第9話 夜は離してあげられない
それからの夜は、少しだけ変わった。
日が落ちると、私は毎晩、ディートの部屋を訪ねるようになった。
訪ねる、というより、迎えに来られる、と言ったほうが正しいかもしれない。
夕食を終えて廊下に出ると、扉の隙間から、小さな手がちょこんと覗いている。
「ミレッタ、おそい」
「ごめんなさい。お風呂に入っていたの」
「ぼく、まってたのに」
「そうね。待たせてしまったわね」
頬をふくらませる顔があまりにも愛らしくて、私はつい笑ってしまう。
すると、ディートは私の手を引いて部屋に入り、背伸びをして、内側から鍵をかけるのだ。
カチリ。
その音にも、すっかり慣れてしまった。
寝台に入ると、ディートは私の腕にぴたりとくっついて離れない。
夜明けまで、ずっと。
少しでも身じろぎをすると、眠っているはずなのに、小さな手がぎゅっと袖を掴んでくる。
「ミレッタ、どこいくの」
「どこにも行かないわ。寝返りを打っただけ」
「ほんと?」
「ええ、本当」
「……ぜったい、だよ」
そう言って、また寝息を立てる。
その繰り返しだった。
夜が明ける前に、ディートは私を起こして、部屋へ帰るように言う。大人の姿に戻るところは、まだ見られたくないらしい。
けれど、自分の部屋で目を覚ましたとき、私の手首には、いつも小さな指の跡が薄く残っていた。
昼の旦那様は、相変わらず冷たい。
少なくとも、表向きは。
朝食の席で顔を合わせれば、「おはよう」と素っ気なく言うだけだし、廊下で行き合っても、軽く頷いて通り過ぎる。
けれど、庭で痣を見せてしまった日から、少しだけ違うことがあった。
仮面を、つけたりつけなかったりするようになったのだ。
私と二人でいるときは、外している。
使用人や来客のいる場面では、つける。
その線引きが分かりやすくて、私は何だか、特別な信頼をもらったような気がしていた。
「ミレッタ」
ある昼下がり、書庫で本を探していたとき、背後から声をかけられた。
振り返ると、仮面をつけていない旦那様が、扉の枠にもたれて立っていた。
「旦那様。何か、御用でしょうか」
「……用というほどのものでは」
視線が、泳いでいる。
「昼食を、一緒にどうかと思ってな」
「まあ。喜んで」
そう答えると、旦那様は、ほっとしたように息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
(あ、笑った)
夜のディートが見せる、あの笑い方と同じだった。
胸が、とくんと跳ねる。
「どうした」
「いえ、何でもありません」
「顔が赤いぞ」
「き、気のせいです」
慌てて本棚のほうを向くと、背後で、小さく喉を鳴らす音がした。
笑われている。
そう気づいて、余計に顔が熱くなった。
その日の午後、屋敷に医師が訪れた。
白髪まじりの穏やかな方で、バルド先生という。月に一度、旦那様の診察に通っているのだと、ハンスさんが教えてくれた。
診察を終えた先生は、応接室で、私にも挨拶をしてくれた。
「奥様、はじめまして。公爵様のご体調は、このところ非常によろしいようですよ」
「本当ですか」
「ええ。三年ぶりに、顔色が戻っておいでです。何か、お心当たりは」
「いえ、特には……」
そう答えかけて、ふと背筋に冷たいものを感じた。
廊下の向こうから、じっと、こちらを見ている視線がある。
振り返ると、柱の陰に、仮面をつけた旦那様が立っていた。
「旦那様?」
「……診察は、終わったのか」
「はい。つつがなく」
「そうか」
バルド先生が、苦笑しながら立ち上がった。
「では、私はこれで。奥様、またお会いしましょう」
「はい、お気をつけて」
先生が帰っていく間、旦那様は一言も発しなかった。
ただ、その背中を、氷のような目で見つめている。
先生が見えなくなると、旦那様は私の隣に立ち、低い声で言った。
「ずいぶん、楽しそうだったな」
「え?」
「医師と、あんなに笑って」
「診察の結果を伺っていただけですが……」
「……そうか」
沈黙が落ちた。
旦那様は仮面の奥で、不機嫌そうに視線を逸らしている。
それがまるで、お気に入りの玩具を取られた子どもみたいで。
「旦那様、もしかして」
「何だ」
「やきもちですか」
「違う」
即答だった。
けれど、耳の先が、ほんのり赤い。
私は必死に笑いをこらえた。
その夜。
いつものように、ディートに手を引かれて部屋に入った。
鍵が、カチリと閉まる。
ディートは、そのまま私の腰に抱きついて、顔をぐりぐりと押しつけてきた。
「ミレッタ」
「なあに」
「ひるま、おいしゃさんと、わらってた」
「……見ていたの?」
「みてた。すごく、いやだった」
小さな声が、ふるふると震えている。
「ぼく、ミレッタが、ほかのひとと、わらうの、いや」
「ディート」
「おいしゃさんも、にわしさんも、ハンスも。みんな、ミレッタのこと、すき」
「まあ……」
「ぼくだけが、いいのに」
むうっと、頬をふくらませる。
私はしゃがんで、ディートの目線に合わせた。
「ディートは、私の旦那様でしょう?」
「……うん」
「私が一番に大切に思っているのは、ディートよ」
「ほんと?」
「ええ。一番よ」
そう言うと、ディートの瞳が、ぱあっと明るくなった。
それから、ちょっと意地悪そうに目を細めて。
「じゃあ、きょうは、ぼくがいいって、いうまで、はなさない」
「え?」
「ミレッタが、ねむくなっても、はなさない」
「それは困るわ、朝までに眠らないと」
「いいの。ぼくが、だきしめてるから」
寝台に引っ張り込まれ、小さな腕で、思いのほか強く抱きしめられた。
顔が近い。深い青の瞳が、私だけを映している。
その目が、一瞬だけ、昼の旦那様のものと重なった。
熱を帯びて、どこか切実で、怖いくらいに真剣な目。
「ミレッタ、すき」
「……私も、好きよ」
「ほんとう?」
「ええ。小さいディートも、大きい旦那様も」
「じゃあ」
ディートは、満足そうに笑って、私の首筋に顔を埋めた。
「やくそく。ぼくから、はなれちゃ、だめ」
「約束するわ」
「うれしい」
夜が、ゆっくりと更けていく。
彼の寝息を聞きながら、私は思った。
この人の独占欲は、少し強すぎるくらいかもしれない。
けれど、不思議と、怖くはなかった。
むしろ、こんなふうに強く求められることが、胸の奥を温かく満たしていく。
屋根裏で、誰にも必要とされずに過ごした日々が、もう遠く思えた。
そのときだった。
窓の外から、馬車の車輪が石畳を叩く音が、かすかに聞こえた。
こんな夜更けに、誰が。
私は小さく眉を寄せたが、腕の中の温もりに引き戻されて、そのまま目を閉じた。
翌朝、ハンスさんから、思いもよらない来客を告げられることになるとは、知らずに。




