第1話 醜い公爵様への縁談
その縁談が持ち込まれたのは、秋の終わりの朝のことだった。
私は台所で、朝食の皿を磨いていた。伯爵家の長女でありながら、この家で私に与えられた仕事は、使用人とほとんど変わらない。
そこへ継母ベルタ様の侍女が呼びに来た。
「ミレッタ様、奥様がお呼びです。すぐに応接間へ」
手を拭いて向かうと、応接間には父と継母、そして異母妹のクラリッサが揃っていた。三人が並んで座り、私だけが立っている。いつもの光景だ。
「来たわね、ミレッタ」
継母は扇で口元を隠したまま、私を見ようともしない。
「ヴェルナー公爵家から、縁談の申し入れがありましたの」
「ヴェルナー公爵家……ですか」
思わず聞き返した。王国でも指折りの名門だ。けれど、その名を聞いて胸が弾むことはなかった。
公爵ディートハルト・ヴェルナー様には、よくない噂がある。
顔の半分に、醜い痣がある。だから常に仮面をつけている。夜会にも茶会にも姿を見せず、屋敷に籠もっている。婚約者候補は、皆、一目見て逃げ出したのだと。
「縁談のお相手は、本当はクラリッサだったのよ」
継母が言った。
「けれど、可愛いクラリッサを、あんな化け物のところへやる訳にはいきませんもの」
「お姉様、そんな顔をしないで」
クラリッサがくすりと笑う。
「公爵夫人になれるのよ? ありがたい話じゃない」
「……お父様」
私は父を見た。父は目を逸らし、膝の上で組んだ指をじっと見つめている。
「ミレッタ、これは……家のためなのだ」
それが、父の答えだった。
この人は、いつもそうだ。何も言わず、目を逸らす。
「分かりました」
私が答えると、三人とも少し驚いた顔をした。泣いて嫌がるとでも思っていたのだろう。
「お受けします。公爵様のもとへ参ります」
「あら、物分かりがいいこと」
継母は拍子抜けしたように扇を揺らした。
私は静かに頭を下げた。
(この家を出られる)
胸の内で、そう思っていた。
その夜、屋根裏の自室で荷造りをした。
荷造りといっても、持っていくものは少ない。着古したドレスが三枚、亡き母の形見の小さな櫛、擦り切れた刺繍の手巾。トランク一つで足りてしまう。
母が亡くなってから、この家に私の居場所はなかった。継母が来て、クラリッサが生まれ、いつの間にか、私は家族ではなく働き手になっていた。
コン、と扉が叩かれた。返事をする前に、クラリッサが入ってくる。
「お姉様、お荷物はそれだけ? 可哀想」
「何の用?」
「別に。最後に顔を見ておこうと思って」
クラリッサは部屋を見回し、鼻先で笑った。
「ねえ、知ってる? 公爵様のお顔を見た人は、三日と持たずに寝込むんですって」
「そう」
「夜になると、お屋敷から呻き声が聞こえるって噂もあるのよ。きっと、お顔のせいで気が触れていらっしゃるのね」
楽しそうに言う妹に、私はトランクの留め金を閉めながら答えた。
「お顔のことなら、私は気にしないわ」
「強がりね」
「本当よ。見た目で人を決めつけるのは、好きではないの」
クラリッサの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……せいぜい、頑張ることね」
扉が乱暴に閉められる。
私は小さく息を吐いた。
(呻き声……)
噂は噂だ。けれど、胸の隅に、小さな引っかかりが残った。
本当に、ただの醜聞なのだろうか。
翌朝、見送りに出てきたのは、庭師の老人トーマスだけだった。
「お嬢様、道中どうぞお気をつけて。これを」
差し出されたのは、乾かした薬草の小さな束だった。母が好きだった香りがする。
「ありがとう、トーマス。元気でね」
「お嬢様こそ」
彼の目が潤んでいるのを見て、私は少しだけ笑った。
父も、継母も、クラリッサも、玄関には現れなかった。
馬車が動き出す。窓から見える屋敷が、どんどん小さくなっていく。振り返っても、寂しさはなかった。ただ、足元がふわふわするような、不思議な心地だけがあった。
馬車に揺られて二日。
三日目の昼下がり、窓の外に、深い森に囲まれた大きな屋敷が見えてきた。灰色の石壁に、黒い鉄の門。蔦の絡まる塔が空に突き出している。
噂どおりの、陰気な屋敷だった。
「ここが……」
門がゆっくりと開く。
私は膝の上でトーマスの薬草を握りしめ、背筋を伸ばした。
(大丈夫。何を見ても、驚かない)
そう決めて、馬車の扉が開くのを待った。




