第2話 仮面の旦那様
馬車を降りた私を待っていたのは、玄関前にずらりと並んだ使用人たちだった。
二十人はいるだろうか。誰もが背筋を伸ばし、深く頭を下げている。
「ようこそお越しくださいました、ミレッタ様。執事のハンスと申します」
白髪を丁寧に撫でつけた老紳士が、穏やかな声で言った。
「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内いたします」
「ありがとうございます。あの……ミレッタ・ハーゲンです。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、使用人たちがざわりと揺れた。
何か、変なことをしただろうか。
「奥様が、私どもに頭を下げられるとは」
恰幅のいい女性が、目尻を拭いながら前に出た。
「侍女長のマーサでございます。ご安心くださいませ、ここの者は皆、奥様をお待ちしておりました」
「お待ち……ですか?」
「ええ、ええ。旦那様の奥様がいらっしゃる日を、どれほど」
マーサさんの声が、少し震えている。
公爵家の使用人たちは、思っていたよりずっと温かかった。
通された部屋は、日当たりのいい南向きの広い部屋だった。屋根裏とは、比べものにならない。窓辺には白い花が飾られ、寝台には清潔な寝具が整えられている。
(こんな部屋、私が使っていいのかしら)
戸惑っていると、ハンスさんが静かに告げた。
「旦那様が、お会いになるそうです。夕刻までのわずかなお時間ですが」
「夕刻まで、ですか」
「はい。……旦那様の、お身体の都合でございます」
ハンスさんの言葉の端に、わずかな緊張が滲んでいた。
通された広間は、薄暗かった。
分厚いカーテンが引かれ、わずかな蝋燭の光だけが部屋を照らしている。その奥の椅子に、背の高い男の人が座っていた。
黒い髪。黒い仮面。顔の右半分が、すっぽりと覆われている。
肩幅は広く、足を組んで座る姿は、ただそこにいるだけで空気を張り詰めさせた。
「……来たか」
低く、冷たい声だった。
「ミレッタ・ハーゲンです。お初にお目にかかります、公爵様」
私は膝を折って挨拶をした。
公爵様は何も言わず、じっと私を見ている。仮面の奥の左目が、探るように細められた。
「私の顔を、見ないのか」
「お顔を、ですか?」
「噂は聞いているだろう。皆、私の顔を見ると」
「見に来た訳ではありません」
私はきっぱりと答えた。
「私は、公爵様の妻になるために参りました。お顔を見るために来たのではございません」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が、かすかに揺れる。
公爵様の指が、椅子の肘掛けをぎゅっと握った。
「……そうか」
絞り出すような声だった。
「ならば、一つだけ言っておく。形だけの妻で構わない。必要なものは何でも用意させる。この屋敷で、自由に過ごせ」
「はい。ありがとうございます」
「ただし」
公爵様が、立ち上がった。
「夜は、私の部屋に近づくな。決してだ。何が聞こえても、何を見ても、来るな」
「夜、でございますか?」
「理由は聞くな」
言い終えると、公爵様はすぐに背を向けた。
カーテンの隙間から、西日が細く差し込んでいる。公爵様は、その光から逃げるように、足早に広間を出ていった。
残された私は、閉まった扉をしばらく見つめていた。
(冷たい人……)
そう思おうとして、うまくいかなかった。
去り際の背中が、あまりにも切羽詰まって見えたからだ。まるで、何かに追われているように。
それに、あの声。
冷たく突き放す言葉のはずなのに、最後のほうは、かすかに震えていた気がする。
(怯えていらっしゃるみたい)
誰に?
私に、ではないはずだ。
その夜は、一人で夕食をとった。
マーサさんが、温かいスープとパンを運んでくれる。
「旦那様は、日が落ちる前にお部屋へ入られます。夕食も、お部屋でお一人で」
「いつも、ですか?」
「はい。もう三年になります」
マーサさんは、それ以上は何も言わなかった。
けれど、食器を下げる彼女の背中が、とても寂しそうに見えた。
湯を使い、寝間着に着替えて寝台に入る。
柔らかな寝具に身体が沈む。屋根裏の硬い寝台とは大違いなのに、なぜか目が冴えてしまった。
(夜は近づくな、か)
呻き声がするという、クラリッサの話を思い出す。
馬鹿らしい。そう思って、目を閉じた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。屋敷は静まり返り、時計の針の音だけが響いていた。
どれくらい経っただろう。
ふと、目が覚めた。
部屋は真っ暗で、月明かりが細く床を照らしている。
耳を澄ませる。
遠くで、何かが聞こえた。
風の音ではない。
ひくっ、ひくっと、しゃくり上げるような、か細い音。
「……泣き声?」
それも、とても小さな。まるで、幼い子どものような。
この屋敷に、子どもなどいないはずなのに。
私は寝台の上で、息を詰めた。




