NO.17 真実の愛
意識は、深い水の底からゆっくりと浮かび上がるように戻ってきた。
まぶたが重い。
喉の奥に、甘い匂いの残り香が絡みついている。
身体を動かそうとして、違和感に気づいた。
両手首が縛られている。
足も。
イリスは柔らかな寝台の上に横たえられたまま、自由を奪われていた。
視界に入るのは、見覚えのない天井。
低い梁。
閉ざされた窓。
ここは、どこだ。
記憶が、ゆっくりと繋がる。
屋敷の裏口。
騒ぎ。
白い布。
甘い匂い。
――そして、意識が途切れた。
「……目が覚めましたか」
穏やかな声が、部屋の奥から落ちた。
ゆっくりと視線を向ける。
そこに立っていた男を見た瞬間、心臓が強く打った。
灰色がかった髪。
整った顔立ち。
静かな微笑。
なぜ、屋敷で思い出せなかったのだろう。
ルシアンだ。
ヴァルツ家のために、利用した男。
父の命令で近づき、恋人のふりをして、甘い未来を囁いた相手。
あのとき、彼は本気だった。
自分は、演じていただけ。
「ようやく、二人きりですね」
ルシアンはそう言って、ゆっくりと歩み寄る。
足取りは落ち着いている。
焦りはない。
まるで、この瞬間を待ち望んでいたかのように。
寝台の脇に腰を下ろし、そっと手を伸ばす。
指先が、頬に触れた。
ぞっとする。
嫌悪が、皮膚の下を駆け抜ける。
「……何を、言っているの」
絞り出すように言う。
ルシアンは、少しだけ驚いたように瞬きをしたあと、柔らかく笑った。
「救いですよ」
穏やかに続ける。
「あなたは、ずっと助けを求めてた」
救い。
その言葉に、胸の奥が熱を帯びる。
「……何を言っているの」
短く、もう一度。
ルシアンの瞳がわずかに揺れる。
だが、微笑みは崩れない。
「ヴァルツ家に従い、私との愛を阻まれて、あなたはどれほど悲しんでいたか」
「私には分かっていました」
愛。
その言葉を、当然のように口にする。
「あなたは、父に逆らえなかった」
「私を選びたくても、選べなかった」
違う。
違う。
あれは、選びたくて選べなかったのではない。
最初から、選ぶつもりなどなかった。
「今も、政略結婚で苦しいのでしょう?」
ルシアンは、優しく問いかける。
「嫌々嫁がされた」
「あなたは、また利用されている」
その言葉に、胸がざわつく。
カーライルの顔が浮かぶ。
不器用な優しさ。
守ると言った声。
それを、知らないくせに。
「私が助けます」
ルシアンは囁く。
「もう、誰にもあなたを利用させない」
指が、顎に触れる。
顔が不自然に上を向く。
イリスは唇を噛んだ。
「ルシアン、やめて」
必死に声を絞り出し、顔を背ける。
それでも、彼は近づく。
唇が迫る。
「…嫌っ!」
強く身体を捩る。
縄が食い込み、痛みが走る。
ルシアンは、そこで止まった。
ほんの一瞬だけ、目に影が差す。
だがすぐに、優しい顔に戻る。
「……まだ、洗脳が解けていないのですね」
悲しげに、そう言う。
洗脳。
私が間違っているという言い方。
「大丈夫です」
穏やかに続ける。
「あなたが嫌がることはしません」
そう言いながらも、手は離れない。
「でも、すぐに思い出します」
「あの時の、私たちの愛を」
あの時。
月明かりの下で交わした約束。
未来を語った夜。
あれは、全部。
嘘だった。
イリスは、掠れた声ではっきりと言う。
「私は」
「あなたと、愛し合ったことはない」
ルシアンの目が、わずかに揺れた。
だが、それでも否定を受け入れない。
「今は、そう思わされているだけです」
静かに断言する。
「時間はあります」
「ここには、誰も来ません」
その言葉に、冷たいものが背中を走る。
だが。
胸の奥には、別の確信がある。
来る。
カーライルは、必ず。
ルシアンは立ち上がる。
「焦りません」
「あなたが本心を取り戻すまで、私は待ちます」
扉へ向かい、振り返る。
「今度こそ、二人で生きていきましょう」
鍵の音が響く。
部屋に、静寂が落ちる。
縄の痛み。
早い鼓動。
消えない恐怖。
それでも。
もう、あの頃の自分ではない。
私には、助けてくれる人がいる。
迎えに来てくれる人を、信じている。
***
どれほど時間が経ったのか、分からない。
窓から差し込む光が、ゆっくりと傾いていく。
手首の縄は固く、皮膚が擦れてひりつく。
喉が乾く。
唇が、少しひび割れているのが分かる。
空腹も、じわじわと身体の奥を蝕み始めていた。
扉の向こうで、足音が止まる。
鍵の音。
扉が開く。
「起きていますね」
柔らかな声。
ルシアンだった。
手には盆を持っている。
湯気の立つ皿と、水差し。
まるで、病人を見舞う恋人のような顔で近づいてくる。
「食事を用意しました」
寝台の脇に腰を下ろす。
縄を解く気配はない。
代わりに、器を持ち上げる。
「私が食べさせてあげます」
屈辱が、胸を焼く。
「……いりません」
短く拒む。
ルシアンは困ったように眉を下げる。
「体を壊しますよ」
「私は、あなたを大切にしたい」
匙を口元に運ぶ。
イリスは顔を背ける。
匙が空を切る。
ルシアンは、少しだけ息を吐いた。
「無理強いはしません」
優しい声。
だが、手は止まらない。
再び、口元へ。
「食べないなら、点滴でも用意しないといけませんが」
穏やかに続ける。
「あなたは針が苦手でしたよね」
ぞっとする。
笑顔の裏の狂気を。
「……だったら家に返して」
必死に声を絞り出す。
「それはできません。あなたを愛しているから」
迷いなく、即答する。
その目に、疑いはない。
しばらく拒み続けた。
だが、喉の渇きが耐えがたくなる。
空腹が、思考を鈍らせる。
カーライルが来る。
きっと来る。
それまで、体力を失うわけにはいかない。
ゆっくりと、顔を正面に戻す。
ルシアンの目が、わずかに輝く。
「……少しだけ」
声は震えていた。
屈辱が滲む。
「もちろん」
嬉しそうに、匙を差し出す。
口を開けると、温かいスープが流れ込んできた。
味がする。
それが余計に、現実を突きつける。
ルシアンは、丁寧に食べさせる。
一口ごとに、満足そうに微笑む。
「ほら、やはり私の言う通りです」
「あなたは、私に世話をされるのが似合う」
その言葉に、胸が強く波打つ。
違う。
私は、誰かに飼われる存在ではない。
だが、今は耐える。
飲み込む。
口元に運ばれた水で喉を潤す。
屈辱と引き換えに、体力を得る。
食事を終えたあと、ルシアンは盆を脇へ置いた。
布で丁寧にイリスの口元を拭い、そのまま自然な動作で立ち上がる。
「そろそろ休みましょうか」
気遣うような優しい口調だった。
灯りが落とされる。
部屋は、柔らかな闇に包まれる。
縄は解かれない。
その事実が、はっきりと意識に浮かぶ。
「……このまま、ですか」
声が震える。
ルシアンは一瞬だけ考えるような素振りを見せて、すぐに微笑んだ。
「安心してください」
「私は、あなたを傷つけません」
そう言って、彼は靴を脱ぎ、衣服を整え――
当然のように、寝台へ上がってきた。
イリスは身構えるが、一気に距離が縮まる。
拘束された手足では逃げ場がない。
次の瞬間、腕が回される。
優しく、迷いなく。
まるで「ここが定位置だ」とでも言うように。
身体が引き寄せられる。
イリスは、動きにくい身体で必死に身をよじる。
背中に、ルシアンの身体が触れた。
首筋に、ぬるりとした息がかかる。
ぞわりと、全身に悪寒が走った。
気持ち悪い。
理屈ではなく、生理的な拒絶。
「……やめて」
小さく訴える。
ルシアンは、囁くように答えた。
「落ち着いて」
「眠るだけです」
耳元に落とすように。
吐息が、首元を撫でる。
逃げようとすれば、どうなるのか。
この穏やかな声が、どんなふうに変わるのか。
想像してしまう自分が、いちばん怖かった。
カーライルと眠った夜を、思い出す。
広い寝台。
距離を保ったまま、背を向けて。
「何もしない」と、静かに言ってくれた声。
あの腕は、守るためにあった。
触れられても、怖くなかった。
安心できた。
――全然、違う。
これは、違う。
「……大丈夫」
ルシアンが、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「私がいます」
腕に、わずかに力がこもる。
逃がさないという意思が、はっきり伝わってくる。
イリスは目を閉じた。
眠れない。
心臓がうるさくて、呼吸が浅くて、身体が強張ったまま。
不安。
恐怖。
嫌悪感。
すべてが絡み合って、胸の奥を満たしていく。
それでも――
信じている。
カーライルは、必ず来る。
あの人は、約束を違えない。
この腕ではない。
あの人の腕に、もう一度戻る。
必ず。
ルシアンの抱擁の中で、
イリスは一睡もできないまま、静かに夜をやり過ごした。




