第19話 ハーゲン家のその後
広間を出たところで、呼び止められた。
「ミレッタ」
父の声だった。
振り返ると、父と継母、それにクラリッサが、廊下の端に立っていた。
三人とも、記憶にあるより、少しやつれて見えた。
「お久しぶりです、お父様」
私は、静かに頭を下げた。
隣の旦那様が、私の手を握る力を、ほんの少しだけ強める。
「ハーゲン伯爵か」
「は、はい。公爵閣下、ご無沙汰を……いえ、お初にお目にかかります」
父は、旦那様の素顔を見て、明らかに動揺していた。
継母は扇で口元を隠し、クラリッサは青ざめた顔で俯いている。
「娘が、大変お世話になっております。このたびは、とんだ災難で……」
「用件は」
旦那様の声は、冬の朝のように冷たかった。
父は、びくりと肩を震わせ、私のほうを見た。
「ミレッタ。少し、話がしたいのだ」
「何でしょうか」
「その……実はな」
父は、言いにくそうに目を泳がせた。
継母が、扇を下ろして口を開いた。
「ミレッタ。あなたからも、公爵様にお口添えをしてちょうだい」
「口添え、ですか」
「最近、社交界で、ひどい噂が立っているのよ。ハーゲン家は、呪われた公爵家に娘を押しつけて、厄介払いをしたのだと」
「…………」
「クラリッサとの縁談も、先方から断られてしまったわ。子爵家のご子息で、ようやくまとまりかけていたのに」
継母の声が、苛立ちに震えている。
「そんな噂は嘘だと、あなたから皆様に言ってちょうだい。公爵夫人のあなたが言えば、皆、信じるわ」
私は、黙って継母を見つめた。
嘘ではない。
押しつけられたのは、事実だ。
その噂が、どこから広まったのか。おそらく、クラリッサが公爵家を訪ねて、追い返されたことも、もう知れ渡っているのだろう。
「お義母様」
私は、静かに言った。
「それは、できません」
「なっ……」
「嘘をついて、ハーゲン家を庇うことはできません。私が縁談を押しつけられたのは、本当のことですから」
「ミレッタ! あなた、育ててもらった恩を」
「恩なら、トーマスにお返しします」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
「あの家で、私を気にかけてくれたのは、トーマスだけでしたから」
継母が、言葉を失った。
父が、苦しそうに顔を歪めた。
「ミレッタ、私は……」
「お父様」
私は、父の目をまっすぐに見た。
父は、いつものように、目を逸らそうとした。
けれど、今日は逸らさなかった。
しばらく私を見つめて、やがて、絞り出すように言った。
「……すまなかった」
小さな声だった。
継母が、信じられないものを見るように、父を振り返った。
「お前の母が亡くなってから、私は何もしなかった。お前が屋根裏で暮らしていることも、知っていて、見ないふりをした」
「…………」
「縁談のときも、お前が泣いて嫌がらなかったことに、ほっとしていた。父親として、最低だった」
父の肩が、小さく震えていた。
私は、しばらく何も言えなかった。
許します、とは、言えなかった。
まだ、そこまで心は追いついていない。
けれど。
「お父様が、そう言ってくださっただけで、十分です」
そう答えると、父は、ぐっと唇を噛んで、深く頭を下げた。
クラリッサが、震える声で口を開いた。
「お姉様……わたくし……」
何かを言いかけて、結局、言葉にならなかった。
ただ、その目には、以前のような嘲りの色はなかった。
「クラリッサ。いつか、あなたにも、見た目や噂で人を決めつけない人が現れるといいわね」
「……っ」
クラリッサは、唇を噛んで、俯いた。
旦那様が、私の肩に、そっと手を置いた。
「行こう、ミレッタ」
「はい」
私は、三人に深く一礼をして、背を向けた。
振り返らなかった。
もう、あの家に、未練はなかった。
屋敷へ戻る馬車の中で、旦那様が、ぽつりと言った。
「……あれで、よかったのか」
「はい」
「もっと、強く言ってもよかった。私が代わりに言ってもよかった」
「十分です。お父様の口から、謝罪が聞けましたから」
窓の外を、秋の野原が流れていく。
不思議と、胸の中は穏やかだった。
「ハーゲン家は、しばらく社交界で肩身の狭い思いをするだろう。だが、それは自業自得だ。私は何もしない」
「はい。それで、いいと思います」
本当は、旦那様が何かしようとしていたのは知っていた。
ハーゲン家との取引を、すべて打ち切る書状を書きかけていたことも。
けれど、私が止めた。
これ以上、あの家に関わる必要はないと思ったから。
「それより、旦那様。お願いがあるのです」
「何だ。何でも言え」
即答だった。
私は、少しだけ笑った。
「ハーゲン家の庭師のトーマスを、公爵家にお迎えできませんか。もう歳ですから、楽な仕事をさせてあげたくて」
「庭師か」
「はい。私に、薬草の束を持たせてくれた人です」
旦那様の目が、ふっと和らいだ。
「あの薬草か」
「はい」
「あれがなければ、私は、あの夜、お前を見つけられなかった」
旦那様は、私の手を取り、指先に口づけた。
「すぐに迎えを出そう。薬草園の隣に、日当たりのいい家を建てさせる」
「そこまでしなくても」
「する。お前の恩人は、私の恩人だ」
きっぱりと言い切る旦那様に、私は思わず吹き出してしまった。
ひと月後、トーマスが公爵家にやってきた。
門の前で馬車を降りた彼は、出迎えた私を見るなり、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。
「お嬢様……いや、奥様。なんとまあ、お幸せそうなお顔で」
「トーマス、来てくれてありがとう」
「こちらこそ、こんな老いぼれを」
彼の後ろで、旦那様が静かに頭を下げた。
「トーマス殿。妻が世話になった」
「こ、公爵様! もったいない、おやめくだされ」
慌てふためくトーマスに、マーサさんとハンスさんが、楽しそうに笑っている。
そのあとで、トーマスがこっそりと教えてくれた。
ハーゲン家では、使用人が何人も辞めていったこと。父は、継母と口論が絶えないこと。クラリッサは、縁談が流れてから部屋に籠もりがちで、それでも、少しずつ屋敷の手伝いをするようになったこと。
「伯爵様は、時々、お嬢様のお部屋だった屋根裏に、ひとりで上がっておいででした」
「……そう」
私は、それ以上何も聞かなかった。
窓の外では、トーマスが連れてきた苗木が、薬草園の隅に植えられようとしていた。
母が好きだった、あの香りの薬草だった。




