第8話 逃がさない(ディート視点)
扉の前で、ディートは何度も立ち止まっていた。
鍵は、さっきかけた。ハンスが置いていった寝間着も、ちゃんと着た。首には、ミレッタが返してくれた指輪が下がっている。
あとは、朝まで寝ていればいい。
それだけのことなのに。
「あけちゃ、だめ」
小さな声で、自分に言い聞かせた。
「あけちゃ、だめだ。あけちゃ、だめ」
それなのに、気づくと、鍵に指がかかっている。
背伸びをして、ぐっと回した。
カチリ、と音が鳴る。
扉を、ほんの少しだけ開けた。
廊下の冷たい空気と一緒に、柔らかな灯りが、すうっと流れ込んでくる。
床に置かれたランプ。
その隣に、毛布を肩にかけたミレッタが、小さな椅子に座っていた。
「こんばんは、ディート」
ディートは、息が止まった。
「……なんで」
「待っていたの。夜になったら、会えるかなと思って」
ミレッタは、ふわりと笑った。
昼間、庭で自分の痣を見たときと、同じ顔だった。
驚いていない。怖がっていない。ただ、嬉しそうに、こちらを見ている。
「ミレッタ」
「うん」
「ひるま、ぼくに、ゆめだって、いった」
「……ええ」
「うそ、でしょ」
小さな声が、震えた。
ディートは、扉の縁を握りしめる。
「ぼくのこと、しってるんでしょ」
長い、沈黙が落ちた。
ミレッタは、じっとディートを見つめている。
その沈黙が、怖かった。
逃げられる。
そう思って、心臓がきゅうっと縮んだ。
けれど、ミレッタは静かに頷いた。
「はい。知っています」
「…………っ」
「初めて抱き上げたとき、瞳の色が、旦那様と同じだと思いました。指輪を見て、確信しました」
「いつ、から」
「最初の夜から」
「……さいしょの、よるから」
ディートの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ぼく、こわくない? ばけもの、みたいって、おもわない?」
「思いません」
「うそだ。みんな、いなくなった。みんな、にげた」
「私は、逃げません」
ミレッタは椅子から降りて、ディートの前に膝をついた。
同じ高さで、まっすぐに目を合わせてくる。
「泣き虫で、寂しがり屋で、とても頑張り屋さんの、私の旦那様です。怖いところなんて、ひとつもありません」
ディートは、堪えきれなかった。
「うわ……っ、ああ……っ」
声を上げて泣いた。
大きな声で、子どもみたいに。
ミレッタは、そのまま、ぎゅっと抱きしめてくれた。
温かい。柔らかい。薬草の、優しい匂いがする。
腕の中で泣きじゃくりながら、ディートは思った。
もう、だめだ。
この人を、離せない。
しばらくして、涙が止まった。
ミレッタの肩に顔を埋めたまま、ディートは小さな声で言った。
「ミレッタ」
「なあに」
「ぼくの、へやに、きて」
「ええ、いいわよ」
手を引いて、部屋の中へ連れていく。
ミレッタが一歩入ったところで、ディートは扉を閉めた。
そして、背伸びをして、鍵をかけた。
カチリ。
ミレッタが、ぱちぱちと瞬きをする。
「ディート?」
「かぎ、かけた」
「……そうみたいね」
「ミレッタが、にげないように」
ディートは、鍵を小さな手のひらに握りしめた。
「ぼくがもってる。ミレッタは、あけちゃだめ」
言ってから、はっとした。
こんなことを言ったら、嫌われるかもしれない。怖がられるかもしれない。
そう思って、おそるおそる顔を上げた。
ミレッタは、笑っていた。
「閉じ込められてしまいましたね」
「……いや?」
「いいえ。嫌じゃないわ」
その答えに、ディートの胸が、ぎゅっと熱くなる。
「ほんとう?」
「ええ、本当」
「じゃあ、やくそく。ずっと、ここに、いて」
「ずっと、は難しいけれど……今夜は、ここにいるわ」
「あした、も」
「明日も」
「その、つぎの、ひも」
「そうね。その次の日も」
「ぼくが、おとなに、なっても?」
ミレッタは、少しだけ目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「もちろん。大人の旦那様のそばにも、ちゃんといるわ」
「ほかの、ひとのところには、いかない?」
「行きません」
「ぼくだけ、みてて」
「ええ、見ています」
「……やくそく、して」
ディートは、小さな小指を差し出した。
ミレッタが、自分の小指を絡めてくれる。
「約束」
その瞬間、胸の奥で、何かがぱちんと音を立てた。
離したくない。
絶対に、誰にも渡したくない。
この人は、ぼくのものだ。
そう思う気持ちが、小さな身体いっぱいに膨らんで、あふれそうだった。
寝台に横になると、ディートはミレッタの腕にしがみついた。
小さな身体を、ぴたりと寄せる。
「ミレッタ」
「うん?」
「ディートって、よんで」
「ディート」
「もっと」
「ディート。ディート、私の小さな旦那様」
くすぐったくて、嬉しくて、ディートは顔を枕に埋めた。
こんなに温かい夜は、初めてだった。
眠りたくない。目を閉じたら、朝になってしまう。
朝になれば、自分は大人に戻る。冷たい仮面をつけて、彼女に距離を置くふりをしなければならない。
けれど、夜のあいだだけは。
この人は、ぼくだけのものだ。
「ミレッタ」
「なあに」
「ぼくがね、おとなに、なっても」
「うん」
「にげたら、だめだよ」
「逃げません」
「にげたら……」
そこで、小さな声が途切れた。
続きの言葉を、ディートは飲み込む。
見つけ出して、閉じ込めてしまう。
そんな物騒なことを、思ってしまったから。
「……ううん。なんでもない」
「そう?」
「ミレッタ」
「うん」
「だいすき」
返事は、なかった。
見上げると、ミレッタはもう、穏やかな寝息を立てていた。
ディートは、ミレッタの手のひらに、そっと頬を寄せた。
小さな声で、ささやく。
「ぼくを、おいていかないで」
窓の外では、月が静かに輝いている。
腕の中の温もりを、ぎゅっと抱きしめたまま、ディートは目を閉じた。
絶対に、逃がさない。
そう胸に刻みながら。




