NO.19 もう二度と
帰りの馬車では、イリスはずっとカーライルに抱きかかえられていた。
馬車が門をくぐり、やがての扉が開かれる。
そろそろ恥ずかしさもあり、イリスはカーライルの手から離れようとする。
が、彼の両腕はイリスを掴んで離さない。
「あの……、もう大丈夫です。1人で歩けますよ」
少し困惑しつつカーライルの目を見つめる。
「駄目だ」
彼は短く断り、イリスを抱えたまま馬車を降りた。
そして側近に命じる。
「医師を呼べ」
低い声。
抑えているが、張りつめている。
誰にも触れさせない。
その意志がはっきりと伝わった。
屋敷の空気が静まり返る。
使用人たちは視線を伏せ、急いで道を開けた。
イリスは腕の中で小さく息をつく。
こんなに使用人たちの目の前で、抱きかかえられた姿を見せるのは少し照れくさい。
けれど強く、優しい腕の中にいるのは悪い気はしなかった。
守られている、と自然に思える。
帰ってきたのだ、とようやく実感する。
けれど、身体の奥に残る感触は消えない。
――抱き寄せられた腕。
首筋にかかった息。
服の縁をなぞる指先。
寝室へ運ばれ、医師の手当てが始まった。
手首には縄の跡が赤く残り、
足の擦り傷も、白い肌の上で痛々しく浮かび上がっている。
どれも浅いとはいえ、見れば分かる傷だった。
「血は出ていますが、どれも深くはありません。跡は残らないでしょう」
医師の声は淡々としている。
カーライルは一歩も離れなかった。
診察のあいだ、ただ立ち尽くし、イリスから目を逸らさない。
診察が終わり、医師と侍女が退室すると、部屋に沈黙が落ちた。
重い静けさ。
カーライルが口を開く。
「……どこまでされた」
問いは低い。
決してイリスを責めているわけではない。
だが、真剣な眼差しから逃れるすべは無い。
指先がわずかに震えた。
「……胸元に、キスを……」
言葉にするだけで、喉が詰まる。
カーライルの拳が、音もなく握られる。
指の関節が白くなる。
ただ、目の奥に暗いものが沈む。
数秒の沈黙。
そして彼はゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
それだけ。
だが、分かったのは状況ではない。
自分の中に湧き上がる衝動のほうだ。
――殺しておけばよかった。
思考の奥底で、冷たい声が囁く。
それでも、イリスの前では決して見せない。
「湯を用意させる」
短く告げる。
侍女に指示を出し、ほどなく湯の支度が整えられた。
寝室奥の浴室に湯気が立ちのぼる。
柔らかな蒸気が空気を満たし、冷えた身体を包み込むように広がる。
「……私は外にいる」
背を向ける。
衣擦れの音。
水面が揺れる小さな気配。
イリスは湯に身を沈める。
温かさが、じわりと肌を包む。
縄跡がひりつき、擦り傷が湯にしみる。
それでも、冷えきっていた身体が少しずつほどけていく。
湯気の向こうで、目を閉じる。
帰ってきた。
それだけで、胸の奥が震える。
扉の外で、カーライルは静かに立っていた。
何も言わない。
だが胸の内では、はっきりとした衝動が渦巻いている。
あんな男の記憶なんて。
全て無くなるくらい自分が塗り替えてやりたい。
やがて、湯から上がったイリスが寝室へ戻る。
濡れた髪が肩を伝い、薄く水滴が落ちる。
湯気をまとったその姿は、どこかまだ頼りない。
カーライルは彼女をベッドに座らせ、自分も隣に腰をおろす。
距離は近いが、触れない位置。
彼は一瞬迷い、それから静かに言った。
「……怖かっただろう」
言葉に後悔が滲んでいた。
イリスは頷く。
「……はい」
小さな声。
それだけで、胸が締めつけられる。
カーライルは手を伸ばしかけ、止めた。
触れていいのか、迷う。
数日前まで、政略結婚の相手だった。
見せかけの夫婦。自分自身も敵意をむけていた。
それなのに――
気づけば、彼女の一挙一動に目が向いていた。
寒くないか。
眠れているか。
体調が悪くないか。
いつからだ。
いつから、こんなにも。
彼はゆっくりと、イリスを抱き寄せた。
強く。
だが壊さないように。
イリスの身体が一瞬固まり、それから、力が抜ける。
自分を信じて体を預けてくれることに、胸の奥が熱くなる。
「……三日間」
カーライルの声はかすれていた。
「君がいない三日間、何も手につかなかった」
正確には、何も考えられなかった。
仕事はした。
命令も出した。
だが、頭のどこかで常に考えていた。
もし、間に合わなかったら。
もし、壊れてしまっていたら。
想像するだけで、呼吸が浅くなる。
「失うかもしれないと思った」
「それだけで、息ができなかった」
腕に込める力がわずかに強まる。
「……君のことが、大切だ」
飾らない言葉。
理屈も立場もない。
ただの本音。
イリスの目が大きく揺れる。
抱きしめられたまま、彼の胸に額が触れる。
鼓動が速い。
彼も、震えている。
政略だったはずだ。
義務のはずだった。
それなのに――
この腕の中が、こんなにも安心できる。
カーライルはイリスの髪に顔を埋める。
深く息を吸う。
確かにここにいる。
温かい。
生きている。
「もう二度と、一人にはしない」
低く、誓うように。
カーライルの腕は、離れない。
イリスは、胸に頬を寄せたまま、小さく息を吸った。
「……信じていました」
低く、震えを含んだ声。
「あなたが、来てくれると」
カーライルの呼吸が止まる。
信じていた。
その言葉が、予想以上に胸を打った。
彼女と初めて会ったとき、自分は何と言っただろう。
『君のことは信用していない』
そんなひどい言葉を投げたのに。
彼女は自分のことを信じてくれていた。
「……そうか」
腕の力が、わずかに強くなる。
あの数日間。
彼女のいない屋敷は、静まり返っていた。
あの椅子も、あの窓辺も、
すべてが空虚だった。
いつの間にか。
彼女の存在が、この屋敷の温度になっていた。
「……君がいない未来は、考えられない」
静かに告げる。
「政略だろうと、立場だろうと、関係ない」
一度、息を吸う。
「私は、君を愛してる」
イリスの睫毛が震える。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がる。
政略ではなく。
義務ではなく。
私を大切に思っている。
「……私も」
イリス自身も、人に愛されたことがないからわからない。
でも、カーライルの事を考えるだけで強くなれる気がした。
「私もあなたを愛しています」
その瞬間、カーライルの理性が揺らいだ。
ゆっくりと、イリスの顎に指をかける。
目が合う。
怯えも拒絶もない。
ただ、揺れる光。
カーライルは、ゆっくりと距離を縮めた。
唇が触れる。
最初は探るような、確かめるだけのキスだった。
触れているかどうかも曖昧なほど、静かな。
だが、カーライルが離れようとした瞬間、イリスの指が彼の胸元をそっと掴む。
その小さな力が、火種になる。
再び重なる。
今度は、さっきよりも深く。
呼吸が混ざる。
温もりが伝わる。
触れたところから、じわりと熱が広がっていく。
数日間、張りつめていた感情が、静かに溶け出す。
だが――
カーライルはふいに動きを止めた。
名残惜しむように、唇を離す。
額を合わせたまま、荒くなりかけた呼吸を整える。
「……すまない」
低く、かすれた声。
それ以上彼は踏み込まなかった。
イリスの胸に、じんわりと温かいものが広がる。
ルシアンにも同じように抱き寄せられた。
逃げ場のない状況で、拒む隙も与えられなかった。
触れられるたび、身体が強張った。
けれど今は違う。
同じくらい近いはずなのに、怖くない。
彼の優しさが伝わってくる。
「……嫌じゃ、ないです」
小さく零れる。
「むしろ……嬉しい」
カーライルの指先が、わずかに震えた。
ベッドへ横になる。
カーライルが先に身を沈め、
イリスをゆっくりと引き寄せる。
ただ、優しく包み込むように。
腕が背に回り、胸元へ自然に収まる。
イリスの身体から、緊張がとける。
鼓動が落ち着く。
「……大丈夫か」
囁く声は低いが、柔らかい。
イリスは彼の胸に頬を寄せる。
「はい」
息を吸う。
安心できる匂い。
やがてイリスの呼吸がゆっくりと整っていく。
眠りに落ちる直前、
無意識に彼の服の袖を握る。
カーライルはそれをほどかない。
そっと、さらに抱き寄せる。
(もう二度と)
その思いは、静かに胸の奥へ沈む。
決意として。
夜は更けていく。
けれどこの部屋の中だけは、
確かな温もりに満ちていた。




