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実家に殺されかけましたが、政略結婚先での慣れない優しさに困惑しています  作者: 春野スミレ


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18/21

NO.18 奪還

 イリスが攫われてから、三日が過ぎていた。


 その三日間は、長く、そして異様な速さで過ぎた。


 屋敷の空気は、常に張りつめている。

 巡回は倍に増え、使用人たちは必要以上に声を潜めて動いていた。誰もが疲労している。だが、もっとも眠れていないのは主であるカーライルだった。


 書斎の窓辺に立つその背に、夕闇がゆっくりと落ちていく。


 机の上には、馬車の経路図、門番の証言書、薬剤成分の分析結果、王都商会の取引記録が重なっていた。

 三日間、ほとんど休まず洗い出した痕跡だ。


「馬車は王都西門を出た後、森へ向かっています。ただし途中で車輪の幅が変わっています。乗り換えがあったと見て間違いありません」


 側近の報告は淡々としているが、声には焦りが滲む。


「鎮静剤の成分も特定できました。王都で流通しているものではなく、限られた商会のみが扱う高濃度のものです」


 カーライルは視線を上げた。


「卸し先は」


「三家ございます。いずれも小規模な注文ですが――そのうち一つが、ルシアン名義の西郊外の別邸へ、数日前に納入されています」


 薬の購入日と、イリスが攫われた日付は近い。

 偶然とは考えにくい。

 静かに、点が線になる。


 ルシアン。


 夜会の裏手で姿を消した男。

 ジェラルドの執着とは別種の、粘ついた視線を向けていた貴族。


 カーライルの指先が、机の上で固く握られる。


 あの日から三日。

 その三日間、彼女はどんな時間を過ごしているのか。

 想像するたびに、胸の奥が軋んだ。


 ――守ると誓った。


 あの回廊で、震える彼女を抱き寄せたとき、はっきりと言葉にしたはずだった。


 それなのに。

 自分は間に合わなかった。


 視察の場で起きた混乱。

 屋敷内での騒ぎ。

 あの瞬間、護衛を信じて判断を誤った。

 結果は、今ここにある。


「別邸の位置は」


「王都西、森の手前です。周囲は木立に囲まれており、外からは視認しづらい構造です」


「監視は」


「二重に張っています。出入りは確認済み。今夜なら、静かに囲めます」


 カーライルは短く息を吐いた。

 三日間、焦りを押し殺してきた。

 だが、今夜で終わらせる。


「準備しろ。今夜向かう」


 低い声。


「精鋭のみ同行。気づかれるな」


「は」


 側近が退出する。


 扉が閉まると、書斎に静寂が落ちた。

 机の端に、ショールが置かれている。

 攫われた日の朝、庭で羽織っていたものだ。


 巡回が増えた庭を見て、不安そうに、けれど笑おうとした顔が浮かぶ。

 カーライルは無意識にそれを手に取った。


 柔らかな布地。

 ほのかな香り。

 ここにいない。

 その事実が、胸を強く締めつける。


 政略結婚だった。

 最初は距離を置いた。

 ヴァルツ家の娘。政争の駒。


 それ以上でも以下でもないはずだった。


 だが、いつからだ。

 寒くないかと気にかけ、夜の足音に耳を澄ませ、悪夢を見ていないかと扉の向こうの気配を探るようになったのは。


 気づけば、彼女の存在が屋敷の空気そのものになっていた。

 三日間、彼女のいない屋敷は、どこか空虚だった。


 もし、間に合わなかったら。

 その想像が喉を締める。


 失うかもしれない。

 その可能性を考えただけで、胸が苦しい。


 守ると言った。

 絶対に守ると。

 それが義務ではなくなっていることを、もう否定できない。


「……待っていろ」


 低く呟く。

 祈りに近い声だった。


 やがて準備が整う。

 屋敷を出ると、夜気が冷たい。

 精鋭たちが馬を並べて待っている。


「命は奪うな」


 視線を巡らせる。


「だが、躊躇するな」


 静かな命令。

 その背後にある怒りを、誰もが察している。


 馬が走り出す。

 蹄が夜道を打つ。


 森へ向かう道は暗く、月明かりがわずかに地面を照らす。

 三日間の焦燥が、胸の奥で渦巻いている。


 間に合え。

 どうか。

 灯りが見える。

 森の縁に佇む邸宅。

 窓から漏れる光。


「ここだ」


 低く告げる。

 部下が影のように散る。

 邸宅を囲む気配が広がる。


 扉の前に立つ。

 中にいる。

 三日分の怒りと後悔を胸に、カーライルは扉へ手をかけた。


***


 夜は、重く沈んでいた。

 窓の外に広がる森は黒く、風の音だけがかすかに聞こえる。


 寝台の上で、イリスはじっと天井を見つめていた。


 何日経っただろう。


 時間の感覚が、曖昧になっている。

 最初の頃は必死に抵抗していた。食事も拒み、視線も合わせなかった。


 だが、次第に心が疲弊していく。

 思考を放棄し、余計な言葉を返さず、静かにやり過ごす。


 それを――ルシアンは“心を開き始めた”と解釈していた。


「ようやく慣れてきました?」


 部屋の灯りの下、ルシアンが微笑む。

 その声は相変わらず柔らかい。

 けれど、目の奥には抑えきれない熱が揺れている。


「もう、怖くありませんね?」


 イリスは答えない。

 答えないことが、今の精一杯の抵抗だった。

 ルシアンはそれすら好意的に受け取る。


「大丈夫。私はあなたを傷つけません」


 ゆっくりと近づく。

 寝台の縁に腰を下ろす。

 指先が、髪に触れる。

 撫でる。

 優しい仕草。

 だが逃げ場がない。


「最初は怖がっていましたね」


 くすりと笑う。


「でも今は、逃げようとしない」


 逃げられないだけだ。


「……やめて」


 声がかすれる。

 ルシアンは首を傾げる。


「まだ緊張していますか?」


 肩に触れる。

 指が、衣服の縁をなぞる。

 布越しに伝わる体温が、嫌悪を呼び起こす。


 カーライルの手は違った。

 触れられても、怖くなかった。

 安心できた。


 なのに、ルシアンの手は違う。

 

「政略で縛られ、冷たい男のもとへ嫁がされ」

「本当は苦しかったのでしょう?」


 ルシアンは囁く。


「私なら、そんな思いはさせない」



 ルシアンはゆっくりと身を乗り出す。


 違う。

 違うのに。

 彼の中では、すでに物語が完成している。


 腕がふたたび伸び、肩にかかる布をそっと落とす。

 指が、胸元の紐にかかる。


「……違う」


 恐怖で言葉がでない。

 精一杯の拒絶。


 だが、ルシアンはか弱い声をためらいと勘違いする。


「大丈夫。優しくしますよ」


 ゆっくりと、布をずらす。

 冷たい空気が肌に触れる。


 次の瞬間、唇が胸元に触れた。

 ぞっとするほど静かな口づけ。

 イリスの視界が、白く揺れる。

 恐怖が、限界を超えた。


「……やめて……!」


 押し返そうとするが、縄に縛られた手足は動かない。

 涙がこぼれる。


 抑えようとしても、止まらない。

 嗚咽が混じる。


 ルシアンは、顔を上げる。

 そして――微笑む。


「ほら」


 優しく頬に触れる。


「もう我慢しなくていい」


 その涙を、解放の涙だと信じて疑わない。


「やっと、ひとつになれますね」


 違う。

 違う。


 声にならない。

 胸が苦しい。

 怖い。

 助けて。


 心の奥で、ただ一人の名を呼ぶ。


 その瞬間。


 外で、何かが割れる音がした。

 遠くで怒号が響く。

 ルシアンが、わずかに眉を寄せる。


「……?」


 次の瞬間、扉が破られた。


 激しい衝撃音。

 木片が飛び散る。

 立ち上る粉塵の向こうに、影が立つ。


 月明かりを背に、銀の刃のような視線。

 カーライルだった。


 数日分の焦燥と怒りを宿した目。

 寝台の光景を一瞬で理解する。


 乱れた衣服。

 涙。

 触れている男。


 空気が、凍る。

 ルシアンが立ち上がる。


「何を――」


 言葉の途中で、拳が叩き込まれる。

 鈍い衝撃音。

 床に叩きつけられる。


「彼女から離れろ」


 低い声。

 怒りを押し殺した声。


 だがもう一度放たれた一撃は、殺気に満ち満ちていた。

 骨が軋む。

 ルシアンが血を吐く。


「やめろ……!」


 叫ぶ。


「彼女は私のものだ!」

「俺のイリスだ!」


 狂った独占。

 カーライルの目が完全に冷える。


「黙れ」


 もう一撃。

 部下が慌てて制止する。


「カーライル様!」


 腕を掴まれる。

 それでも怒りは収まらない。


 だが。

 視界の端に映る。


 寝台の上で震えるイリス。

 涙。

 縛られた手足。


 その姿で、怒りが別の形に変わる。

 カーライルはルシアンから手を離し、寝台へ駆け寄った。


 縄を切る。

 そのまま、強く抱き寄せる。

 壊れそうなほど力を込めて。


「……すまない」


 声が震える。


「遅れた」


 額を髪に押しつける。


「君を守ると誓ったのに」

「一人にした」


 イリスが外套を掴む。


「来てくれるって……信じてました」


 その言葉で、胸が裂ける。

 イリスは嗚咽を堪えるように言った。


「君がいない時間が」


 かすれた声。


「……耐えられなかった」


 弱さを隠さない。


「失うかもしれないと考えただけで、息ができなかった」


 抱きしめる力が強まる。


「もう二度と、離さない」


 床で押さえつけられたルシアンが叫ぶ。


「奪うな!」

「彼女は私のものだ!」


 カーライルは振り向かない。

 ただ一言。


「違う」


 そして、イリスを抱き上げる。


「彼女は、私の妻だ」


 夜風が流れ込む。

 森の闇が、静かに揺れる。

 腕の中の温もりを確かめながら、カーライルは邸宅を後にした。


 イリスはカーライルの、優しさに包まれた腕の中でゆっくりと目を閉じた。

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