第20話 夜も朝も離さない(ディートハルト視点)
最終話になります。
婚礼の朝は、雲ひとつない青空だった。
書類の上だけで結ばれていた二人に、改めて式を挙げてはどうかと言い出したのは、マーサだった。
ディートハルトは、一も二もなく賛成した。
ミレッタには、何一つ欠けたもののない一日を贈りたかった。
ハーゲン家から押しつけられるように嫁いできた日に、彼女が持っていたのは、トランク一つきりだったのだから。
「旦那様、そわそわしすぎでございます」
控えの間で、ハンスが苦笑した。
「三度目でございますよ、襟元をお直しになるのは」
「……分かっている」
「奥様は、逃げたりなさいません」
「分かっていると言っている」
それでも、ディートハルトは落ち着かなかった。
窓の外では、屋敷の庭に集まった使用人たちが、花びらの籠を抱えて待っている。
領地の民も、門の外にまで溢れていた。醜い公爵と噂されていた頃には、決して見られなかった光景だった。
扉が、控えめに叩かれた。
「旦那様、奥様のお支度が整いました」
マーサの声に、ディートハルトは、弾かれたように立ち上がった。
屋敷の礼拝堂は、白い花で埋め尽くされていた。
祭壇の前に立ち、ディートハルトは扉のほうを見つめていた。
やがて、扉が開いた。
光の中から、ミレッタが歩いてくる。
純白のドレス。栗色の髪に編み込まれた、小さな白い花。胸元には、薬草を模した銀の飾りが揺れていた。
トーマスが、腕を貸していた。
実の父ではなく、あの庭師を選んだのは、ミレッタ自身だった。
ディートハルトは、息をするのを忘れていた。
美しい、と思った。
言葉では言い表せないほどに。
祭壇の前まで来たミレッタが、少しだけはにかんで、こちらを見上げた。
「……旦那様、何かおっしゃってください」
「何を言えばいい」
「お似合いです、とか」
「足りない」
ディートハルトは、彼女の手を取った。
「どんな言葉も、足りない」
ミレッタの頬が、ぱっと赤く染まった。
背後で、マーサがすすり泣く声がした。ハンスが、そっとハンカチを渡しているのが見えた。
神官の声が、礼拝堂に響く。
「ディートハルト・ヴェルナー。汝は、ミレッタを妻とし、病めるときも健やかなるときも、これを愛し、敬い、慈しむことを誓うか」
「誓う」
迷いなく答える。
それから、神官が次の言葉を口にする前に、続けた。
「昼も夜も。この命が尽きるまで。誰にも触れさせず、どこにも行かせず、決して離さないことを誓う」
神官が、目を丸くした。
列席者たちの間に、小さなざわめきが広がる。
ミレッタが、困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「ミレッタ。汝は、ディートハルトを夫とし……」
「誓います」
ミレッタも、神官の言葉を遮った。
「昼の旦那様も、夜の旦那様も。笑っているときも、泣いているときも、やきもちを焼いているときも。ずっとおそばに在ることを、誓います」
書庫で、狩猟館で、何度も聞いた言葉だった。
それでも、聞くたびに、胸の奥が熱くなる。
指輪を交わす。
ディートハルトの指には、あの銀の指輪がはめられた。夜の小さな自分が、首から下げていたものだ。
ミレッタの指には、同じ紋章を刻んだ、新しい指輪がはめられた。
「誓いの口づけを」
神官の言葉を待つまでもなかった。
ディートハルトは、ミレッタの頬に手を添えて、唇を重ねた。
長い、長い口づけだった。
神官が咳払いをし、ハンスが咳払いをし、最後にマーサが「旦那様!」と叫ぶまで、離れなかった。
宴が終わったのは、日がすっかり沈んでからだった。
二人きりの寝室で、ミレッタは、窓辺に立って夜空を見上げていた。
「夜になっても、旦那様は大人のままですね」
「ああ」
「なんだか、まだ不思議です」
ミレッタは振り返って、くすりと笑った。
「小さいディートに、少しだけ会いたくなります」
「……妬けるな」
「ご自分に、ですか?」
「あいつは、お前に抱っこしてもらっていた」
ミレッタが、声を上げて笑った。
ディートハルトは、背後から彼女を抱きすくめた。
それから、片手を伸ばして、寝室の扉に鍵をかけた。
カチリ。
ミレッタが、ぴくりと肩を揺らした。
「その音、久しぶりに聞きました」
「懐かしいだろう」
「閉じ込められてしまいましたね」
「ああ」
耳元に唇を寄せる。
「呪いが解けて、夜に縮まなくなった。つまり、夜通しお前を抱きしめていられるということだ」
「…………っ」
「朝になっても、元の姿に戻る必要はない。夜明け前に、こっそり部屋を抜け出す必要もない」
抱きしめる腕に、力を込める。
「だから、もう二度と離さない。夜も、朝も」
ミレッタの耳が、真っ赤に染まっていた。
小さく震える肩が、愛おしくてたまらない。
「旦那様は、本当に……」
「重いか」
「……少しだけ」
「すまない。直せない」
「直さなくて、いいです」
ミレッタが、腕の中で身体をひねり、こちらを向いた。
翠色の瞳が、まっすぐに自分を映している。
「私、こんなに強く求められたのは、初めてなんです。誰からも、いらないと思われて生きてきたから」
「…………」
「だから、旦那様が離さないって言ってくださるたびに、ここにいていいんだって、思えるんです」
ミレッタは、ディートハルトの胸に、そっと頬を寄せた。
「だから、ずっと、離さないでください」
ディートハルトは、何も答えられなかった。
代わりに、彼女を抱きしめた。
骨が軋むほど強く。けれど、決して壊さないように、優しく。
夜明けの光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ディートハルトは、腕の中で眠るミレッタの寝顔を、ぼんやりと眺めていた。
三年間、夜明けは恐ろしいものだった。
痛みと共に元の姿へ戻り、冷え切った寝台で、一人きりで目を覚ます時間だった。
今は、違う。
隣には、温かな温もりがある。薬草の優しい香りがして、規則正しい寝息が聞こえる。
ミレッタが、むにゃむにゃと何か呟いて、ディートハルトの寝間着の袖を、きゅっと握った。
夜の小さな自分が、彼女の袖を握りしめていたように。
思わず、笑みがこぼれた。
「……おはよう、ミレッタ」
囁くと、翠色の瞳が、ゆっくりと開いた。
「おはようございます、旦那様」
眠たげな声で、ミレッタが微笑む。
それだけで、世界のすべてが満たされていく気がした。
醜いと噂された公爵と、厄介払いのように嫁がされた娘。
夜ごと小さな姿になる呪いが、二人を結びつけた。
けれど、呪いが解けた今も、二人を結ぶものは何一つ変わらない。
ディートハルトは、愛しい妻を、もう一度強く抱きしめた。
夜も、朝も。
これから先も、ずっと。
決して、この手を離さないと誓いながら。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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