NO.16 失って気づくもの
屋敷へ戻ったとき、空気が違った。
騒ぎは収まりつつあるはずなのに、どこか空白がある。
「カーライル様……」
侍女が床に倒れている。
護衛の顔は蒼白だった。
カーライルは走らない。
歩みを止めない。
「説明しろ」
低い声。
「奥様が、気分を悪くされ……裏口へ……その後、姿が――」
最後まで聞かなくても分かる。
裏口には、誰もいない。
石畳の端に残る轍。
新しい。
甘い匂いが、まだかすかに漂っている。
薬だ。
理解が、冷たく胸へ落ちる。
――連れ去られた。
心臓が強く打つ。
だが表情は動かない。
「門を閉じろ。全出入口封鎖。王都警備へ即時通達」
次々に命令が落ちる。
「周辺の馬車をすべて止めろ。車輪幅、色、御者の特徴を洗え」
護衛たちが走る。
側近が一瞬、言葉を失ったまま彼を見つめていた。
ここまで冷えた表情を、見たことがなかった。
***
廊下を歩く。
足音が硬い。
途中、視線が止まった。
椅子の背にかけられた薄いショール。
朝、イリスが羽織っていたものだ。
無意識に手を伸ばす。
指先に触れる布は、まだわずかに温かい気がした。
最初は、嫌っていた。
ヴァルツ家の娘。
政略結婚の駒。
厄介な存在。
そう思っていた。
彼女が屋敷へ来た日、無表情のまま頭を下げた姿を思い出す。
背筋が伸び気丈な姿。その裏にある心を考えもしないで。
目を見ようとはしなかった。
あのとき、自分は距離を取った。
余計な情を持たないように。
利用されないように。
だが。
いつからだ。
立ち上がるとき、無意識に手を差し出すようになったのは。
日常の些細なことが気になるようになったのは。
夜、悪夢から覚めた彼女が、小さな声で「……怖い」と告げたあの日。
抱き寄せた瞬間、彼女の体がどれほど軽かったか。
震えを止めるためだけに回したはずの腕を、離す理由が見つからなかった。
温室での未遂。
夜会での再会。
「怖かった」と、彼女が初めて素直に言ったとき。
胸の奥が軋んだ。
守るのは義務だと思っていた。
だが違う。
失うかもしれないと考えた今、はっきりと分かる。
彼女がいない未来を、想像したくない。
拳が机に強く押し付けられる。
木がわずかに軋む。
――また、間に合わなかった。
ヴァルツ家へ戻したときの後悔が蘇る。
違和感を覚えながらも、踏み込まなかった。
結果、彼女は傷ついた。
そして今。
自分の判断で、門へ向かった。
彼女を残して。
胸の奥に苛立ちが渦巻く。
自分に。
敵に。
そして、この状況に。
「後悔は後だ」
低く呟く。
今は早く取り戻さなければ。
***
ジェラルドは応接間の一室に拘束されていた。
豪奢な部屋だが、窓は閉ざされ、護衛が二名立っている。
椅子に縛られたまま、彼は静かに座っていた。
扉が開き、カーライルが入る。
視線が合う。
ジェラルドの口元がわずかに歪む。
「遅かったですね」
穏やかな、少し嘲りを含んだ声。
カーライルは近づき、真正面に立つ。
「他に誰がいる」
怒りを隠す気がなかった。
声は驚くほど低い。
ジェラルドは目を細める。
「何のことでしょう」
「単独ではない」
視線が揺らがない。
「屋敷内の混乱は何重にもなっていた。お前一人では足りない」
一瞬。
ジェラルドの目に、苛立ちが走る。
ほんのわずか。
「……私は、彼女を迎えに行っただけです」
「失敗したな」
静かに返す。
ジェラルドの唇が歪む。
あれは計画通りではなかった。
奪われた。
結果的に、自分の獲物を。
「誰だ」
カーライルの声が落ちる。
怒鳴らない。
だが圧がある。
「名を言え」
沈黙。
ジェラルドは視線を逸らさない。
そして、ゆっくり笑った。
「あなたは、守れると思っている」
挑発ではない。
確信のような声。
「ですが、イリス様は驚くほど敵が多い。彼女はまた奪われる」
次の瞬間。
カーライルの拳が、壁を叩いた。
鈍い音が響く。
今まで抑ええいた感情が表に出る。
怒り。
焦り。
恐怖。
「二度と、その名を軽々しく語るな」
低く、押し殺した声。
ジェラルドはそれ以上何も言わなかった。
部屋を出ると、廊下の冷たい空気が頬をなぜた。
深く息を吸う。
僅かな震え。
それは怒りだけではない。
彼女がいない。
その事実が、胸を締めつける。
「……今度は、私が迎えに行く」
静かな誓い。
政略でも義務でもなく、一人の男として。
彼女を失うことは、許されない。
王都全域へ封鎖命令が下る。
検問が強化される。
街道が塞がれる。
狩りが始まる。
カーライルはもう、迷わない。
彼女は、取り戻す。
必ず。




