第3話 夜が来る前に(ディートハルト視点)
日が傾き始めると、いつも身体の奥が冷える。
ディートハルト・ヴェルナーは、自室の窓辺に立ち、カーテンの隙間から西の空を見ていた。橙色の光が、森の向こうへ溶けていく。
あと一時間もない。
(……言いすぎたか)
仮面の下で、奥歯を噛みしめた。
広間で会った娘のことが、頭から離れない。
ミレッタ・ハーゲン。伯爵家の長女。調べさせた限りでは、継母と異母妹に疎まれ、使用人同然の扱いを受けてきたという。
縁談の相手が妹から姉に替わったと知ったとき、断るべきだと思った。また一人、怯えさせて帰すだけだ。
それでも断らなかったのは、なぜだったのか。
自分でも、よく分からなかった。
広間で、彼女は逃げなかった。
仮面ではなく、自分の目を見て話した。
「お顔を見るために来たのではございません」
その言葉を思い出すたびに、胸の奥が妙にざわつく。
(愚かな。たった一度、物怖じしなかっただけだ)
これまで何人の令嬢が、この屋敷を訪れただろう。
皆、仮面を見て顔色を変え、噂を確かめるように視線を泳がせ、三日と持たずに去っていった。彼女たちを責めるつもりはない。無理もないのだ。
本当の秘密を知れば、もっと怯えるに決まっている。
コン、と控えめに扉が叩かれた。
「旦那様、お時間でございます」
「入れ」
入ってきたのは、執事のハンスだった。腕には、小さな寝間着が掛けられている。
「お夕食は、お部屋にお運びいたしました。それと、こちらを」
「……いつもすまないな」
「滅相もございません」
ハンスは寝間着を寝台に置くと、静かに窓のカーテンを閉めた。
「奥様のことですが」
「何も話すな」
「まだ何も申しておりませんが」
「聞かずとも分かる。お前の顔に書いてある」
ハンスは小さく笑い、それから真剣な声で言った。
「旦那様。あの方は、これまでの方々とは違うように、私には思えます」
「会って数分で何が分かる」
「長年、人を見てまいりましたので」
ディートハルトは何も答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
「鍵は内側からかけておく。何があっても、朝まで開けるな」
「承知いたしました。どうか、お健やかに」
ハンスが部屋を出ていく。扉が閉まり、足音が遠ざかった。
一人きりになった部屋で、ディートハルトは仮面に手をかけ、静かに外した。
窓の外は、もう藍色に染まりかけている。
来た、と思った。
指先から、じわりと熱が広がる。
骨が軋む。関節が縮んでいく。三年間、毎晩繰り返してきたことなのに、この痛みにだけは慣れなかった。
視界がぐんと低くなる。
袖が手を呑み込み、ズボンが足元にずり落ちた。肩幅が、背丈が、声が、少しずつ、ゆっくりと失われていく。
「……っ」
床に膝をつく。
吐息が、もう高い。
やがて痛みが引いたとき、そこにいたのは、大人の服に埋もれた、五つか六つの小さな男の子だった。
ディートハルトは、床に座り込んだまま、大きすぎる服の山を見下ろした。
小さな手。短い指。
呪いが身体に刻まれた最初の夜は、泣き叫んだ。三年経った今は、涙も出ない。
そう思っていたのに。
「……っ、う」
喉の奥が、勝手に震えた。
この姿になると、いつもそうだ。
感情を抑える力が、まるで効かなくなる。大人のときなら飲み込める寂しさが、小さな胸には収まりきらない。
のろのろと服の山から抜け出し、ハンスが置いていった寝間着に袖を通した。袖は少し長い。それでも、引きずるほどではない。
寝台によじ登り、枕を抱えた。
(寝てしまえ。朝まで眠れば、いい)
言い聞かせても、目は冴えるばかりだった。
窓の外で、風が鳴っている。
いつもなら、聞こえないふりができた。三年間、一人きりで夜をやり過ごしてきたのだから。
けれど、今夜は違う。
(……この屋敷に、あのひとがいる)
同じ屋根の下に、あの娘がいる。
怖がらずに、自分の目を見て話した人が、すぐそこで眠っている。
それだけのことが、どうしようもなく胸を掻き乱した。
「だめだ」
幼い声で、小さく呟く。
「行くな。部屋から、出てはいけない」
それなのに。
気づけば、寝台から降りていた。
裸足の足が、冷たい床を踏む。扉に近づく。
背伸びをして、鍵に手を伸ばした。
「やめろ。やめろ、ディートハルト」
自分で自分を叱りつけても、小さな指は、勝手に鍵を回してしまう。
カチリ、と音がした。
扉を押し開けると、廊下は真っ暗で、冷たい空気が頬を撫でた。
心細さが、どっと押し寄せる。
「……う、っく……」
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
戻らなければ。戻って、鍵をかけなければ。
そう分かっているのに、足がすくんで動けない。
廊下の壁にもたれ、小さな肩を震わせて泣いた。
そのときだ。
廊下の向こうに、ぽつんと、小さな明かりが見えた。
ランプの灯りが、ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
そして、その灯りの向こうに、白い寝間着姿の誰かが立っていた。
柔らかな栗色の髪。驚いたように見開かれた、翠色の目。
昼間、広間で会った、あの娘だった。




