第6話 知らないふりの朝
朝食の席で、私は何度も手を握り直していた。
掌の中には、昨夜の銀の指輪がある。
鎖ごと手巾に包んで、ずっと持ち歩いていた。落とすわけにはいかないし、かといって、置いていくわけにもいかない。
「奥様、お口に合いませんでしたか」
向かいで給仕をしてくれていたマーサさんが、心配そうに私を覗き込んだ。
「いえ、とても美味しいです。ただ、少し考えごとを」
「旦那様のことですか」
「……はい」
隠しても仕方がないので、素直に頷く。
「旦那様に、お会いできるお時間はありますか。お渡ししたいものがあるのです」
「それでしたら、ハンスさんに伝えておきましょう。昼過ぎなら、きっと」
マーサさんは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔が、昨日より少しだけ明るく見えたのは、気のせいではないと思う。
昼過ぎ、通されたのは、一階の小さな応接室だった。
カーテンは半分だけ開けられ、柔らかな光が差し込んでいる。窓辺に、黒い仮面の公爵様が立っていた。
「お待たせして申し訳ございません、旦那様」
「いや……構わない」
返事は短く、冷たい。
けれど、昨日の広間で聞いたときよりも、ほんの少しだけ声が硬くなっている気がした。
「昨夜は、よく眠れたか」
「はい。おかげさまで、ぐっすりと」
嘘ではなかった。小さな温もりを抱いて、あんなに安らかに眠れたのは久しぶりだった。
「そうか」
公爵様は、短く頷いた。
それきり、言葉が続かない。
沈黙が、部屋に落ちる。
私は、胸の中で何度も覚悟を決め直した。
(言わない。何も、言わないと決めたもの)
手巾に包んだ指輪を、そっと差し出した。
「旦那様、これを。廊下に落ちておりました」
「…………」
公爵様の肩が、ぴくりと動いた。
手巾を受け取る指先が、小さく震えている。
仮面の奥の瞳が、一瞬だけ見開かれたのを、私は見逃さなかった。
「廊下、で」
「はい。朝、お部屋の前を通りかかったときに見つけまして。お屋敷の大切なものだと思い、お届けに参りました」
嘘をつくのは、少しだけ胸が痛んだ。
けれど、あの子の正体を、私の口から暴くことはしたくなかった。
公爵様は、指輪を握りしめたまま、長いこと黙っていた。
やがて、絞り出すように言った。
「……他に、何か見たか」
「他に、ですか?」
「廊下で、だ。夜の間に、何か」
まっすぐな視線が、仮面越しに突き刺さる。
恐れと、期待と、祈るような色が混じっていた。
私は、できるだけ穏やかに微笑んだ。
「いいえ。何も見ておりません」
沈黙。
「ただ」
「……ただ?」
「夢を見ました。小さな男の子が、泣いている夢を」
公爵様の呼吸が、止まったように見えた。
「その子は、とても寂しそうでした。でも、私が抱きしめたら、安心して眠ってくれて。……目が覚めたら、少しだけ、寂しくなりました」
「…………」
「また、会えたらいいなと思います」
言い終えて、私は深く礼をした。
顔を上げる勇気がなくて、しばらくそのまま動けなかった。
やがて、頭の上から、掠れた声が降ってきた。
「……そうか」
たった一言だった。
けれど、その声の奥にあるものを、私は確かに感じ取った。
「失礼いたします」
逃げるように部屋を出ると、廊下の柱の陰で、そっと息をついた。
胸がどきどきしている。
(言ってしまった。気づかれたかしら)
でも、それでいい。
何も知らないふりをして、そばにいる。それが、今の私にできることだと思った。
部屋に戻る途中、マーサさんが声をかけてきた。
「奥様、少しよろしいでしょうか」
「はい」
「旦那様のことで、お話ししておきたいことがございます」
彼女は周囲を見回してから、声を落とした。
「旦那様は、三年前までは、とてもお優しく、明るい方でした。顔の痣も、その頃はなかったのです」
「痣は、後から……?」
「ええ。先代の公爵様がお亡くなりになってすぐ、突然に。お医者様も、原因が分からないと」
マーサさんの目が、赤くなった。
「それから、旦那様は人前に出なくなりました。夜は、お部屋に籠もられて。私どもは、きっと何かの呪いではないかと、ひそかに思っておりまして」
「呪い……」
「奥様。どうか、旦那様を怖がらないでくださいませ。あの方は、誰よりもお優しいのです。ただ、少し、不器用なだけで」
マーサさんの手が、私の手をぎゅっと握った。
私は、その手を握り返した。
「怖がったりしません。約束します」
そう答えたとき、窓の外では、もう日が傾き始めていた。
夕暮れが近い。
今夜も、あの子は現れるだろうか。
私は部屋に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろした。
そして、今夜はランプを持って、廊下で待っていようと決めた。




