第5話 夜明けの腕の中(ディートハルト視点)
温かい。
それが、目覚めて最初に思ったことだった。
三年間、毎朝のように冷え切った寝台で目を覚ましてきた。夜の痛みと涙の名残で、身体はいつも重く、喉は乾いていた。
けれど、今朝は違う。
柔らかな何かに包まれている。薬草の優しい香りがして、規則正しい寝息が、すぐ耳元で聞こえた。
(……何だ、これは)
ぼんやりと目を開ける。
栗色の髪が、視界いっぱいに広がっていた。
小さな手でしがみついているのは、白い寝間着の袖だ。見上げれば、穏やかに眠るミレッタの横顔がある。
一瞬で、眠気が吹き飛んだ。
(そうだ。昨夜、私は)
鍵を開けて廊下に出て、泣いているところを彼女に見つかった。抱き上げられて、この部屋に連れてこられて。
それから、あの言葉を。
「明日も、その次の日も」
彼女は、確かにそう言った。
約束だよ、と縋った自分に、約束、と返してくれた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
三年ぶりに、朝まで眠れた。悪夢も見ず、泣きもせず、誰かの腕の中で。
窓の外は、薄く白み始めている。
夜明けが近い。
そこで、指先に違和感が走った。
じん、と熱い。
ディートハルトは息を呑んだ。この感覚を、よく知っている。呪いが解けて、元の身体に戻る前触れだ。
(まずい)
このまま戻れば、大の男が彼女の寝台に横たわっていることになる。
悲鳴を上げられるのは、まだいい。問題は、それが原因で、彼女が逃げ出してしまうことだった。
(それだけは、嫌だ)
心底、そう思った。
ミレッタの指を、そっと袖から外す。眠ったまま、彼女の眉がかすかに寄った。
「……ん」
「すまない。すぐ、戻る」
囁くように言って、毛布から抜け出した。
床に降りたとたん、骨がきしむ。関節が伸びていく。いつもより早い。
ディートハルトは扉に飛びつき、背伸びをして開けた。廊下に出ると、朝の冷気が肌を刺す。
走った。
小さな足で、必死に。
袖が余って邪魔だ。裾が足に絡まる。
それでも、自室の扉を押し開けたところで、膝が折れた。
「っ、ぐ……」
床に崩れ落ちたとき、手足はもう、長い大人のそれに戻っていた。
荒い息を吐きながら、ディートハルトは天井を仰いだ。
助かった。見られずに済んだ。
そう安堵した直後、あることに気づく。
胸元に、あるはずの重みがない。
首に手をやる。細い鎖も、銀の指輪もなかった。
「……ない」
血の気が引いた。
あの指輪は、ヴェルナー公爵家の当主の証だ。呪いを受けた夜、これだけは手放すまいと、鎖に通して肌身離さず持っていた。
子どもの姿のときも、必ず首から下げている。
眠っているうちに、外れたのか。
あの寝台の上に、落としてきたのか。
(彼女が、見ている)
紋章を見れば、公爵家のものだと分かる。
それを子どもが持っていた。そして、夜のうちに消えた。
賢い彼女のことだ。気づかないはずがない。
「……最悪だ」
両手で顔を覆った。
あんなに隠してきたのに。誰にも知られないよう、必死だったのに。
それなのに、胸の奥で、別の感情が顔を出している。
恐れだけではない。
もし彼女が知っていて、それでも、昨夜のように笑ってくれるなら。
「ありがとうございます、旦那様」と、そう言ってくれるなら。
(……いけない)
ディートハルトは、頭を振った。
期待など、してはいけない。期待すればするほど、失ったときに耐えられなくなる。
けれど。
「ここにいるわ」
彼女の声が、耳の奥に残っていた。
小さな手を、握り返してくれた温もりが、まだ指先にあった。
「……逃がしたくない」
気づけば、呟いていた。
自分でも驚くほど、低く、重たい声だった。
離したくない。
昼の私にも、夜の私にも、彼女がいてくれたら。
そんな浅ましい願いが、胸の底から湧き上がってくる。
ディートハルトは、仮面を拾い上げて顔に着けた。
扉の向こうから、朝の気配が近づいてくる。
「旦那様、おはようございます。お目覚めでしょうか」
ハンスの声だった。
「……入れ」
「失礼いたします。奥様は、先ほどお目覚めになりました。朝食を召し上がっておいでです」
「そうか」
「それと、奥様が、旦那様にお渡ししたいものがあると」
ディートハルトの手が、止まった。
「……何を、だ」
「存じません。ただ、『昼のうちに、お時間をいただけますか』と」
ハンスは、いつもと変わらない穏やかな顔をしている。
けれどその目の奥に、何もかも承知しているような色が見えた。
(知っているな、ハンス)
ディートハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。昼に、会おう」
「かしこまりました」
退出するハンスの背を見送り、ディートハルトは窓の外を見やった。
朝日が、屋敷の庭を照らしている。
逃げたくなる気持ちと、会いたい気持ちが、胸の中でせめぎ合っていた。
判決を待つ罪人のような心地で、彼は昼を待つことになった。




