NO.18 奪還
イリスが攫われてから、三日が過ぎていた。
その三日間は、長く、そして異様な速さで過ぎた。
屋敷の空気は、常に張りつめている。
巡回は倍に増え、使用人たちは必要以上に声を潜めて動いていた。誰もが疲労している。だが、もっとも眠れていないのは主であるカーライルだった。
書斎の窓辺に立つその背に、夕闇がゆっくりと落ちていく。
机の上には、馬車の経路図、門番の証言書、薬剤成分の分析結果、王都商会の取引記録が重なっていた。
三日間、ほとんど休まず洗い出した痕跡だ。
「馬車は王都西門を出た後、森へ向かっています。ただし途中で車輪の幅が変わっています。乗り換えがあったと見て間違いありません」
側近の報告は淡々としているが、声には焦りが滲む。
「鎮静剤の成分も特定できました。王都で流通しているものではなく、限られた商会のみが扱う高濃度のものです」
カーライルは視線を上げた。
「卸し先は」
「三家ございます。いずれも小規模な注文ですが――そのうち一つが、ルシアン名義の西郊外の別邸へ、数日前に納入されています」
薬の購入日と、イリスが攫われた日付は近い。
偶然とは考えにくい。
静かに、点が線になる。
ルシアン。
夜会の裏手で姿を消した男。
ジェラルドの執着とは別種の、粘ついた視線を向けていた貴族。
カーライルの指先が、机の上で固く握られる。
あの日から三日。
その三日間、彼女はどんな時間を過ごしているのか。
想像するたびに、胸の奥が軋んだ。
――守ると誓った。
あの回廊で、震える彼女を抱き寄せたとき、はっきりと言葉にしたはずだった。
それなのに。
自分は間に合わなかった。
視察の場で起きた混乱。
屋敷内での騒ぎ。
あの瞬間、護衛を信じて判断を誤った。
結果は、今ここにある。
「別邸の位置は」
「王都西、森の手前です。周囲は木立に囲まれており、外からは視認しづらい構造です」
「監視は」
「二重に張っています。出入りは確認済み。今夜なら、静かに囲めます」
カーライルは短く息を吐いた。
三日間、焦りを押し殺してきた。
だが、今夜で終わらせる。
「準備しろ。今夜向かう」
低い声。
「精鋭のみ同行。気づかれるな」
「は」
側近が退出する。
扉が閉まると、書斎に静寂が落ちた。
机の端に、ショールが置かれている。
攫われた日の朝、庭で羽織っていたものだ。
巡回が増えた庭を見て、不安そうに、けれど笑おうとした顔が浮かぶ。
カーライルは無意識にそれを手に取った。
柔らかな布地。
ほのかな香り。
ここにいない。
その事実が、胸を強く締めつける。
政略結婚だった。
最初は距離を置いた。
ヴァルツ家の娘。政争の駒。
それ以上でも以下でもないはずだった。
だが、いつからだ。
寒くないかと気にかけ、夜の足音に耳を澄ませ、悪夢を見ていないかと扉の向こうの気配を探るようになったのは。
気づけば、彼女の存在が屋敷の空気そのものになっていた。
三日間、彼女のいない屋敷は、どこか空虚だった。
もし、間に合わなかったら。
その想像が喉を締める。
失うかもしれない。
その可能性を考えただけで、胸が苦しい。
守ると言った。
絶対に守ると。
それが義務ではなくなっていることを、もう否定できない。
「……待っていろ」
低く呟く。
祈りに近い声だった。
やがて準備が整う。
屋敷を出ると、夜気が冷たい。
精鋭たちが馬を並べて待っている。
「命は奪うな」
視線を巡らせる。
「だが、躊躇するな」
静かな命令。
その背後にある怒りを、誰もが察している。
馬が走り出す。
蹄が夜道を打つ。
森へ向かう道は暗く、月明かりがわずかに地面を照らす。
三日間の焦燥が、胸の奥で渦巻いている。
間に合え。
どうか。
灯りが見える。
森の縁に佇む邸宅。
窓から漏れる光。
「ここだ」
低く告げる。
部下が影のように散る。
邸宅を囲む気配が広がる。
扉の前に立つ。
中にいる。
三日分の怒りと後悔を胸に、カーライルは扉へ手をかけた。
***
夜は、重く沈んでいた。
窓の外に広がる森は黒く、風の音だけがかすかに聞こえる。
寝台の上で、イリスはじっと天井を見つめていた。
何日経っただろう。
時間の感覚が、曖昧になっている。
最初の頃は必死に抵抗していた。食事も拒み、視線も合わせなかった。
だが、次第に心が疲弊していく。
思考を放棄し、余計な言葉を返さず、静かにやり過ごす。
それを――ルシアンは“心を開き始めた”と解釈していた。
「ようやく慣れてきました?」
部屋の灯りの下、ルシアンが微笑む。
その声は相変わらず柔らかい。
けれど、目の奥には抑えきれない熱が揺れている。
「もう、怖くありませんね?」
イリスは答えない。
答えないことが、今の精一杯の抵抗だった。
ルシアンはそれすら好意的に受け取る。
「大丈夫。私はあなたを傷つけません」
ゆっくりと近づく。
寝台の縁に腰を下ろす。
指先が、髪に触れる。
撫でる。
優しい仕草。
だが逃げ場がない。
「最初は怖がっていましたね」
くすりと笑う。
「でも今は、逃げようとしない」
逃げられないだけだ。
「……やめて」
声がかすれる。
ルシアンは首を傾げる。
「まだ緊張していますか?」
肩に触れる。
指が、衣服の縁をなぞる。
布越しに伝わる体温が、嫌悪を呼び起こす。
カーライルの手は違った。
触れられても、怖くなかった。
安心できた。
なのに、ルシアンの手は違う。
「政略で縛られ、冷たい男のもとへ嫁がされ」
「本当は苦しかったのでしょう?」
ルシアンは囁く。
「私なら、そんな思いはさせない」
ルシアンはゆっくりと身を乗り出す。
違う。
違うのに。
彼の中では、すでに物語が完成している。
腕がふたたび伸び、肩にかかる布をそっと落とす。
指が、胸元の紐にかかる。
「……違う」
恐怖で言葉がでない。
精一杯の拒絶。
だが、ルシアンはか弱い声をためらいと勘違いする。
「大丈夫。優しくしますよ」
ゆっくりと、布をずらす。
冷たい空気が肌に触れる。
次の瞬間、唇が胸元に触れた。
ぞっとするほど静かな口づけ。
イリスの視界が、白く揺れる。
恐怖が、限界を超えた。
「……やめて……!」
押し返そうとするが、縄に縛られた手足は動かない。
涙がこぼれる。
抑えようとしても、止まらない。
嗚咽が混じる。
ルシアンは、顔を上げる。
そして――微笑む。
「ほら」
優しく頬に触れる。
「もう我慢しなくていい」
その涙を、解放の涙だと信じて疑わない。
「やっと、ひとつになれますね」
違う。
違う。
声にならない。
胸が苦しい。
怖い。
助けて。
心の奥で、ただ一人の名を呼ぶ。
その瞬間。
外で、何かが割れる音がした。
遠くで怒号が響く。
ルシアンが、わずかに眉を寄せる。
「……?」
次の瞬間、扉が破られた。
激しい衝撃音。
木片が飛び散る。
立ち上る粉塵の向こうに、影が立つ。
月明かりを背に、銀の刃のような視線。
カーライルだった。
数日分の焦燥と怒りを宿した目。
寝台の光景を一瞬で理解する。
乱れた衣服。
涙。
触れている男。
空気が、凍る。
ルシアンが立ち上がる。
「何を――」
言葉の途中で、拳が叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
床に叩きつけられる。
「彼女から離れろ」
低い声。
怒りを押し殺した声。
だがもう一度放たれた一撃は、殺気に満ち満ちていた。
骨が軋む。
ルシアンが血を吐く。
「やめろ……!」
叫ぶ。
「彼女は私のものだ!」
「俺のイリスだ!」
狂った独占。
カーライルの目が完全に冷える。
「黙れ」
もう一撃。
部下が慌てて制止する。
「カーライル様!」
腕を掴まれる。
それでも怒りは収まらない。
だが。
視界の端に映る。
寝台の上で震えるイリス。
涙。
縛られた手足。
その姿で、怒りが別の形に変わる。
カーライルはルシアンから手を離し、寝台へ駆け寄った。
縄を切る。
そのまま、強く抱き寄せる。
壊れそうなほど力を込めて。
「……すまない」
声が震える。
「遅れた」
額を髪に押しつける。
「君を守ると誓ったのに」
「一人にした」
イリスが外套を掴む。
「来てくれるって……信じてました」
その言葉で、胸が裂ける。
イリスは嗚咽を堪えるように言った。
「君がいない時間が」
かすれた声。
「……耐えられなかった」
弱さを隠さない。
「失うかもしれないと考えただけで、息ができなかった」
抱きしめる力が強まる。
「もう二度と、離さない」
床で押さえつけられたルシアンが叫ぶ。
「奪うな!」
「彼女は私のものだ!」
カーライルは振り向かない。
ただ一言。
「違う」
そして、イリスを抱き上げる。
「彼女は、私の妻だ」
夜風が流れ込む。
森の闇が、静かに揺れる。
腕の中の温もりを確かめながら、カーライルは邸宅を後にした。
イリスはカーライルの、優しさに包まれた腕の中でゆっくりと目を閉じた。




