第4話 初夜の廊下で
泣き声を辿って廊下を進むと、壁にもたれてうずくまる小さな影があった。
ランプを掲げた瞬間、その影がびくりと肩を震わせる。
「……っ」
「大丈夫、驚かせてごめんなさい」
私は急いで膝をついた。
五歳か、六歳くらいの男の子だった。黒い髪はくしゃくしゃで、大きすぎる寝間着の袖を握りしめている。頬は涙で濡れ、裸足の足が小刻みに震えていた。
(こんな夜中に、どうして……)
この屋敷に、子どもはいないはずだ。
けれど、目の前の子は確かにここにいる。
「寒いでしょう。足、冷えていますよ」
そっとランプを床に置くと、男の子は怯えたように後ずさった。
「こ、こないで」
「うん、近づかないわ。でも、泣いている子を放っておけないの」
できるだけ優しい声で言った。
「私はミレッタ。今日、このお屋敷に来たばかりなの。あなたの名前は?」
男の子は唇を噛んで、黙り込んだ。
ランプの灯りが、その横顔を照らす。
夜のような、深い青の瞳。
(……あれ)
どこかで見たような気がした。
昼間、広間で向き合った、仮面の奥の左目。
あの、静かな夜色の瞳に、とてもよく似ている。
(まさか)
まさか、と思う。
けれど、「夜は私の部屋に近づくな」と告げた、あの切羽詰まった声が、頭の中で重なった。
男の子は、しばらく黙っていたあと、蚊の鳴くような声で言った。
「……ディート」
「ディート。素敵な名前ね」
「……おねえさん、ミレッタ?」
「ええ、そうよ」
「きれいな、なまえ」
ぽつりと呟いて、男の子はまた俯いた。
その小さな肩が、どうしようもなく頼りなく見えた。
私は、迷わなかった。
手を伸ばして、そっと男の子を抱き上げる。
「わ……っ」
「ごめんなさい、少しだけ。ここは冷えるから、私の部屋で温まりましょう」
「だめ、だ。ぼくは、へやに、もどらないと」
「戻るなら、あとで送ってあげるわ。でも、今は泣いているのだから、少しだけ休んでいきましょう」
腕の中の身体は、驚くほど軽くて、冷え切っていた。
小さな手が、私の寝間着の袖を、ぎゅっと握りしめる。
「…………」
何か言いかけて、結局何も言わずに、顔を私の肩に埋めた。
(この子、きっと誰かに甘えたかったんだ)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
部屋に戻ると、寝台の端にディートを座らせた。
毛布で包んで、小さな足を手のひらで温める。
「痛くない?」
「……うん。あったかい」
ようやく、ディートの肩から力が抜けた。
私はトランクから、庭師のトーマスがくれた薬草の束を取り出した。乾いた葉を指先でほぐし、手巾に包んで枕元に置く。
「これはね、心を落ち着かせる薬草なの。母が好きだった香りよ」
「……いいにおい」
「でしょう?」
ディートは、鼻をひくひくさせながら、手巾をじっと見つめていた。
その首元で、細い鎖がきらりと光る。
見ると、鎖には大きすぎる銀の指輪が通されていた。子どもの手には、到底はまらない大きさだ。
「それは?」
「……だいじなもの。ずっと、つけてるの」
「そう。素敵ね」
指輪の表面には、剣と月桂樹を組み合わせた紋章が刻まれている。
馬車の扉や門扉で見た、公爵家の紋章と、同じものだった。
(やっぱり)
確信に近いものが、胸の中で形になった。
けれど、私は何も言わないことにした。
この子が、誰にも知られたくないと思っているのなら。
隠しているものを暴くことが、優しさだとは思えなかった。
「ねえ、ディート」
「なあに」
「ここで、少し眠っていかない? 私、一人だと眠れなくて」
「……ミレッタも?」
「ええ。だから、ディートがいてくれたら嬉しいな」
嘘ではなかった。
知らない屋敷で迎える初めての夜は、思っていたよりずっと心細かったのだ。
ディートは、じっと私を見つめた。
それから、おずおずと毛布の端を掴んで、小さく頷いた。
「……いて、いい?」
「もちろん」
そう答えると、ディートの顔が、ふにゃりと緩んだ。
張り詰めていた何かが、ほどけたような顔だった。
寝台に横になると、ディートは私の腕にしがみついてきた。小さな頭が、肩のあたりに収まる。
「ミレッタ、いなくならない?」
「ええ。ここにいるわ」
「あした、も?」
「明日も、その次の日も」
そう答えた途端、腕を掴む指に、ぎゅっと力がこもった。
「……やくそく、だよ」
「約束」
小さな指先を、そっと握り返す。
規則正しい寝息が聞こえるまで、時間はかからなかった。
薬草の優しい香りの中で、私は天井を見つめたまま、考えていた。
(夜になると、子どもの姿になる……?)
呪い、という言葉が、ふと頭に浮かぶ。
荒唐無稽な話だ。けれど、昼間の公爵様の態度も、屋敷の人たちの沈んだ表情も、すべて説明がついてしまう。
夜は来るなと言ったのは、この姿を見られたくなかったからだ。
怯えていたのは、私を怖がっていたのではない。
知られることを、恐れていたのだ。
(あんなに冷たい声を出していたのに)
腕の中の寝顔は、あどけなくて、安心しきっていて。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(大丈夫です、旦那様。私は、誰にも言いません)
そっと、小さな頭を撫でた。
気づいたときには、窓の外が白み始めていた。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
「ディート?」
呼びかけても、返事はない。
腕の中には、もう誰もいなかった。毛布だけが、ほんのりと温もりを残している。
起き上がって、部屋を見回す。
扉は閉まったまま。窓も、閉まったまま。
それなのに、あの小さな男の子の姿は、どこにもなかった。
「……あ」
枕の上に、きらりと光るものがあった。
手に取ると、細い鎖に通された、大きな銀の指輪だった。
剣と月桂樹の紋章が、朝日を受けて静かに輝いている。
私は指輪を両手で包み込んだ。
夢ではなかった。
あの子は、確かにここにいた。
そして、あの子は、きっと。
「……旦那様」
小さく呟く。
初夜の廊下で出会ったのは、小さな泣き虫の男の子で。
その正体は、冷たい仮面の公爵様だった。
私は、まだ温もりの残る指輪を、そっと握りしめた。




