NO.20 過去との決別
朝の光が、薄くカーテンを透かしていた。
夜の冷えをまだ少しだけ残した空気の中、イリスはゆっくりと目を開ける。
最初に感じたのは、背に回された腕の重みだった。
温かい。
カーライルの腕だった。
昨夜のまま、彼はイリスを抱き寄せるように眠っている――いや、眠ってはいないらしい。
目は閉じられているが、呼吸が浅い。
ほとんど休んでいないことが、すぐに分かった。
イリスは少しだけ体を動かす。
その瞬間、腕の力がわずかに強まった。
すぐに、低い声が落ちる。
「……起きたか」
目が開く。
濃紺の瞳が、すぐ近くにあった。
どこか疲れを残した顔。
だが、その視線は変わらず静かだった。
イリスは少しだけ身を起こす。
まだ近い距離。
昨夜のぬくもりが、そのまま残っている。
数秒、言葉は出ない。
やがて、イリスが小さく口を開く。
「今日は……」
言葉は最後まで続かなかった。
何をする日なのか、二人とも分かっている。
カーライルは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、それから静かに答えた。
「終わらせる」
短い言葉だった。
だが、その声には迷いがない。
イリスは彼の顔を見つめる。
逃げることでは終わらないと、知っている。
イリスは小さく頷いた。
「……はい」
その声は静かだった。
だが、震えてはいない。
カーライルは、その頷きを見て、わずかに息を吐いた。
安心したのかもしれない。
あるいは、覚悟を確かめたのか。
「……お気をつけて」
自然に出た言葉だった。
カーライルの瞳が、わずかに細められる。
それ以上、言葉は交わさない。
だが、その沈黙はどこか穏やかだった。
***
屋敷を出た馬車は、王都の石畳を静かに進んでいた。
朝の街は、いつもと変わらない。
市場の準備をする商人。
荷を運ぶ職人。
遠くで鳴る鐘の音。
すべてが穏やかな日常の光景だった。
だが、カーライルの胸の奥には別の空気が沈んでいる。
怒りだった。
静かに沈んでいるが、消えてはいない。
むしろ、昨夜よりも重くなっていた。
思い出す。
イリスの手首に残っていた縄の跡。
白い肌に痛々しく浮かんだ赤い痕。
そして――
胸元に落とされたという、キス。
指先がわずかに強く握られる。
あの男が触れた。
彼女に。
抱きしめ、口づけようとした。
その光景を想像した瞬間、胸の奥に黒い衝動が湧き上がる。
殺しておけばよかった。
本気でそう思う。
だが、ゆっくり息を吐いて拳を緩める。
ここで感情に任せれば、それはただの暴力だ。
イリスが望む形ではない。
終わらせる。
そのために来た。
馬車はやがて、王都拘束施設の前で止まった。
扉が開く。
冷たい石の空気が流れ込む。
「リヒター公」
待っていた役人が深く一礼する。
「対象は拘束されています」
カーライルは頷いた。
「通してくれ」
石造りの廊下を歩く。
靴音が低く響く。
奥の扉の前で役人が立ち止まった。
「こちらです」
鍵が回る。
重い扉が開く。
部屋の中央。
ルシアンは椅子に座らされていた。
手首には拘束具。
顔を上げた瞬間、鋭い視線が突き刺さる。
怒りと執着が混じった目だった。
「……来たか」
低く吐き捨てる。
身を乗り出す。
椅子がきしむ。
「お前に何ができる」
唇を歪める。
「イリスは――」
その名を口にした瞬間、声に熱が宿る。
「俺が幸せにする」
カーライルの瞳が、わずかに細くなる。
その一言で、胸の奥の怒りが再び揺れた。
だが表情は変わらない。
数歩、ゆっくりと歩み寄る。
そして立ち止まった。
ルシアンを見下ろす。
「お前に彼女は幸せにできない」
短く告げる。
ルシアンの表情がわずかに動く。
「それはお前のことじゃないのか?」
声が強くなる。
「彼女は政略で縛られている」
「彼女を苦しめているのはお前だ!」
カーライルは黙って聞いていた。
ルシアンは続ける。
「彼女は――」
「違う」
カーライルが遮った。
声は低い。
だが、その一言で空気が張り詰める。
一歩近づく。
「彼女の本当の心が分からない者に」
「彼女を愛する資格はない」
ルシアンの眉が動く。
「……何を」
カーライルの視線は揺れない。
「お前が愛していたのは、彼女ではない」
「お前が愛していたのは、従順に微笑む“都合のいいイリス”だ」
「違う!」
ルシアンが声を荒げる。
「彼女は俺を――」
「違わない」
カーライルはもう一度言った。
怒鳴らない。
だが、その声には押し殺した怒りが滲んでいた。
「私は知っている」
「彼女がどう生きてきたのか」
カーライルの脳裏に浮かぶ。
震えていた彼女。
それでも逃げなかった彼女。
そして――昨夜、自分を信じて頷いた彼女。
「父に従い」
「笑顔を貼りつけ」
「それでも、生きてきた」
静かに続ける。
「私は彼女の過去を否定しない」
「弱さも」
「迷いも」
「全部含めて受け止める」
一歩近づく。
視線が鋭く落ちる。
「それが出来ない者に」
声が低くなる。
「彼女を愛する資格はない」
ルシアンの拳が震える。
「……彼女は」
絞り出す。
「彼女は俺を忘れない!」
カーライルは振り返らない。
役人に向かって言う。
「処分は決まっている」
淡々と告げる。
「爵位剥奪。王都から永久追放」
ルシアンが立ち上がろうとする。
拘束具が音を立てる。
「ふざけるな!」
叫ぶ。
「イリスは――」
カーライルはもう聞いていなかった。
扉が閉まる。
重い音が石の廊下に響いた。
ルシアンの怒号は、その向こうに残された。
***
拘置施設の奥の廊下は、ひどく静かだった。
石の壁に灯るランプの光が、淡く揺れている。
カーライルは足を止めない。
役人が前に出た。
「……もう一人、捕らえている者がいます」
カーライルは短く答えた。
「分かっている」
扉の前で止まる。
鍵が回る。
重い音。
扉が開いた。
部屋の中央。
一人の男が椅子に座っていた。
ジェラルドだった。
拘束具は付けられているが暴れる様子はない。
扉の音に顔を上げる。
そして――
微笑んだ。
「……リヒター公」
穏やかな声だった。
「お会いできて光栄です」
カーライルは部屋へ入る。
扉が閉まる。
沈黙。
ジェラルドは、カーライルを観察するように見ていた。
「奥様はご無事でしたか」
カーライルは、答えない。
ジェラルドは沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「それは何よりです」
視線だけが冷たい。
ジェラルドは肩をすくめた。
「ですが」
「これで終わりだと思っていませんか?」
カーライルの瞳がわずかに細くなる。
ジェラルドは続けた。
「まだまだヴァルツ家に恨みを持つ者はいます」
「一人や二人ではない」
静かに語る。
「お嬢様は、これからも人に恨まれる」
「怯えながら生きていく」
目を細める。
「それが、お似合いです」
静かな部屋に言葉が落ちる。
「それが“本当のお嬢様”でしょう?」
カーライルの声が落ちる。
「違う」
短い一言だった。
だが、その声には重さがあった。
ジェラルドの笑みがわずかに揺れる。
カーライルは一歩、近づいた。
「彼女はもう」
「震えているだけのヴァルツの娘ではない」
視線がまっすぐ落ちる。
「自分で道を決められる」
そしてはっきり言った。
「私の妻だ」
沈黙。
ジェラルドはゆっくりと息を吐く。
「あなたは何も分かっていない」
「分かっていないのはお前の方だ」
「生きてきた歴史も、すべて受け止める」
ジェラルドの表情が、少しずつ固くなる。
カーライルは続けた。
「そのうえで、彼女のために生きる」
「お前の出番はない」
空気が止まる。
ジェラルドは黙った。
そして、初めて笑みが崩れた。
その時。
扉が静かに開いた。
カーライルが振り返る。
そこに立っていたのは、イリスだった。
ジェラルドの目が見開かれる。
「……お嬢様」
かすれた声。
イリスはゆっくりと部屋へ入り、カーライルの隣に立つ。
カーライルも驚いたような表情を見せたが、すぐにイリスの心を理解した。
屋敷で待つつもりだったが、どうしても自分で決着をつけたくてここまでやってきたのだ。
そしてジェラルドを見た。
「私は」
イリスは言う。
「もう“可哀想なお嬢様”ではありません」
ジェラルドの表情が固まる。
イリスは続ける。
「あなたに救われたことはありません」
「一度たりとも」
沈黙。
カーライルはそっと手を差し出す。
イリスは迷わずその手を取る。
指が重なる。
カーライルが言う。
「行こう」
イリスは頷いた。
「はい」
二人は部屋を出ていく。
ジェラルドは、もう何も言えなかった。
***
拘置施設を出ると、昼の光が眩しかった。
石の階段をゆっくり降りながら、イリスは小さく息を吐く。
胸の奥に残っていた重いものが、少しだけ軽くなっていた。
すべてが終わったわけではない。
それでも、確かに一区切りだった。
カーライルは隣を歩いている。
何も言わない。
けれど、その距離は自然だった。
やがて、イリスが口を開く。
「……あの使用人は」
カーライルは視線を少しだけ落とした。
何を聞きたいのか、分かっている。
「保護した」
短く答える。
「脅されていたようだ」
イリスの歩みが、わずかに止まる。
カーライルは続けた。
「家族を人質に取られていた」
静かな声だった。
「王都の外に住んでいた妹と母親だ」
ジェラルドの部下が接触していた。
仕事を失わせる。
借金を作らせる。
そして、逃げ場をなくす。
そうして、屋敷の情報を流させていた。
イリスは目を伏せる。
胸の奥に、苦いものが広がる。
昔の自分を思い出していた。
逃げられない状況。
従うしかない立場。
カーライルはそれを察したようだった。
「家族はすでに保護した」
「今後は王都の外で暮らすことになる」
罪が消えるわけではない。
だが、脅されていた事情は考慮された。
イリスはゆっくり頷いた。
「……よかった」
小さな声だった。
カーライルは、少しだけ視線を横に向ける。
「君が助けたいと言ったからだ」
淡々と言う。
「それだけだ」
イリスは驚いたように彼を見る。
カーライルは前を向いたままだった。
イリスは小さく笑う。
そして言った。
「ありがとうございます」
カーライルは何も答えない。
王都の空は高く、青かった。
風が静かに吹き抜ける。
ヴァルツ家の影は、まだ完全に消えたわけではない。
けれど。
イリスはもう、そこに縛られてはいない。
カーライルの隣を歩きながら、イリスは前を向いた。




