第18話 断罪の日
腕の傷がすっかり塞がったのは、それから十日後のことだった。
その間、旦那様は一度も私のそばを離れなかった。
文字どおり、一度もだ。
食事は私の部屋で一緒にとり、仕事の書類も私の部屋に運ばせた。夜は当然のように同じ寝台で眠り、朝は私より先に起きて、ただじっと寝顔を眺めている。
「旦那様、私はもう大丈夫ですから」
「まだ、傷が残っている」
「ほとんど見えません」
「ほとんど、だろう」
一事が万事、この調子だった。
マーサさんは「まあまあ」と笑うばかりで、ハンスさんは「旦那様のお気の済むように」と穏やかに目を細めるだけだった。
呪いが解けても、旦那様は何も変わらない。
夜のディートと、同じように、私を離してくれない。
そのことが、困るはずなのに、少しも嫌ではなかった。
王宮から召喚状が届いたのは、十一日目の朝だった。
ガルフォード・ヴェルナーの裁きが、王の御前で行われる。被害者として、旦那様と私も出席するように、とのことだった。
「無理をして行く必要はない」
旦那様は、召喚状を握りしめて言った。
「お前の証言なら、監察官がすでに書面で受け取っている」
「いいえ、参ります」
私は首を振った。
「旦那様が三年間、苦しんでこられたことの、決着がつくのです。私も、この目で見届けたいのです」
旦那様は、しばらく私を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった。ただし、私の隣を離れるな」
「はい」
「一歩もだ」
「はい、一歩も」
頷くと、旦那様は満足そうに私の手を取った。
王宮の大広間には、大勢の貴族たちが集まっていた。
公爵家の当主が呪いをかけられ、先代公爵が毒殺されていた。そんな噂は、とっくに王都中を駆け巡っていたらしい。
好奇の視線が、四方から突き刺さる。
その視線の多くが、旦那様の顔に向けられていた。
「あれが、ヴェルナー公爵……?」
「醜い痣があるという噂だったのでは」
「なんと、端正な」
ざわめきが、波のように広がっていく。
旦那様は、今日は仮面をつけていなかった。
痣の消えた素顔は、夜の湖のように静かで、整っていた。
かつて「化け物」と噂していたであろう令嬢たちが、扇の陰で頬を染めている。
私は、少しだけ、胸の奥がもやもやした。
「どうした」
旦那様が、私を覗き込む。
「いえ、何でも」
「顔が不機嫌だ」
「……皆様、旦那様のことを、見すぎです」
思わず、本音がこぼれてしまった。
旦那様は、一瞬、目を丸くした。
それから、ひどく嬉しそうに、口の端を上げた。
「やきもちか」
「ち、違います」
「私の真似か」
「違いますってば」
握られた手に、きゅっと力がこもる。
「安心しろ。私が見ているのは、お前だけだ」
耳元で囁かれて、顔が一気に熱くなった。
周りの令嬢たちが、ため息をつくのが聞こえた。
やがて、玉座に国王陛下がお着きになった。
衛兵に両脇を抱えられて、ガルフォード・ヴェルナーが引き出されてくる。
十日の牢暮らしで、その姿はすっかり変わっていた。上等な外套は剥ぎ取られ、撫でつけていた灰色の髪は乱れ放題だ。
けれど、その目だけは、まだぎらぎらと光っていた。
「監察官、申し述べよ」
陛下の声に、ローデリヒ様が進み出た。
「ガルフォード・ヴェルナーの罪状を申し上げます」
淡々とした声が、広間に響く。
先代公爵への毒の混入。その毒を手に入れた薬師の証言。
現公爵ディートハルト様への呪詛。粉々に砕けた呪具の破片と、それを作らせた闇の術師の証言。
屋敷に侍女を送り込み、公爵夫人を拉致したこと。その侍女リゼの証言。
そして、狩猟館で、本人が自らの口で語った自白。
「以上、すべて、監察院がこの耳と目で確かめたものにございます」
広間が、水を打ったように静まり返った。
「ガルフォード・ヴェルナー。申し開きはあるか」
陛下の問いに、ガルフォードは顔を上げた。
「……陛下。すべては、でっち上げにございます。甥は、呪いで気が触れて」
「黙れ」
低い声が、広間を貫いた。
旦那様だった。
一歩、前へ出る。私の手は、握ったままだ。
「叔父上。あなたが三年前、父の杯に毒を入れた夜、私はあなたと話をした。その翌朝、私の顔には痣があった」
「知らぬ、そんなことは」
「あなたが私の妻を連れ去り、刃を向けたとき、私はその場にいた。子どもの姿で、すべて見ていた」
旦那様の声は、静かだった。
けれど、その奥に燃える怒りが、空気をびりびりと震わせていた。
「私のことは、まだいい。だが、あなたは、私の妻を傷つけた」
握られた手に、痛いほどの力がこもる。
「それだけは、決して許さない」
ガルフォードの顔から、ようやく血の気が引いていった。
陛下が、重々しく口を開いた。
「ガルフォード・ヴェルナー。先代公爵殺害、ならびに現公爵への呪詛、公爵夫人拉致の罪により、すべての爵位と財産を剥奪する。北の塔にて、終生の幽閉を命ずる」
ガルフォードは、その場にがくりと膝をついた。
何か叫ぼうとして、声にならないまま、衛兵たちに引きずられていく。
その背中が扉の向こうに消えたとき、旦那様の手から、ふっと力が抜けた。
「……終わったな」
「はい」
私は、旦那様の手を両手で包んだ。
三年間、たった一人で耐えてきた手だった。
「お疲れさまでした、旦那様」
旦那様は、何も言わずに、私の肩に額を預けた。
大勢の貴族の前で、恥ずかしいはずだった。
けれど、私は、そのまま旦那様の背中を撫でていた。
そのとき、広間の後方から、強い視線を感じた。
振り返ると、見覚えのある三つの顔が、こちらを見ていた。
父と、継母と、クラリッサだった。




