第7話 仮面の下(ディートハルト視点)
机の上の書類は、一行も読めていなかった。
ディートハルトは、頬杖をついたまま、窓の外の庭を眺めていた。
手元には、銀の指輪が置かれている。今朝、ミレッタが差し出したものだ。
「また、会えたらいいなと思います」
彼女の声が、耳の奥から離れない。
あれは夢の話だと、彼女は言った。小さな男の子が泣いている夢だと。
けれど、あの穏やかな目は、何もかもを知っている目だった。
(知っていて、知らないふりをしている)
それが分かるからこそ、どう受け止めればいいのか分からなかった。
恐れるべきか。感謝すべきか。
どちらも違う気がして、胸の中が落ち着かない。
コン、と扉が叩かれた。
「旦那様、失礼いたします」
「入れ」
ハンスが、いつもの穏やかな顔で入ってきた。
「奥様は、午後から庭にお出になっております。庭師のオスカーに、薬草のことを尋ねておいでのようです」
「そうか」
「夕刻までにはお戻りになるよう、申し伝えましょうか」
「いや、いい」
答えながら、ディートハルトは自分の声が妙に急いでいることに気づいた。
「……私が行く」
「左様でございますか」
ハンスは何も言わず、深く頭を下げた。
その口元が、ほんのわずかに緩んでいたように見えたのは、気のせいだろうか。
庭は、秋の光に満ちていた。
日はすでに傾き始めている。空の端が、橙色に染まりつつあった。
薬草園の隅に、栗色の髪の娘がしゃがみ込んでいる。傍らの籠には、摘んだばかりの葉が山になっていた。
ディートハルトは、庭へ続く石段の上で足を止めた。
(何をしに来たのだ、私は)
引き返そうと思った。
けれど、足が動かない。
その背中を、少しの間、眺めていたかった。
そのとき、風が吹いた。
ミレッタが顔を上げ、こちらに気づく。
「旦那様」
嬉しそうに笑って、立ち上がった。
その笑顔が、胸に刺さる。
「日が落ちる前に、屋敷へ入れ。風が冷たくなる」
「はい、すぐに。もう少しだけ、摘ませてください」
そう言って、ミレッタは籠を抱え、石段のほうへ小走りに駆けてきた。
危ない、と思った。
彼女の足が、石段の縁に引っかかる。
「あっ……!」
身体が前へ傾いだ。
考えるより先に、ディートハルトは動いていた。
両腕を伸ばし、倒れ込んできた細い身体を受け止める。籠の薬草が宙を舞い、ふわりと降り注いだ。
「……怪我は」
「だ、大丈夫です。ありがとうございま……」
そこで、ミレッタの言葉が途切れた。
籠の持ち手が、仮面の紐に絡まっていたのだ。
乾いた音がして、黒い仮面が石畳に落ちた。
時が止まった。
ディートハルトは、息もできずに立ち尽くした。
夕暮れの光が、顔の右半分を照らしている。
こめかみから頬、顎にかけて、黒紫の痣が走っていた。蔦が這うように、枝を伸ばすように、皮膚に刻まれた呪いの痕。
三年間、誰にも見せなかった顔だった。
(……見られた)
悲鳴が上がる。怯えた目で見られる。突き飛ばされて、逃げられる。
今まで何度も目にしてきた光景が、頭の中で繰り返された。
ミレッタは、じっとこちらを見上げていた。
翠色の瞳が、痣をまっすぐに捉えている。
逸らさない。震えもしない。
そして、彼女は小さく口を開いた。
「……痛くないですか」
ディートハルトは、耳を疑った。
「……何だと」
「その痣です。痛むのではないかと思って」
「…………」
言葉が出てこなかった。
三年間、誰からも聞かれなかった。
気味が悪い、化け物だ、近寄るな。そんな言葉ばかりを浴びてきた。
痛むのか、と案じてくれた者は、一人もいなかった。
「……痛みは、ない」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
「そうですか。よかった」
ミレッタは、ほっと息を吐いて笑った。
それから、足元の仮面を拾い上げ、袖で丁寧に土を払った。
「お返しします」
差し出された仮面を、ディートハルトは受け取れなかった。
「旦那様のお好きなようになさってください。でも、無理につけなくてもいいと思います。ここには、旦那様のお顔を笑う人は、一人もおりませんから」
「噂では……化け物のように醜い痣だと、言われている」
「噂は、ずいぶん大げさでしたね」
ミレッタは、あっさりと言った。
「私には、ただの旦那様のお顔に見えます」
ディートハルトの喉が、ひくりと鳴った。
目の奥が熱くなる。まずい、と思った。
そのとき、指先がじんと痺れた。
見上げると、空はいつの間にか、深い茜色に染まっている。
日没が、近い。
「……っ」
ディートハルトは、ほとんどひったくるように仮面を受け取った。
「屋敷に戻る。お前も、日が落ちる前に入れ」
「はい」
「それと……」
言いかけて、続きが出てこなかった。
ありがとう、と言うべきだった。
けれど、喉の奥で言葉が絡まって、どうしても形にならない。
ディートハルトは背を向け、足早に歩き出した。
「旦那様」
背中に、声が追いかけてくる。
「薬草茶を、お部屋にお届けしてもよろしいですか。眠りやすくなりますから」
立ち止まった。
振り返れなかった。
「……好きにしろ」
それだけを言って、ディートハルトは石段を駆け上がった。
自室に戻ると、扉に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
手の中の仮面が、やけに軽い。
着けようとして、手が止まった。
痛くないですか。
その言葉が、何度も頭の中に響く。
三年間、凍りついていたものが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
(私は、あの人に、何を求めている)
窓の外が、藍色に変わっていく。
指先が熱を帯び始めた。骨が軋む前触れだ。
ディートハルトは、仮面を机の上に置いた。
着けなかった。
痛みが全身に広がる中、彼は思った。
今夜、あの人は廊下にいるだろうか。
いてほしい。
いてはいけない。
その二つが、胸の中で激しくぶつかり合う。
けれど、小さな身体に変わっていく間も、彼は扉を見つめ続けていた。
鍵は、まだかけていなかった。




