悪女の転生1
その日、彼女は死んだ。
彼女は自他共に認める悪女だった。そう。彼女は自分が悪であると知っていた。知っていて直すことはしなかった。直したとしても何も変わらないと知っていた。自分をさらけ出せないなら自己嫌悪に陥ると知っていた。そうして結局憂さ晴らしをしなければならないほど精神的に壊れて、余計酷くなると知っていた。
彼女は全てを最初から持っていた。美貌も、財力も、権力も、教養も。簡単に手に入ったから、それは最早自分自身のものではなかった。それは与えられたものだった。それは自分で得たものではなかった。全ては紛い物だった。彼女は酷く空っぽだった。何もかも持っていたが故に、彼女自身は何も持っていなかった。
彼女は全てを欲した。空っぽである自分を埋める為の何かを欲した。けれどその何かが分からなかった。その何かを教えてくれる人はいなかった。彼女は孤独だった。その孤独を埋めようと躍起になった。その孤独を埋めるのは自分の容姿や財力や権力に釣り合う人であると信じて疑わなかった。自分と似ている人を欲した。似ている人は自分を理解してくれると思っていた。彼女は孤独でありたくなかった。
彼女は純粋なものを許せなかった。清純なものを許せなかった。醜い感情を持っていないものが許せなかった。簡単に人を信じるものが許せなかった。簡単に人の心を掴んでいくものが許せなかった。素直なものが許せなかった。自分より幸せなものが許せなかった。正しい選択だけをするものが許せなかった。綺麗事な自己犠牲を払うものが許せなかった。美しい青春を謳歌するものが許せなかった。けれど醜いものは許せなかった。
彼女は貪欲だった。欲しいものは手に入れ、邪魔なものは排除した。自分の理想と違えば躊躇いなく手に入れたものも捨てた。気に入ればそれに執着した。誰に何を言われようと彼女は変わらなかった。彼女は様々なものを手に入れた。けれど孤独は埋まらなかった。その虚無感を純粋なものを虐めて一時的に埋めていた。彼女はそれらが辛そうに顔を歪め、泣くのを見て幸せだった。自分の方が優位に立っているという幻影が心地好かった。けれど所詮幻影でしかなかった。それは刹那的な快楽でしかなかった。それは何も生み出さなかった。
それでもその一瞬の快楽は彼女を溺れさせ、彼女は権力に笠を着せ理不尽な難癖をつけ、飽きることなく陰湿な嫌がらせを繰り返し、美貌を余すところなく生かして多くの男供を堕とし、そうして彼女は高らかに笑っていた。他の者を見下す感覚が心地好かった。それでも孤独は埋まらなかった。そして本当は、こんなことで何も得るものはないと分かっていた。けれどそれを認められなかった。その行為が唯一、彼女が幸せな時だった。彼女は何も怖れなかった。彼女は何も持っていなかったから、何を怖れる必要もなかった。
そうして彼女は幾多もの男をはべらかし、幾多もの女を傷付けて、傍若無人な態度で悪女になった。
親には見切りを付けられ勘当され、誰も彼もが彼女を嫌い、何をしても迫ってくる孤独感や虚無感に耐えられず、彼女は身体の繋がりを求めた。何も考えられなくなる程の快楽を求めた。その時だけは何もかも忘れていられた。仮初めの温もりが感じられた。その温もりに溺れた。けれどその行為に愛はなかった。ただの非生産的な行為だった。愛のない行為を繰り返し、身体だけ求められる行為は苦痛を伴い、それでも生きることは諦められず、歪んだプライドはいまだに顕在し、歪みきった彼女を誰も彼もが遠巻きに見ているなかで、彼女は独りで悪女の演技を続けていた。途中で辞めるには、もう既に遅すぎた。
諦めの悪い子でした。負けず嫌いな子でした。プライドが高く、自分の意思を貫き通す子でした。馬鹿にされたくありませんでした。だから努力を惜しみませんでした。自分が一番幸せだと信じて疑いもしませんでした。自分は何でも手に入れることができるから、世界は自分のものだと思い込んでいました。
けれど所詮何もかも与えられていたもので、世界は自分のものじゃなく他人のもので、強欲な私はその愚かしい思い込みで周りを不幸にしてきた罪を問われるべく、こうして殺されるのです。
――漸く解放される。
もう何もかも終わりにしよう。この先がもし地獄だとしても――この息苦しい世界では生きられない。私は今度こそ生きるのだ。自分自身を見つけて、振り回されることなく、途を踏み外すこともなく。
彼女は自身の身体から飛び散る美しい血飛沫が、闇の中で星明りに照らされるのを見ながら、微笑んだ。
凄絶な程の美しさで、見るもの全てを魅了するようなしなやかな体躯を崩し、艶やかな唇は血に塗れ、夢見る少女のような、どこか危うい、それでいて純粋そのものの瞳で空の星を掴み。
彼女の死に際は、まるで舞台のワンシーンのように美しく洗練されていて、幻想的で、残虐そのものの筈なのに血生臭さを感じ得ないものであった。
そしてそれが逆に、背筋を凍らせる程恐ろしいことであったと見ていたものたちは言う。
「彼女の死に際は、死ぬまで忘れることは無いだろう――俺達は、彼女を殺したという罪に永遠に苛まれながら、これから生きていくんだ」
きっと彼女の最後の悪行はこれだな――
そう言ったものたちは、もう二度と誰も傷付けようとはしないだろう。
たとえそれが、生粋の悪女であっても。
***
「なぜ……なぜ私は生きているの?」
呆然とした様子で立ち尽くしそう言ったのは、光沢を放つ漆黒の緩やかに巻かれた髪に、ルビーのような美しい赤い瞳をもち、誰もが羨むような絶妙なプロポーションの女だった。
彼女は自らの身体に情事後のような気怠さを感じつつも、それどころではないと焦っていた。
ここがどこかも分からない。今がいつであるかも分からない。そして自分の名前も分からない。
分かっているのは、自分の意識が“私”であるということと、瞳の色を除いては自分の容姿が生前のままだということだけだった。
――いえ。私は、この場所を見た事がある……?
どこか既視感を覚え、彼女は辺りを見回した。そこは小綺麗な石畳式の通りで、美味しそうな匂いをテラスから漂わせるレストランや、ガラス張りに色とりどりの花が見るものを楽しませる花屋、レンガ造りの洒落たブティック、ショーウィンドウに美しい人形が置かれた玩具屋など、多くの店が立ち並んでいた。
その場所は、いかにも彼女の艶かしい雰囲気には似合わない場所で、なぜ知っているのかと疑問に思う。
その時、柔らかな春を喜びさえずる小鳥のような、美しい声音が彼女の鼓膜を震わせた。その声にやけに聞き覚えがあり、彼女は信じられない気持ちでその声の主を凝視する。
「どうかしたのですか?」
心配そうに眉を下げ、彼女の自分の顔を見上げる少女に、彼女は嫌というほど見覚えがあった。
金色というには白が混じる柔らかな色合いの蜂蜜色の髪はストレートで、陽の光に当たり天然の天使の輪が出来ていた。蒼の瞳は、陽の光によってマリンブルーのような明るい色彩だったが、陰りを落とせば深海のように、慈愛に満ちた深い蒼になることを知っていた。小ぶりなパーツは人形のごとく精巧に配置され、華奢な体躯は庇護欲をそそる。
まさに“ヒロイン”と呼ぶに相応しい容姿の、その少女。
――アルシア・フィス・ユシュナール。
一介の町娘のような振る舞いをしているが、実際は隣国の王の隠し子であり、母娘だけでこの国に移住してきた、紛れもない王族である。しかしその事を、今は本人すら知らない。
なぜ本人すら知らない事を、彼女は知っているのか?
――それは、彼女はアルシアを知っていたからだ。それは生前のあの瞬間と全く同じであった。この町の通りも、店の建ち並びも、そして、自分がこの場所で、アルシアに話し掛けられることも。
そうか――あの時が、アルシアにとっての始まりだったのね。
段々と自分の頭から血の気が引いていくのを感じながら、彼女はそう理解した。
「具合が悪いのですか……? 私が勤めている花屋で、御休みになりますか?」
アルシアは青白くなる彼女を心配し、そう提案する。
だが混乱する彼女の耳には届かず、彼女は空虚を見つめていた。
――私は、やり直しをさせて貰えるのかしら。それとも、また殺される為にこの場にいるのかしら。悪役として、ここにいるべきなの――?
そう考えるとどうしようもなく虚しくなって、自分のここでの存在意義は何なのかと思ってしまう。
――変わりたいと、思っていた。やり直したいとも、思っていた。けれど、まだ整理されない内から、いきなりこの場面からスタートだなんて、いくら何でも酷いわ。
「とりあえず、建物の中に――」
アルシアは、今にも倒れそうな程弱々しげな彼女の手を取り、花屋へ連れていこうとした。
――バシッ……!
だが、その白く小さな手は、黒い手袋をはめた手に振り払われる。
振り払われた事それ自体よりも、その振り払う力が思いの外強かったことに驚き、アルシアは息を呑んだ。
「私のことなど、気にしなくて結構よ。それよりも、お客様をお待たせしているのではなくて?」
確かに、チラリと見れば会計を待つ客の姿がガラス越しに見えた。だが人の良いアルシアにとっては、今目の前にいる彼女の方が心配だった。弱々しい微笑みが、彼女のキツめの雰囲気を和らげ、儚さを醸し出していた。
その笑みは、彼女にとっては皮肉げに嗤ったつもりのものが思った以上に力が入らなく、そうなってしまっただけのものであったが。
「で、ですが……!」
「……私は、私の足で歩けるわ。情けなど無用よ」
制止の声も聞かず、彼女は背筋を伸ばし、幼い頃から身に付けた優雅で隙のない動作で歩き出す。兎に角、彼女はアルシアから離れたかったのだ。これ以上この混乱した状態でアルシアと接していれば、また自分はアルシアを苛めてしまうだろうから。
彼女の元婚約者である第一王子――ジュラル・フィス・ノルタイズ――の近衛兵であるカルス・アーバンと、アルシアが出会う。それが、その場面であった。
彼女は、ジュラルがカルスに何かを頼んでいるのを見ており、その何かが気になりカルスの後を付いていくのだ。そして、この花屋へ入っていくのを見た。
ジュラルがくれる贈り物の中には、いつも花など入っていなかった。それは彼女自身がそこまで花を好きではなかったというのもあるし、彼女を知っている者は誰でも、彼女に花などという可憐なものは似合わないと思うからだ。
だから彼女は怪しんだ。ジュラルが、他の令嬢に贈り物をするのではないかと思ったのだ。
実際は、カルスは普通の花が目的ではなかった。ただ、彼女を欺くために花屋を受け取り場所にしただけなのだ。本当にジュラルに頼まれていたものは、その花屋の主人が秘密裏に手に入れている、見た目は華やかで美しい、毒花だった。
だが彼女はそれを知る筈もない。見た事もない美しい花――それは毒々しく、しかし人を魅了して止まないものであり、彼女はそれを贈られるであろう女を恨んだ。
――けれどもしかしたら、私宛のものかもしれないわ。だって、こんなに美しいのですもの。私にぴったりの花だわ。
「……そうね。私にぴったりな毒花だわ――見た目だけ豪奢で、中身は悪そのもののところが、全く一緒」
彼女は自嘲的に笑っていた。あの時自分が夢見る乙女のように浮かれ考えたことは、確かに当たっていたのだから。
あれから、ジュラルは彼女にその花を贈った。――彼女の身体にゆるりと毒を回し、確実に弱らせ――殺す為に。
彼女は婚約者の意図に全く気付かず、心の底から喜び、礼を言ったのだった。
そのままいけば、彼女は徐々に弱り、悪女のレッテルを貼られることもなく、死んでいっただろう。
けれど皮肉なことに――彼女をその毒花から救ったのは、アルシアだったのだ。
アルシアはその花が毒花であると知っていた。だから毒花を買ったカルスに、何の目的の為に買ったのか聞くのだ。態々毒花を、こんな大衆の目がある中で買うのはなぜかと。
普通であれば、毒花を売るときはこの店の主人であるノクタルが所定された場所に送り、それを購入者が受け取るのだ。アルシアはそれを防ぎたくとも、防ぐ術はなかった。
だが自分の目の前で事が起こって何もしないことは、アルシアには出来なかった。そして、カルスの言葉を聞いて、アルシアは呆然としてしまった。
「元々は予約しようとしてたんだけどな。あの女――あいつがこの花を贈る女だが――ほら、今あいつはこの花を自分が贈られるって思って、恍惚の表情を浮かべてるんだぜ? この花が毒花だとも知らずに――馬鹿だよなぁ? ククッ、予想通り過ぎて笑えるよ」
そう言って笑うカルスは頬をアルシアに叩かれ、女に叩かれたことなどない彼はアルシアに興味を持つのだ。
「なら、間近であの女を見てれば良い――そんくらいのことをさせるくらい、あの女は“悪女”だ」
――それからアルシアは、度々王宮に入ることとなる。名目上は庭師見習いとして。そして便宜上はカルスの恋人として。
カルスの地位は王宮内でも上位に入る。その方がとやかく言う者も減らせるし、アルシアを気に入ったカルスは本気でアルシアを恋人にしようとしていた。
カルスは低い身分の出で、しかも三男という立場だ。結婚するのは貴族でなくても構わなかった。
第一王子の近衛兵としての有無を言わさぬ強さは、大抵の人は彼の言葉を否定することは出来ない。
そのカルスに対して反抗的なアルシアを手に入れたいと思うのは、恋心というよりは難攻不落の要塞を落とすような、ゲームの一種であった。
アルシアへの恋心は、やはり“悪女”という存在があったからこそ芽生える。
「貴女――平民の分際で、よくのこのこと王宮に入れるものね……?」
勿論彼女は平民のアルシアが王宮に入ってきたのを気に入らない。得体のしれない女に対して非難しても、何ら普通のことだとアルシア自身思っていた。
だが彼女の命を守る為には自分が必要だと思っている。だからアルシアは嘘の立場で王宮に入ることに罪悪感を抱きつつも、通うことは止められなかった。
その毒花は、夜になるとその花粉が有毒になるという花だ。しかもその毒は、昼間に日の光を多く浴びれば浴びるほど強い毒となる。この花粉はなぜか人体には影響を及ぼすが、他の動植物には無害な花粉だった。しかもその毒は直ぐに霧散し、朝には既に無害となる。
この花さえ捨ててしまえば証拠が残らないままに簡単に人を殺せる毒花は、とても都合が良かった。
だからこそ婚約者のことを疎ましく思っているジュラルは、夜に見る花も素敵なことでしょうとそれとなく示唆して、彼女を毒に侵させようとしていた。
ジュラルを異常な程慕っている彼女がそう言われて実行しない筈がない。予定通りその日彼女は死ぬだろう――と高を括っていたジュラルだったが、それはアルシアによって防がれる。
彼女はアルシアの言葉など信じる訳が無いと解っていたので、アルシアは最早下手な遠回しの言い方では無く、単刀直入に言ってのけた。――あの花は夜になると毒を持つ花粉を振り撒くのです――と。
愛しの殿下からの贈り物が毒だとは認められず、彼女はアルシアを叩いたりその綺麗な淡い金髪を引っ張ったりしながら、「嘘言わないで! 殿下がそんなものを私に贈る訳が無いわっ!!」とヒステリックに叫んだ。その様は余りに醜悪で、その場にいた者がアルシアへの同情を買うには十分だった。
そんな彼女の凶行からアルシアを救ったのがジュラル本人である。
「僕は植物に関して素人で、アルシアは王宮に仕える庭師だ。アルシアの言っていることは多分本当なんだ。そうだろう? ――僕はこの花が君に似合っていると思ったから贈ったのだが、こんな危険なものだったとは知らなかった――すまない。アルシアに否は無いのだ。怒るなら僕に怒ってくれないか?」
そんな嘘をよくもスラスラと言える、と冷たい目で見ていたアルシアだったが、彼女は勿論そんな愛しの人の嘘を信じる訳で。
そうなると、彼女はアルシアを許す他なくなるのだ。
忌々しそうに自分を赦した彼女を見て、アルシアの心境は複雑だ。本当はジュラルは彼女を殺そうとしていたのだ。それを助けたというのに、蹴られ、叩かれ、髪をむしられ、そして謝罪するどころか、自分が言った言葉に対し“許す”と言っているのである。
苛つかない訳がない。アルシアは彼女にとってはヒロインの立ち位置であっても、一人の人間に過ぎないのだ。“善”だけでできている訳がなかった。
だが彼女はそこで自分を律することができた。周りを冷静に分析することができた。自分が上手く立ち回れる行動を解っていたのだ。
それに彼女のことを哀れだとも思っていた。確かに彼女はやり過ぎるところがある――だがその動機は至って単純明快で、ある意味可愛らしいと取れなくもない。そのやり過ぎるところを諫めてやる者がいれば素直な彼女は変わるだろうに、周りが余りに彼女を偏見していて、その事を失念しているのだ。その役目たるジュラルは最早治すどころか、命を奪うということまで考えている。
……まぁ、そこに至るまでの何かしらはあったのだろうが、それにしても純粋な好意を無下にするどころか、好意をへし折ってグシャグシャにして、そこから鋭利な刃物に変えて返すというやり方は頂けない。
流石に不憫だと思った。彼女は誰からも愛されていない。本当の愛を知らない。だからこそやり過ぎて、疎まれて、更に愛が得られなくなる。悪循環そのものなのだ。
それがどうしようもなくいじらしく庇護欲をそそった。馬鹿な子ほど可愛いとよく言ったものだが、まさにその心境だった。
アルシアは周りに同情されていたが、アルシアは虐めてきた彼女に同情心を抱いた。そうして愚かだと馬鹿にして、愛でていたのだった。
その心境は本人のみぞ知ることで、その後も王宮に入っては事あるごとに虐められるアルシアを見て、それでも頑張っている少女はなんて健気なのだろうと、王宮内では評判となる。
彼女からアルシアを庇うカルスも同様で、その頃はっきりとアルシアへの恋心を認識する。
だがアルシアは彼女が愛おしくて仕方無く、カルスの気持ちに気付く暇もなかった。