみつかない。
普通は、昔の恋人に今さら謝ったりしない。
普通は、変なおっさんに宿題を出されて人生を見直したりしない。
そうやって、悠斗はいつも自分を裁いてきた。
でも、弥助は言った。
「誰の普通を生きとるのか、考えろ」
悠斗はノートを開いた。
白いページの上に、まずこう書いた。
『普通とは何か』
書いた瞬間、少し笑ってしまった。
まるで学校の作文みたいだ。
けれど、今の悠斗には必要な問いだった。
『普通は、たぶん誰かが勝手に作った物差しだ。
でも僕は、その物差しを自分のものみたいに握りしめて、自分を測り続けてきた。』
悠斗はペンを止めた。
誰かが勝手に作った物差し。
それは父かもしれない。
社会かもしれない。
同級生かもしれない。
SNSかもしれない。
会社かもしれない。
けれど最終的に、その物差しで自分を殴っていたのは自分自身だった。
朝の電車に乗ると、悠斗は周囲の人々を見た。
スーツ姿の男性。
眠そうな学生。
スマートフォンを見つめる女性。
ベビーカーを押す母親。
誰もが、自分の人生を普通に生きているように見える。
でも本当にそうだろうか。
恒一は幸せそうな父親だった。
けれど、家族を守る怖さに震えていた。
西野は仕事ができる後輩だった。
けれど、期待に追いつけなくなることを恐れていた。
山口さんは笑顔のコンビニ店員だった。
けれど、眠れない朝もあった。
村瀬は厳しい上司だった。
けれど、チームを守る責任を背負っていた。
父は強くて怖い人だった。
けれど、不器用で、褒め方を知らない一人の男だった。
みんな、外から見える普通とは違うものを抱えている。
もしかしたら普通に見える人ほど、普通でいるために必死なのかもしれない。
会社に着くと、西野の席はまだ空だった。
実家へ帰っている。
父親と会い、何かを話している頃だろうか。
悠斗は西野の案件を引き継ぎながら、ふと昔の自分を思い出した。
普通に働く。
普通に成果を出す。
普通に怒られないようにする。
普通に迷惑をかけない。
その普通を守るために、悠斗は何度も自分の本音を後回しにしてきた。
父に会うことも。
美月に謝ることも。
夢を書くことも。
全部「普通じゃない」と思って避けていた。
でも今振り返れば、その普通に従っていた頃の方が、ずっと苦しかった。
午前中、村瀬に呼ばれた。
「朝倉、西野の案件はどうだ」
「現状、先方確認待ちです。午前中に一度こちらから進捗共有を入れます」
「わかった」
村瀬は資料を見ながら頷いた。
「西野から連絡は?」
「昨日、実家に着いたと連絡がありました。お父さんとは会えたみたいです」
「そうか」
村瀬は短く言った。
その後、少し間を置いて、ぽつりと続けた。
「親は、会えるうちに会っておいた方がいい」
悠斗は村瀬を見た。
村瀬はパソコン画面から目を離さなかった。
「経験談ですか」
悠斗が聞くと、村瀬は少しだけ苦笑した。
「まあな」
それ以上は言わなかった。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
村瀬にも、戻れなかった場所があるのかもしれない。
逃げた場所に残る後悔を知っているのかもしれない。
「朝倉」
「はい」
「普通の社会人ならこうするべきだ、みたいな顔で仕事を抱え込むなよ」
悠斗は驚いた。
村瀬は続けた。
「仕事は一人で背負うものじゃない。チームで回すものだ。西野にも言ったが、お前にも言っておく」
「……はい」
「普通を気にして潰れるやつは多い。気をつけろ」
村瀬はそれだけ言って、別の資料に目を落とした。
悠斗は自席に戻りながら、胸の中でその言葉を繰り返した。
普通を気にして潰れる。
まさに自分のことだった。
昼休み、悠斗はいつもの公園へ行った。
今日は弁当ではなく、コンビニで買ったパンとコーヒーだった。
ベンチに座り、ノートを開く。
外でノートを書くことにも、少しずつ慣れてきた。
以前なら、人に見られるのが恥ずかしくてできなかった。
今も少し恥ずかしい。
でも、恥ずかしいからやめる、とは思わなくなった。
悠斗はノートに書いた。
『普通に生きようとして、僕は普通に苦しくなった。
普通の三十五歳。
普通の社会人。
普通の息子。
普通の恋人。
そのどれにもなれなかったと思っていた。
でも本当は、普通になれなかったのではなく、自分の人生を見ていなかっただけなのかもしれない。』
書きながら、悠斗は美月のことを思い出した。
美月との関係の中でも、普通に縛られていた。
普通は、結婚を考える年齢。
普通は、彼女を安心させるべき。
普通は、将来設計をちゃんと語れる男であるべき。
そう思うほど、自分が足りない人間に見えた。
だから怖くなった。
美月と結婚したくなかったわけではない。
むしろ、したかったのかもしれない。
でも、普通の夫になれる自信がなかった。
普通の家庭を作れる自信がなかった。
その不安を言えずに、悠斗は逃げた。
もしあの時、「普通になれる自信がない」と言えていたら。
美月は何と言っただろう。
今さら考えても仕方がない。
でも、その後悔はこれからの約束に変えられる。
次に誰かを大切に思った時、自分は普通の何かになろうとする前に、本音を話そう。
そう思った。
午後、西野からメッセージが届いた。
『父と少し話せました。まだぎこちないけど、帰ってよかったです。明日の午後には戻れそうです。案件ありがとうございます。』
悠斗は返信した。
『よかった。仕事は大丈夫だから、無理せず戻ってきて。』
送信してから、悠斗は少し笑った。
以前の自分なら、仕事は大丈夫などと言えなかった。
自分が抱え込んで、苦しくなって、それでも平気なふりをしていた。
でも今は、少しだけチームを信じられる。
自分一人が普通に完璧でいなくても、仕事は回る。
人に頼ってもいい。
人を頼らせてもいい。
それは怠けではなく、関係なのだ。
夜、悠斗はバス停へ向かった。
福神弥助は、ベンチに座ってたい焼きを食べていた。
「今日はたい焼きですか」
「普通は頭から食うか尻尾から食うか問題や」
「それ、今日のテーマに合わせてます?」
「合わせとる。普通って誰が決めたんや」
弥助はたい焼きの腹からかじっていた。
「そこから食べる人、初めて見ました」
「固定観念を壊すんや」
「たい焼きで?」
「人生はたい焼きから学べる」
悠斗は隣に座り、思わず笑った。
「考えたか?」
弥助が聞いた。
「普通のことですか」
「せや」
「考えました。俺はずっと、普通の三十五歳になれなかった自分を責めてました」
「うん」
「でも、その普通が誰のものなのか、よくわからないまま握ってた気がします」
弥助は黙って聞いていた。
「父の普通、会社の普通、世間の普通、SNSで見える普通。いろんなものを混ぜて、自分を測る物差しにしてました」
「それで?」
「測るたびに、足りないと思ってました」
「何が足りなかった?」
「全部です。仕事も、結婚も、貯金も、自信も、夢も」
悠斗は苦笑した。
「でも、最近思うんです。足りないものばかり数えていた頃より、遠回りして、負けた話をして、ありがとうを言って、父や美月に向き合った今の方が、少し生きてる感じがします」
弥助は嬉しそうに目を細めた。
「ええやん」
「普通からは外れてるかもしれません。でも、少しずつ自分の人生になってきた気がします」
「それや」
弥助はたい焼きの残りを食べ終えた。
「普通っちゅうのはな、便利な言葉や。迷った時の目安にもなる。でも、自分を殴る棒にしたらあかん」
「自分を殴る棒……」
「みんながやってるから。年齢的にこうだから。男なら、女なら、大人なら、社会人なら。そういう普通で自分を殴り続けると、心が痣だらけになる」
悠斗は静かに頷いた。
自分の心には、普通で殴った痣がたくさんあった。
「普通を捨てろってことですか」
「ちゃう」
弥助は首を振った。
「普通は使えばええ。でも、支配されるな」
「使う?」
「社会の普通、仕事の普通、人付き合いの普通。役に立つ時もある。せやけど、自分の幸せまで普通に決めさせるな」
悠斗はその言葉を胸に置いた。
自分の幸せまで普通に決めさせない。
「兄ちゃんは、何が幸せなんや」
弥助が聞いた。
悠斗はすぐに答えられなかった。
以前なら、幸せとは何かを考える時、他人の持ち物ばかり浮かべていた。
結婚。
家。
出世。
貯金。
安定。
もちろん、それらも幸せの形だ。
でも、自分にとってはそれだけではない。
朝、山口さんと挨拶できること。
父から小説を続けろと言われたこと。
恒一と負けた話をできること。
西野を送り出せたこと。
美月に謝れたこと。
夜、ノートに一文書けること。
散らかった部屋の机の上だけは、自分の場所として整っていること。
「今は……」
悠斗はゆっくり言った。
「夜に一文書けることが、少し幸せです」
弥助は笑った。
「ええな」
「小さいですか?」
「小さい幸せを笑うな。小さい幸せを受け取れへん人間は、大きい幸せが来ても穴の空いたバケツみたいにこぼす」
悠斗は、少し笑った。
「あと、人にちゃんとありがとうって言える日も、悪くないです」
「うん」
「誰かの幸せを羨ましいまま祝えた日も」
「うん」
「父と話せた日も、美月に謝れた日も、苦しかったけど、幸せに近かった気がします」
弥助は満足そうに頷いた。
「幸せはな、楽しいだけやない。自分の人生に戻ってきた感覚も、幸せなんや」
その言葉に、悠斗は胸が温かくなった。
自分の人生に戻ってきた感覚。
たしかに、今の悠斗が感じているのはそれだった。
成功したわけではない。
問題が全部解決したわけでもない。
でも、自分の人生を他人の物差しで眺めるのではなく、自分の足で歩き始めている。
それが、幸せに近い。
「次の宿題や」
弥助が紙切れを取り出した。
「来ると思いました」
「期待を裏切らん男や」
紙にはこう書かれていた。
『第十三の宿題。昔の恋人を、過去の人で終わらせるな。感謝に変えろ。』
悠斗は紙を見つめた。
「美月のことですね」
「せや」
「謝れました」
「謝罪と感謝は別もんや」
弥助は言った。
「謝って終わりにすると、過去は傷のまま残る。感謝に変えられた時、その人は人生の一部になる」
「人生の一部……」
「美月は、兄ちゃんに何をくれた?」
悠斗はすぐに答えられなかった。
美月がくれたもの。
愛情。
食卓。
笑い声。
夢を笑わずに聞いてくれた時間。
自分を嫌いすぎていると教えてくれた言葉。
人の優しさを受け取れない自分に気づかせてくれたこと。
たくさんあった。
「書いてみます」
悠斗は言った。
弥助は頷いた。
「普通の恋愛は、別れたら失敗かもしれん。でも、遠回りした人間にとっては、別れも人生の先生になる」
その夜、悠斗は家に帰ると、すぐにノートを開いた。
今日のページに、まず普通について書いた。
『普通は、目安にはなる。
でも、自分を殴る棒にしてはいけない。
僕はずっと、普通の三十五歳、普通の社会人、普通の息子、普通の恋人になれなかった自分を責めてきた。
でも、普通から外れた遠回りの道でしか出会えなかった言葉がある。
父の「続けろ」。
美月への「ごめん」。
恒一への「おめでとう」。
西野への「帰ってこい」。
山口さんへの「ありがとう」。
これも、僕の人生だ。』
書き終えると、悠斗はしばらくペンを見つめた。
普通に測れば、自分は遅れているのかもしれない。
でも、自分の人生に戻るという意味では、今ようやく始まったところだ。
それでいい。
悠斗は次のページを開いた。
美月について書く。
『美月がくれたもの』
最初に浮かんだのは、味噌汁だった。
仕事で落ち込んで何も話せなかった夜、美月は理由を聞かずに味噌汁を作ってくれた。
豆腐とわかめの、普通の味噌汁。
その湯気の向こうで、美月は言った。
「話したくなったら話せばいいよ」
あの時、悠斗は救われた。
でも、ありがとうと言えなかった。
次に浮かんだのは、夢の話を聞いてくれた夜だった。
悠斗が昔書いていた小説の設定を少し話すと、美月は馬鹿にせずに聞いてくれた。
「悠斗は、そういう話をしてる時、目がちゃんと生きてる」
そう言って笑った。
あの言葉も、ずっと残っていた。
悠斗は書いた。
『美月は、僕の目が生きている瞬間を知ってくれていた。
僕が自分で忘れてしまった夢の顔を、覚えていてくれた人だった。』
さらに続ける。
『美月は、僕に愛される練習をさせてくれた人だった。
僕はその練習から逃げた。
でも、愛されていた時間があったことは消えない。
謝罪だけで終わらせず、ありがとうに変えていきたい。』
書きながら、悠斗は少し泣いた。
でもその涙は、第11話の謝罪の涙とは違った。
痛みの涙ではある。
けれど、そこに温かさもあった。
過去の恋が、傷だけではなくなっていく。
それは、忘れることではない。
綺麗な思い出に作り替えることでもない。
傷も、後悔も、愛された時間も、全部含めて、自分の人生の一部として抱え直すことだった。
その夜、悠斗は小説ノートも開いた。
夢を拾いに行った男の物語。
今日の一文を書く。
『男は、普通の道から外れたことを恥じていた。
けれど、外れた道で拾った言葉だけが、今の男を生かしていた。』
書き終えると、悠斗は小さく頷いた。
悪くない。
今の自分にとって、必要な一文だった。
翌朝、西野が会社に戻ってきた。
少し疲れた顔をしていたが、目は前より落ち着いていた。
「おかえり」
悠斗が言うと、西野は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「お父さんは?」
「リハビリが必要みたいです。でも、話せました」
「そっか」
「父に、ありがとうって言えました。あと、無理しないでって」
西野は少し照れたように笑った。
「普通、息子が父親にそんなこと言うの変かなって思ったんですけど」
悠斗は笑った。
「普通って誰が決めたんだよ」
西野は目を丸くした。
「朝倉さん?」
「いや、受け売り」
「例の変なおっさんですか」
「たぶん」
二人は笑った。
その笑い声が、朝のオフィスに小さく響いた。
普通じゃなくてもいい。
遠回りでもいい。
泣いて、迷って、謝って、感謝して、一文ずつ書きながら進めばいい。
悠斗はそう思った。
仕事は今日も忙しい。
人生はまだ不安定。
でも、悠斗はもう、普通という見えない物差しだけで自分を測るのを少しずつやめ始めていた。
自分の人生には、自分だけの速度がある。
自分だけの遠回りがある。
その道の途中で拾ったものを、もう失敗とは呼びたくなかった。
遠回りしたぶん、幸せになれる。
そのタイトルの意味が、悠斗の中で少しずつ形になり始めていた。
第12話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「普通って誰が決めたんや」でした。
普通は、時に目安になります。
でも、自分を責めるための物差しにしてしまうと、心は苦しくなります。
悠斗は、普通の三十五歳になれなかった自分を責めるのではなく、自分だけの遠回りの道を少しずつ受け入れ始めました。
次回は、第13話「昔の恋人」へ続きます。




